蛙の宮殿
今、姫棋は、豪奢な部屋の中で一人ぽつねんと待たされていた。
(何だかこの部屋、落ち着かないな)
昔、自国の宮廷で女官をしてた姫棋は、それなりに煌びやかな世界を見てきたつもりだったが、この夏后国の宮廷の煌びやかさは桁違いだった。
今待たされているこの部屋だって、ただの応接室ということだったがその絢爛豪華さは皇后の部屋のごとしだ。
立派な卓と椅子、技巧を凝らした華やかな燭台、窓際に垂れ下がる羅の薄布は金箔が折り込んであるのか、夕陽に照らされきらきら輝いている。
(姮娥様か…)
姫棋が待っているのは姮娥という名の女士。そして彼女の住まうこの宮は、玉蟾宮と言った。さすが月の女神の名を冠する女が住まう宮である。蟾は月に棲むと言われる生き物なのだ。
ぐえこ、ぐえこ。
おあつらえ向きなことに、この宮の辺りには蟾がたくさんいるらしい。初夏は彼らにとって恋の季節なのだ。
どうして姫棋がそんな蟾の宮に来ることになったかというと、それはあることを木蓮に相談したことがきっかけだった。
絵を描く場所の確保である。
常依依の屋敷や化粧道具屋では一室を使わせてもらって絵が描けたが、今後も毎回依頼主の家で絵を描けるとは限らない。むしろそんな機会の方が少ないだろう。
となると姫棋は自分の部屋で絵を描くことになるが、宮女の部屋というのは最低でも二人、多くて六人の相部屋だ。
相部屋で絵を描くというのは中々難しく、姫棋はいつも外に出て絵を描いていた。
外で絵を描くのは気楽でいいのだが、天候によってはしばらく絵が描けないこともある。
そうなると新しい依頼を受けたときに期日を守れない可能性があった。
ということで、なんとか個室を当てがってもらえないだろうか、と木蓮に相談したわけだ。
ただ木蓮も宮女に個室を与える権限はさすがに持っていなかった。
そこで木蓮は、宮女の元締めである姮娥という女士に直談判しろという。
宮女の長といえば宮女長だと思っていたが、どうやらさらに上がいたらしい。
(私が言って、個室なんかもらえるだろうか)
前例はない、ということだった。
個室を持ちたいなら普通、誰か要人の侍女になるしか道はない。
しかし侍女というのは要人にべったり付いているだけあって中々に忙しい役職だった。それなら体力は必要なれど就業時間がきっちり定められている宮女の方が身動きが取りやすい。姫棋にとってはやはり宮女の方が都合がいいのだ。
(前例を覆すとなると、なかなかに厳しい闘いになりそうだ)
おそらく欲しいと言って、そう簡単に個室を与えてはくれないだろう。
気を引き締め直す姫棋のもとに足音が近づいてくる。
すっと扉が開かれた先にいた人物は、宮女長の賀紹という女士であった。
(まさか宮女長直々に迎えに来るなんて)
てっきり、宮女の誰かが迎えにくると思っていた姫棋は彼女の登場に、腹の上のあたりがきゅっと縮まった気がした。
賀紹は五十くらいの歳の女で、質素な衣装を身にまとい、髪は一本の乱れもなくきっちりと結いあげられている。ほっそりした顔には厳しい表情を浮かべ、間違っても冗談が通じるような相手ではなかった。
彼女は姫棋に一瞥をくべると、さっと踵を返す。
「付いてきなさい。姮娥様のところへ案内します」
◇ ◇ ◇
姫棋が通された部屋は、先ほどの部屋より数段豪華な造りになっていた。高価な波斯国の絨毯が敷き詰められ、天井には凝った装飾が施された吊り行灯がいくつもぶら下がっている。
その部屋に一人、すっかり頭の白くなった老女が待っていた。
彼女がこの玉蟾宮の主にして宮女の元締め、姮娥であった。
姮娥は老女といっても、その瞳は爛々と冴えわたり、絢爛な襦裙をまとった姿には威厳があった。小柄ながらもすっと一本真の通った佇まいから意志の強そうな印象をうける。
(さすが皇族の血筋といったところか)
この姮娥という女士、実は元皇族なのであった。
なぜ元が付いているのかというと、その昔、彼女はとある官吏と駆け落ちし皇籍をはく奪されたのだ。
結局、彼女は宮廷に連れ戻されることになったが皇族に復籍させるわけにもいかず、自分の妹の処遇に困った前皇帝が、彼女を宮女の元締めという役に置いたらしい。
とはいえこの部屋や彼女の着ているものからして、ほとんど皇族として扱われているのでは、と姫棋は思う。
そんな曰くに満ちた姮娥を前に、姫棋は膝をつき揖手した。
「姫棋と申します」
たとえ皇帝を前にしても怯まない自信があったのに、目の前にいる女士には不覚にも声が震えそうになった。
「そなたが木蓮の言う絵師か。おおかた話は聞いたが、そなたはなぜ、そこまでして絵を描きたいのじゃ?」
「わたしにとって絵を描くことは呼吸をするのと同じなのです。それなしでは生きていけません」
「ふむ。じゃが、絵を描きたいだけなら、どこぞへ嫁にでも行った方が気楽に描いていられるのではないか?」
姫棋は一瞬、本音を告げるか迷った。でも姮娥には変に取り繕うより正直に答えた方がいい気がした。
「わたしは……男に頼って生きるなどまっぴらごめんです。自分で稼いで生きていきたい」
その言葉に目を丸くした姮娥だったが、やがて呵々と笑い出した。
「なるほどのう。では、そなた女が好きか?」
「は? あ、いえ。そういうわけではありません」
「そうか。ならば、おぬし……」
そう言って姮娥は椅子から立ち上がり、ずいと姫棋に顔を近づけてきた。
「まだ男に惚れたことがないのじゃろう」
姮娥はにんまりと微笑んでみせた。
威厳のある彼女から放たれた意外な言葉に、姫棋は目を瞬かせる。
(この人…)
なるほど、官吏と駆け落ちするだけのことはあるようだ。
横に立っていた賀紹をちらりと覗いてみたが、彼女は姮娥の言葉にも全く動揺している様子はない。きっと姮娥は普段からこういう人なのだろう。
姫棋は最初に感じたのと、また別の恐ろしさを姮娥に感じていた……。
「宮女に個室をやるのは構わんが、おいそれとやったのでは面白うないしのう。どれ、そなたが、わらわの気に入る絵を描けたら個室をやる。というのでどうじゃ?」
どうじゃ? と聞かれても、姫棋には「是」以外の返答などできようはずもない。
「何の絵を描けばよろしいでしょうか」
すると姮娥はまた、にんまりと含みのある笑いを浮かべた。
「『誰のものでもあるようで、誰も手に入れられない、決まった日に姿を隠す恥ずかしがり屋』を描いてもらおう」
「ええっと? それは、どういう……?」
「質問はなしじゃ。そなたなりに解釈して、わらわの気に入る絵に仕立てよ。そうさな、期限は日付が変わるまでとしようか」
そう言うと姮娥は賀紹に目で合図した。
「それでは別の部屋に移ってもらいます。紙や筆は部屋に用意してありますから、それを使いなさい」
用意していたということは、最初から絵を描かせるつもりだったということだ。とんだ試練を課せられてしまったものである。しかも、まずはお題の謎かけを解かなければ、絵の描きようがない。
(制限時刻まで、三刻《六時間》足らず)
さて、間に合うか。
姫棋は賀紹に連れられ、用意された別室へ向かった。