尚食局に出た怪しい男
姫棋は尚食局の休憩室、その片隅でうとうと居眠りをしていた。
昨日の夜、筆がのって、ついつい夜更かしをしてしまったのである。
休憩室では他にも宮女たちが休憩中で、おしゃべりに花を咲かせていた。姫棋はそんな彼女たちの話し声を子守唄代わりにして聞いていた。
「え、またあの男が? 大丈夫なの、綿綿」
「うん。何かされるわけじゃないの。ただ気持ち悪くて」
「局長に相談してみなよ。何とかしてくれるかもしれないわ」
「そんな大げさよ。ちょっと見られてる気がするだけだし。私の勘違いだったら恥ずかしいもの」
姫棋は半分夢の中で彼女たちの話を聞きながら、変質者が出たんだな、と思っていた。
ちなみに姫棋は変質者に付け回されたことはない。変質者に狙われるのはいつだって姐の方だった。絶世の美女が隣にいれば、あえて姫棋を狙ってくる男などいなかったのである。
むしろ姫棋は姐に付きまとう変質者を撃退する役だった。
「あんたたち! いつまで休憩してるんだい。早く厨に戻って芋の皮むきな」
休憩室に古株宮女の怒号が響いた。姫棋は気持ちよくうたた寝していたところを急に起こされ、不機嫌気味に厨に戻った。
(また芋か)
どうしてこんなにしょっちゅう芋ばかり剝かされるのかと、姫棋はここへ配属になった時からずっと不思議に思っていた。
その謎が解けたのは、つい先日のことである。
どうやら現皇帝が無類の芋好きとのことだった。
(どれだけ庶民的な舌なんだよ)
確かに夏后国でとれる芋はおいしい。じゃがいもの仲間らしいが、甘みもホクホク感も普通のじゃがいもの比ではなかった。
だからといって、一国の主が好む食材としてはなんとも地味である。
皇帝はほぼ毎日妃嬪たちと芋を召し上がるそうで、しかも栄養があるといって臣下にまで勧めているらしい。
そんなわけで姫棋たちは頻繁に芋の皮を剝かされているのだった。
姫棋が半分やけくそになりながら芋の皮を剝いていると、ふと時間が気になり格子窓から太陽の傾きを確認してみる。すると木陰の向こうに誰かいるのが見えた。
姫棋は手を止め目を凝らす。その人物は、うまく木の陰に隠れながらどこか別の場所を見つめている。
その視線の先を追ってみれば、そこにいたのは、綿綿だった。
「あれか、さっきの話のやつ」
姫棋は寝起きの不機嫌さも相まって、厨から飛び出し男のもとへ駆ける。
男は綿綿に夢中で姫棋には全く気づいていないらい。
「ここで何してる!」
姫棋が男の腕をつかむと、男は飛び上がって姫棋の方を向いた。
「な、おまえは……」
男は姫棋の知りあいだった。後宮に野菜を卸しに来ている八百屋の下男、李天である。姫棋より二つ年下で、純朴そうな風体の青年だった。
「うわあ。許してくれ。何もしてねえから!……って、あんたか」
男はふうと胸をなでおろす。
「あんたか、じゃないでしょ。李天が綿綿を付け回してる変質者だったの」
そういって姫棋は李天を木陰から引きずりだそうとする。
すると李天は驚いた様子で首を横に振る。
「変質者? 違う! 俺はただ見てただけだ」
「それを変質者って言うのよ」
姫棋はさらに手に力を込めたが、李天もそう簡単には降参しない。
「分かった。分かったよ。もう綿綿のことをこっそり見たりしないから。許してくれよ」
李天は泣きそうな顔になっていた。さすがに姫棋も少し可哀そうかなと思ってしまう。
「綿綿が気になるなら何で直接言わないの。嫁に来て欲しいって」
すると李天の頬、いや首から上が瞬時に真っ赤になった。
「何言ってんだ。俺のところになんて。そんなの絶対無理にきまってる」
「何で。言ってみなきゃ分からないでしょ」
「駄目だ駄目だ。俺なんか、稼ぎもねえし。贈り物の一つもしてやれねえんだから」
「贈り物なんて、別に高級品じゃなくてもいいんだよ」
そう言ってやっても、李天はもじもじしているだけである。姫棋は段々苛々してきた。おそらく彼の問題は金どうのこうのではない。
「よし分かった。わたしが贈り物を用意してあげるから。綿綿にちゃんと気持ちを伝えなさい」
「え? あんたが贈り物を? そんな悪いよ」
「もちろん李天、あなたも一緒につくるんだよ。じゃないとわたしからの贈り物になる」
姫棋は李天に必要な物を用意するよう伝え、その日はそのまま彼を解放してやった。
次の日、李天は言われた通りの物を持って厨に顔を見せた。
彼に頼んでおいたのは、生花である。
そして李天が持ってきたのは、立派な蘭の花だった。薄い黄色の花びらは、ほんわかした雰囲気の綿綿に良く似合いそうだ。
「よくこんな立派な花が手に入ったね」
姫棋がそう言うと、李天は照れくさそうに鼻をかいた。
代わりにというわけではないが、姫棋は李天に一本の木の棒を見せた。これは昨日の夜、姫棋が削っておいたもので、木肌はなめらかに仕上げてあり、さらに細かい蔓草の模様が彫ってある。
おかげで姫棋はまた、寝不足だった。
「なんだいこれ?」
「わたしが削った簪。これにその花をつける」
「え? 花をそのまま渡したら駄目なのか?」
不思議そうに首を傾げる李天を見つめ、姫棋は溜息をはきだした。
「李天、知らないの? 男が女に簪を贈る意味」
「知らない」
「妻になってくれって意味だよ」
姫棋自身は男からもらったことはないが、それこそ姐のところには山ほど贈られてきていた。まあそれらは全て、姫棋の筆や顔料に姿を変えていたのだが。
(わたしだったら簪なんかより、ちゃんと言葉で言って……)
と思ったところで自分には関係ないことだったと気づき、姫棋はふっと笑った。
そんな姫棋の隣で、李天はまた、もじもじしながら頬を赤く染めていた。
尚食局の裏庭の片隅に移動してきた二人は、そこで贈り物作成をはじめた。
李天を促して、花の接着作業を開始させる。先ほど厨で溶かしておいた膠を使い、姫棋が削った簪と蘭の花を接着するのだ。
李天は不器用ながらも何とか蘭の簪を完成させた。
「すげえ。一級品の簪みてえだ」
李天は自分の作った簪を満足そうに見つめる。
「夕方にはちゃんとくっついていると思うから。花がしおれる前に渡しにいくのよ」
生花を用意させたのは、李天を焚きつけるためであった。腐らないものだと、李天は綿綿に渡すのをずるずる先延ばしにしそうだったからだ。
李天はじっと蘭の簪を見つめたまま、ごくりと唾を飲み込んでいた。
後日。姫棋は李天が野菜を運んできたときに綿綿とのことを聞いた。
李天は約束どおり綿綿のところへ蘭の簪を渡しに行ったらしい。
綿綿は意外にも素直に喜んでくれたらしいが、実はすでに縁談の話があるということで、彼はあっけなく振られてしまったのだった。
ただ、李天はこれでようやく綿綿のことを吹っ切ることができたようだ。
それ以後、尚食局に変質者は現れなくなったという。