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夜の訪問者

 姫棋キキは自室で黙々と、湯煎した兎膠うさぎにかわをかき混ぜていた。


 木蓮が勧めてきた展覧会への出展作品を描くためである。


 展覧会は宮中の宮殿をいくつか貸し切って行われる大きな催しということだった。

 開催期間は七日間。その期間は宮城内が祭りのように賑やかになるらしい。

 今はまだ八月なので、展覧会まで三か月ほど準備期間があることになる。


 姫棋は展覧会に向けて、せっかくなら時間をかけて描く絵に挑戦してみようと思っていた。

 そこで今回、顔料を溶くのに使うのは于計の絵にも使った胡桃油だけでなく、鶏の卵を使うことにした。卵を使うとより鮮やかな色彩を表現しやすく、また胡桃油とも併用ができるのだ。


 だが、それを準備するのはまだ先である。



(まずは下地づくりだな)



 絵を描くのは紙だけではない。布を板に張り付けたものもよく使われる。今から姫棋が用意しようと思っているものも、木の板と麻布を使用した画板だった。


 まずは人の胴体くらいの大きさの板を、部屋の隅から持ってきて卓の上に乗せる。


 そこに、湯煎で温めておいた膠腋を刷毛で均等に塗っていく。

 塗り終わったら、その上から薄手の麻布をかぶせ、手のひらで板にしっかり密着させると、またその上から膠腋を生地にしみこませるように塗っていく。



(お次は石膏)



 膠腋に石膏を溶かす。溶けたらまた刷毛をつかって、板の上に石膏腋を薄く塗り重ねていく。このとき一度にたくさん塗るとひび割れの原因になるから注意が必要だ。数回に分けて、丁寧に、均一に、水泡が入らないよう気をつけて。



(こんなものかな)



 あとは乾かして、やすりで研磨すれば終わりだ。


 姫棋は、ふぅと額の汗をぬぐい、たすきをほどいた。

 そこへ、扉をたたく音がする。



(誰だろう、こんな時間に)



 まさかまた木蓮が来たのでは、と訝しみつつ姫棋が扉をあけると、そこに立っていたのは姮娥こうが賀紹がしょうだった。

 姫棋は意外な訪問者に驚いて、一瞬身動きできなくなる。


 こんな宮女の宿舎に、賀紹はともかく元皇族の姮娥がやってくるなんてあり得ないことだ。

 慌てて揖手し、頭をさげた。



「どうされたのですか? 御用なら伺いましたのに」


「いやなに、そなたの部屋を見に来たのじゃ」



 と姮娥は案内するまでもなく、ずかずかと部屋の奥に入って行く。

 姫棋は何かやらかしてしまったか、と思いながらすぐに姮娥の後を追う。



「ほう、本当にやっておるようじゃの」



 姮娥はそう言って、姫棋が壁に立てかけて乾かしていた絵を眺めている。

 なるほど、個室を与えた宮女が本当に絵を描いているのか確認しに来たわけだ。



「姮娥様のおかげで、自由に絵が描けております」



 深々と頭を下げる姫棋に姮娥は、堅苦しいのはやめじゃ、と手をひらひら振る。



「せっかく来たのだから、どれ茶でも飲もうぞ」



 姮娥の言葉を合図に賀紹が持っていた手提げかごを目の高さに持ち上げてみせる。これは茶道具や菓子を入れる篭だ。



(今回も、最初からそのつもりだったということか)



 姫棋は賀紹に頷いてみせ、茶を淹れる準備をした。

 姫棋が茶を淹れている間、賀紹は篭から菓子を卓の上に取り出した。


 桂花糕けいかしょうである。


 桂花とは金木犀のことで、透き通った餅の中に金木犀の花が入っている菓子である。姫棋も大好きなものだが、これほど透明度の高い桂花糕は初めてだ。まるで水晶のなかに花弁が閉じ込められたようである。



「これは賀紹の手作りでな。わしはこやつの作るこれが一等、好きなのじゃ」



 そう言って姮娥は桂花糕を一つ指でつまんでぱくりと食べた。

 勧められて、姫棋も同じように一つつまんで口の中に入れる。すると薄い皮が弾けて中から甘い果汁のようなものと、桂花の香りがふわっと口の中に広がった。


 姫棋が目をぱちくりさせながら味わっているのを見て、姮娥は呵々と笑った。賀紹も隣で満足げな顔になる。



 桂花糕がすっかりなくなると、姮娥こうがはまた部屋に置いてある絵を見ながら、茶わんを傾けていた。

 しゃらり、金の装飾が施された豪奢なかんざしが鳴る。



「そういえば、そなた木蓮とはどこで出会ったんじゃったかの?」



 気のせいか、空気がピリッと張りつめた気がした。


 姫棋が異国の出ということや妃候補だったということは、木蓮以外誰も知らない。 

 そして誰にも言わないことにしていた。どこから情報が洩れて妃候補のことが露見するか分からないからだ。

 なのでもし誰かに木蓮と出会った理由を聞かれた際の答えは、あらかじめ二人で相談して決めてあった。

 


「私が街で絵を売っているときに偶然、蔡次官の目にとめて頂いたのです」



 姫棋は遠い目をして、木蓮と出会った頃のことを思いだしている。そんな雰囲気で言った。

 姮娥は、そうじゃったか、とまた茶をすする。



「木蓮にそなたの話を聞いたときは、何ごとかと思うたが。まあ、あやつらしいといえば、らしいかの」



 姮娥はひとり納得した様子で、くっくと笑う。



「姮娥様は、もく……蔡次官とはどういうご関係なのですか?」



 姫棋はこの前から気になっていたことを聞いてみた。

 姮娥は、木蓮のことを、木蓮と呼ぶ。蔡次官、ではなく。

 いくら元皇族とはいえ、官吏の下の名を呼び捨てるのは不自然だった。


 姫棋の問いかけに、姮娥は少し困ったような表情になる。



「そうじゃなあ。わらわは、木蓮の母、といったところかの」



 姮娥は歯切れ悪く言った。母にしては姮娥と木蓮は歳が離れすぎているように思えた。



「それは姮娥様が、蔡次官を育てられたということですか?」


 姮娥は、肯定とも否定ともつかぬ顔になる。


「そなたにひとつ、昔話をしてやろうか」


 姮娥はまた静かに茶をすすった。


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