流砂の果て
「……行きたくない」
そう呟きながら、木蓮は戸部殿に向かっていた。
「何言ってるんですか、師傅が行きたいって言ったんでしょう」
一緒についてきたのは弟子の那羲である。彼は真っ黒な髪を後ろで一つに結び、見た目も性格もさっぱりした青年だった。
「そうだけど……」
木蓮は戸部、というより戸部殿にいる、ある女士に会うのを躊躇っていた。しかし今回、于計の話を聞くならその女士以外に適している者はいないのである。まさか戸部の長官や次官に、先月死んだ于計の話を聞いたりしたら何を思われるか分からないし、他に戸部に知り合いはいなかった。
「僕は嶺玲さんに会うの久しぶりだから、嬉しいですけどね」
嶺玲というのが今から会いに行く女士であり、木蓮が那羲の前に面倒を見ていた弟子でもあった。
戸部殿の前に着いた木蓮は、立ち止まり殿を見上げる。
戸部殿は役所群の最奥に位置し、六部最大規模を誇る理部に比べればその殿はずいぶん小さく感じた。殿の周りにはたくさんの花が植えられていて、厳かな雰囲気の他の殿とは趣が異なっていた。
おそらくその理由は、六部のなかで最も女士官吏が多いことが関係しているだろう。戸部は官吏のうちおよそ七割が女士で占められているのだ。
殿の装飾一つをとっても女士が好みそうな、繊細で華奢なものが多く取り入れられている。
いつまでも中に入ろうとしない木蓮に、那羲はもの言いたげな目を向けさっさと戸部殿の中に入って行ってしまった。しかたなく木蓮も彼の後に続く。
戸部殿に入ってすぐの広間には花瓶がいくつも置いてあり、艶やかな薄紫と白の芍薬が見事に生けられていた。
木蓮はせわしく歩き回る官吏の一人に声をかけ、嶺玲を呼びに行ってもらう。
二人は目立たぬよう人気のない透廊に移動し、嶺玲を待った。
透廊の欄干にもたれ、吹き抜けていく風を心地よく感じていると、ふいに那羲が口を開いた。
「それにしても、師傅が嶺玲さんの名前を忘れているとは驚きました」
「いやでも彼女の存在を忘れていたわけではないよ。ただ……すぐに名前を思い出せなかっただけだ」
木蓮が口ごもりながら答えると、那羲は本当ですかぁ、と訝し気な目で睨む。
「ああ僕もいつか、師傅に忘れられる日が来るんだろうな」
那羲は大げさに嘆いてみせた。
木蓮とてさすがに元弟子の存在まで忘れるわけがない。しかし、少しでも関わりが薄くなった人物の名前はすぐに記憶から消去されてしまうのだ。そうやって要らない情報は消していかないと、必要なことに頭を使えなくなる。
ただ嶺玲に関しては存在ごと忘れたい、と無意識に思っていたかもしれなかったが。
「お待たせしました」
蔡次官、と凛とした声が後ろから聞こえた。
ふり返るとそこには、華やかに髪を結いあげ薄紫色の襦裙に身を包んだ女が木蓮を見上げていた。
彼女が木蓮の元弟子、嶺玲である。
嶺玲は非の打ちどころのない流れるような揖手で礼をした。いつかは木蓮のことを師傅と呼んでいた彼女も、今ではもう一人前の官吏である。
「急に呼び出してすまないね」
「いえ、とんでもありません。むしろ私はもっと蔡次官とお話したいくらいです。他の師弟などは、もっと頻繁に交流しておりますもの……」
そう言って目を伏せる嶺玲に、木蓮は表情を変えなかった。
「あまり人に聞かれたくない話だから、裏の芍薬園に行こうか」
戸部殿の裏手にある芍薬園はちょうど見ごろを迎えていた。薔薇にも似た、甘く清楚な香りが匂い立つ。
そんな園をゆっくり歩きながら、さっそくだけど、と木蓮が切り出した。
「君は于計という男のこと、知ってるかな?」
嶺玲はその名前を聞いて驚いた顔になる。
「どうして、蔡次官が彼のことを気にされてるんですか?」
「大したことではないよ。少し気になることがあるだけだ」
そう言う木蓮の顔を、嶺玲は探るように見つめていたが、彼女はそれ以上追及せず「そうですか」とだけ返事をした。
「私は同じ班にいましたから、于計のことはよく知っている方だと思います」
「じゃあ、刑部に捕らえられる前に何があったか教えてくれるかな」
嶺玲は、于計が酒乱ではなかったこと、官吏としてあまりに不適で心を壊してしまったこと、を話してくれた。
宮廷内にごろごろ転がっているような内容だっただけに、木蓮は早くも于計の話に興味を失いつつあった。が、一緒に話を聞いていた那羲の方がむしろ興味を掻き立てられたようだ。首を傾げながら嶺玲に尋ねる。
「それじゃ于計さんが戸部の金に手をつけたのは、どうしてだったんでしょう。金に困っていたわけではないんでしょう?」
そうね、と梁麗は肩を落とした。
「彼はたぶん、お金が欲しかったんじゃなくて、捕まりたかったんだと思う」
「捕まりたかった?」
さすがにこの意見には、ぼーっと芍薬を見つめていた木蓮も興味を引き戻された。
「いくら心を病んでいたとはいえ、金の盗み方はひどく稚拙なものでした。まるで見つけてくれと言わんばかりだったのです」
「じゃあ仕事から逃げるために罪を犯して、牢へ入れてもらったってことですか? でも普通そういうときって、休むとか辞めるとかって考えません? 何で牢なんか」
那羲の言うとおりである。于計は刑部に連行されるその日まで毎日戸部には通っていたという。それをどうしていきなり牢に逃げ込むなどと思い至ったのか。
「于計は十回目でやっと科挙に受かったそうなの。だから、そうそう簡単には辞めたくなかったんじゃないかしら。周りの者だって反対しただろうし」
つまり于計は、どれほど辛くとも自ら職を辞することは出来なかった。だから罪を犯し誰かの手によって、仕事から逃れようと考えた。ということである。もはや正常な精神状態でないことは明らかだ。
「于計はそんなに追いつめられていたのか」
木蓮がボソリと言うと、嶺玲が言いづらそうに口を開いた。
「あとこれは、あまり大きな声では言えませんが……」
と木蓮をちらりと見る。木蓮は先を促すように頷いてみせた。
「侍女の常依依様はご存じですよね? あの方、実は于計の許嫁だったのですが、于計は仕事より、常依依様から逃げたかったのではないかと思います」
目を瞬く木蓮と那羲に、嶺玲はいっそう声をひそめ続けた。
「常依依様は、よく戸部の官舎に来られていたのですけど、来るたびに泣き叫びながら于計を責めてらっしゃいました。真っ赤に泣き腫らした常依依様に、道で何度かすれ違ったこともあります。たぶん彼女も焦っておられたんでしょうね。十年も待たされた挙句、さらに婚姻の日付が伸びていたそうですから」
その意見に那羲が口を開いた。
「だとしてもそんなに責めるなんてひどいですね。于計さんだって辛い思いしてるのに」
「そうよね。彼、すまない許してくれって、戸部殿でも一人で呟いてたのよ。何かもう、見てて痛々しかったわ」
本来ならば支え合う関係となるはずだった二人は、互いを苛む関係へと陥ってしまった。それはまるで流砂に飲み込まれるように、もはや自分たちの力では抜け出せぬものだったのだろう。
(こんな話を聞いて絵にしたところで、常依依が喜ぶだろうか)
木蓮には到底必要な情報であったとは思えなかったが、それでも姫棋は戸部でのことを聞くまで絵を描く気はないだろう。
「助かったよ、嶺玲」
木蓮の言葉を聞いた嶺玲は嬉しそうに顔をほころばせる。そしておずと口を開いた。
「このあと、もしお時間があったら三人でお茶でも飲みませんか。こんな機会なかなかありませんし……」
「いや、この後は用事があるんだ」
「ではまた今度……?」
木蓮は変わらぬ微笑みを浮かべたまま答える。
「しばらく忙しくなりそうだから」
「そう……ですか。お忙しいですよね」
そう呟くと、嶺玲は明るい表情で揖礼し、戸部殿に戻っていった。
戸部殿からの帰り道、珍しく那羲は不機嫌な様子だった。
「あれはどう考えても、冷たすぎます」
唐突に那羲が言った。
「何が?」
木蓮は平然と答える。その反応に那羲は怒りの沸点を超えてしまったらしい。
「何って、師傅が! 嶺玲さんに! 冷たすぎるってことですよ。どうしてお茶くらいつき合ってやらないんですか。元弟子なのに、あそこまで冷たくする必要あります?」
「そんな冷たかったかな」
悪びれる様子のない木蓮の態度に、那羲は苛立ちを露わにする。
「冷たかったですよ! 師傅が忙しいのは知ってますが、嶺玲さんとお茶するくらいの時間あるでしょう。嶺玲さんだって忙しいなか于計の話を教えてくれたのに」
あんな言い方、と那羲はまるで自分ごとのようにぶりぶり怒っていた。
木蓮は、けっして嶺玲が嫌いなわけではない。
彼女は溌溂としていて物覚えもよく、弟子になったばかりの頃は木蓮も彼女をとても可愛がっていた。弟子としても、たぶん一人の女士としても。
それが一変したのは、木蓮があることに気づいた時だった。木蓮は、嶺玲が自分に対して恋情を抱いていると気づいてしまった。
師弟が情を通わせること自体は何も珍しいことではない。謀略渦巻く宮中で、互いを守り合うように硬く信頼し合った二人がいれば、それが師弟以上の情に変わるのは必定ともいえよう。
それに木蓮と嶺玲は歳も二つしか違わない。傍から見ればお似合いの男女に見えていた二人は、いずれそのまま夫婦になるのではないか。そんな声が宮中のあちこちから聞こえてきた。
しかし木蓮は次第に、自分へと向けられる彼女の眼差しに耐えられなくなっていった。
嶺玲が自分に恋情を抱く理由がわからない。彼女は都合のいい理想を自分に重ねているだけではないのか。
彼女に見つめられる度、疑念のような思いがふつふつと湧きあがった。
嶺玲のことは弟子としてちゃんと面倒を見てやりたい。しかし一方で、自分を見つめる彼女をひどく疎ましく感じる。
そんな相反する感情に揺さぶられていることが、木蓮は苦しくてたまらなかった。
幸いなことに優秀な嶺玲は独り立ちも早く、彼女は勤務先として理部ではなく戸部を選んだ。
それからというもの木蓮は、嶺玲と顔を合わせないよう避け続けていたのだった。
「じゃあ、もう僕はこれで失礼します」
そう言い捨てるようにして那羲は官舎へと戻っていった。
その背中を見送った木蓮は、ひとり常邸へと向かった。