理部次官室
「師傅。袖のところ、擦り切れてますよ」
「ああ、うん」
「あれ? また、あの箱出しっぱなしになってる。この前片付けたと思ったら、すぐに――」
「那羲」
木蓮は指でトントンと卓を叩く。
「集中しなさい」
木蓮は理部次官室で、弟子の那羲に花青素のことを教えている最中だった。だが弟子は、花青素より、辺りが気になって仕方ない様子である。
木蓮は小さく嘆息した。
「私の袖も、部屋も君が気にしなくていいんだよ。弟子は、そんなことにまで気を回さなくていい。それよりちゃんと学んでくれないと」
「もちろん僕だって、勉学を疎かにする気はありません。でも弟子っていうのは、ただの学徒とは違うんです。師傅と弟子は互いに支え合う関係なんですから、僕が師傅のことを気にするのは当たり前です」
なんだか、弟子がいっちょ前なことを言っている。
「だったら君は、私にどうして欲しいんだい?」
「そうですね。まずは手っ取り早く、お嫁さんをもらいましょう」
「は? え、何の話……」
「師傅は、身の回りのことに無頓着すぎます。というかお忙しい身で、侍女も侍従も付けないから、こういうことになるんです。もうね、侍女侍従が嫌なら、お嫁さんをもらってください。そしたらちょっとは、師傅も色々と楽になるでしょう」
「いや、でも。それは、だって……」
「だって、じゃありません。ほら、こんなよれよれで擦り切れてる深衣。こんなのを次官が着てるなんて、下の者が知ったら泣きますよ」
那羲は可哀そうな子犬でも見るような目で、木蓮の着ている衣を見つめていた。
正直なところ、木蓮は今まであまり衣服の見た目を気にしたことがなかった。絹を着ているのだって、綺麗だとか高価だとかそういうことではなく、単にその機能性ゆえだった。
絹は湿気をうまく調整してくれるので、夏は涼しく冬は暖かい。それになにより、肌触りはどの生地にも勝る。肌に長い間触れるものはできるだけ苦痛の少ないものにしたかった。その方が頭に余計な負荷がかからず、ものごとに集中できる気がするのだ。
「まあでも、お嫁さんをもらうにしても、まずはこの部屋を片付けないとですね。部屋はその人を表すと言いますから。綺麗にしておかないと、そもそも良い女士が寄ってきません」
ここまでくると那羲は世話好きを通り越して、まるで母親のようだと木蓮は思った。もはや口うるささは、姮娥の比ではない。
「ここは、これでいいんだ。これが一番居心地がいいんだから」
そう言うと、那羲はきつと目の力を強める。
「駄目です。こんな汚い部屋じゃ、もし師傅のことを好きになってくれた女がいても逃げられてしまいますよ。この前だって、ここにきた女官がびっくりして引いてたじゃないですか」
初めてこの部屋にきた女士は大抵、入って来るなリぎょっとした顔をして足早に去っていく。物が多くてごちゃついているというのもあるが、おそらくは見慣れない物に対する拒絶反応なのだろう、と思う。
それまで普通に話していても、この部屋を見た途端、まるで化け物でも見るような目で見られることもある。
別に今さら何とも思っていない。
自分にとって大事なものが、他人にとってもまた同じ、ということはないのだ。自分の興味を理解して欲しいとも思わない。ただ、そっとしておいてさえくれれば。
それでいい。
「師傅、見た目はいいんですから、お嫁さんだってすぐに見つかるはずなんです。そしたら、そんな何でもかんでも一人でやらなくて良くなるでしょう? 僕だってもう、師傅にチクチク言ったりしませんよ」
「わかった。わかったよ、私もちゃんと考えてみるから。今は、この花青素を――」
そう言って、木蓮が用意していた実験をはじめようとしたとき、コンコンと扉をたたく音が聞こえた。
また邪魔が、と思いつつ扉に向かって、どうぞと返事をする。
すると、ためらうようにギイと扉を開けて中に入って来たのは、一人の女。
木蓮はその姿に一瞬、頭が真っ白になる。
次官室に入ってきた女は、姫棋だった。