4.「異変」
「あら、起きたのね。おはよう、アカネ」
この世界へ来て二日目。朱音が目を覚ますと、ベッドの隣で座るリーネが声をかけてきた。その隣にはイリナの姿もあった。
「体の調子はどう?気分は悪くない?」
「えっと……多分、大丈夫。気分は今までで一番良いかな、なんて……」
学校に行くのが嫌で毎朝が憂鬱だった頃とは違う。もう地獄のような学校に通う必要はないのだ。そして何より、隣にはリーネがいる。彼女の存在が朱音の心を支えていた。
「うんうん、もう大分良さそうだね。けど今日は一応、まだ魔力を使うのは控えておいたほうがいいよ」
リーネの隣に座るイリナが言う。彼女は朱音の様子を見に来てくれたらしい。
「す、すみません。わざわざありがとうございます」
「いいよいいよ、気にしないで。それでさ、今日は依頼受けないで、街の中でも見て回ったら?アカネちゃんにとっては初めての土地なんだしさ、気になるでしょ?」
朱音はこの世界のことをまだほとんど知らない。この先冒険者として生きていくなら、少しでも知識は増やしておいたほうが良いだろう。
「私、街を見に行ってみたい」
「そう?なら私が案内してあげるわ。一度ギルドに寄って、アカネの報酬金を受け取ってから行きましょうか」
初めての世界で、リーネとお出かけ。誰かと出かけること自体初めてという事もあり、朱音は心を弾ませていた。その気持ちはリーネにも伝わっているようで、朱音を見て笑っている。
「そんなに楽しみ?」
「う、うん。リーネと一緒にお出かけ……」
そうして笑い合う二人をイリナはじっと見つめていた。相変わらずの笑顔だが、視線からはやはり圧を感じる。イリナが何を考えているのか分からず、朱音は落ち着かなかった。
「なんかリーネとアカネちゃん、昨日より仲良くなった?」
「そうかもしれないわね。色々お話をしたから」
「ふーん。そっかぁ」
イリナは朱音に目を向けた。穏やかでないその眼差しに朱音は思わず後退りするが、イリナはにっこりと笑って言う。
「私とも仲良くしようよ。そんな距離感ある言葉遣いはやめてさぁ」
「え?あ……。わかりました……」
「変わってないじゃーん。ほら、もっと友達みたいに!」
「えっと、うん。わかった……」
ただ単に仲良くしたいだけだとは思えなかった。何か別の意図があるような、そんな気がしてならない。ただ、イリナは朱音に魔法のことや魔力の使い方を教えてくれたり、体調を気にかけたりしてくれている。特に悪意も感じられず良い人ではあるため、何か悪いことを企んでいるわけではないだろう。
朱音とイリナのやり取りをリーネは微笑ましそうに眺めていた。
◆
朱音達は宿で簡単に朝食を済ませ、その後ギルドへと向かった。ギルドへ入るや否や、多くの冒険者達が朱音の周りに集まってきた。
「(あんた、キクカワ・アカネだよな!?)」
「(聞いたぜ!森を吹っ飛ばしたってよ!)」
「(とんでもない魔力量なんでしょう?凄いわ!)」
朱音には言葉が理解できないが、彼らが興奮気味なのは分かった。その勢いに気圧され、朱音は困惑してしまう。どうすればいいか分からず口をパクパクさせていると、リーネが前に出た。
「ちょっと、アカネが困ってるでしょう?」
「(ああ、すまんすまん)」
リーネに言われ冒険者達は離れて行ったが、そんな中新たに朱音達の元へやってくる者がいた。赤髪で背の高い青年だ。早足で近づいて来て目の前で立ち止まる。彼の視線は朱音ではなく、リーネに向けられていた。何やら険しい表情だ。
「(リーネ!パーティを組んだってのは本当か!?)」
「え、ええ。この子が困ってたから……」
青年は一瞬朱音を睨むと、額に手を当てて溜め息を吐いた。
「(クソ、俺とは組んでくれねぇのに……)」
「いや、だから……」
よく分からないまま二人のやり取りを眺めていると、イリナが朱音に言った。
「あの人はメルドっていうんだけどね、昔からリーネのことが好きなんだよねぇ」
「そうなの!?り、リーネはメルドさんのこと、どう思って……?」
「全然その気はないみたいだよ。リーネがそう言ってたし。メルドはもう何十回も……いや、何百回?とにかくずーっと好きだとか付き合って欲しいだとか言い続けてるけど、全部断ってるしね」
リーネがメルドから恋心を抱かれていることを知り、一瞬何か胸がつかえたような感覚になった。対してリーネは特に彼に特別な感情は抱いていないらしく、その事を聞いて朱音は不思議と安心していた。
「それと、パーティ組んで欲しいって何回も言ってるんだけど、全然組んで貰えてないんだよ。それなのにリーネはアカネちゃんとパーティ組んでるから、羨ましいんだろうねー」
「そうなんだ……」
「ちなみに私もメルドと一緒。リーネってば全然パーティ組もうとしなくてさー。組んで貰えたアカネちゃんに嫉妬しちゃうよ」
そういえば昨日、リーネがパーティを組むなんて珍しいとイリナは言っていた。何故、パーティを組もうとしないのか。何故、朱音とは組んでくれたのか。
そんな事を考えていると、朱音達の元へ背の低い銀髪の少年がやってきた。何かを言って申し訳なさそうに頭を下げる。言葉は分からないが、おそらく謝罪だ。少年はメルドをリーネから引き離し、そのまま連れて行った。朱音はなんとなく、少年は「うちのメルドがすみません」というような事を言っていたのではないかと思った。
「もう、メルドったら……。昔からああなんだから」
「メルドさんとはどういう関係なの……?」
「うーん。なんて言うのかしら」
リーネは過去に、当時子供だったメルドを魔物から助けたらしい。それからというもの、メルドはリーネにベタ惚れになってしまい、それが現在まで続いているそうだ。
「小さい頃にこんな綺麗なお姉さんに出会ったら、そりゃあ惚れちゃうよねぇ」
イリナの台詞に、朱音は一つ疑問が浮かんだ。メルドはリーネよりも年上のように見えた。であれば、メルドが子供だった頃はリーネも子供だったのではないか。しかしイリナの言い方だと、子供だったメルドが、お姉さんと呼べる容姿のリーネに出会ったかのようだ。
「あ、あの……リーネって何歳?」
「私?百二歳よ」
「へ?ひゃ、ひゃく……?」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。エルフの寿命が人間より長いとは聞いていたが、まさかリーネの年齢が三桁を超えているとは。
「エルフとしては大したことないわ。まだまだ子供扱いよ」
「確かに、リーネはまだ子供かもねぇ」
イリナはニヤリと笑って言う。意地悪っぽい表情にリーネはムッとする。
「ちょっと。どういう意味よ」
「だってさー、ねぇ?百年も生きてきて、恋愛未経験でしょ?キスもした事ないんだよね?」
「なっ……。別にそれは関係ないじゃない!キスなんて、誰とでもするようなものじゃないんだから。したい相手がいなかっただけよ」
「あはは、そっかそっかぁ。したい相手がいない、ね……」
リーネの言葉に、イリナが一瞬表情を曇らせたことに朱音は気がついた。そしてすぐにまた、いつも通りの笑顔に戻る。
「そーやって、ちょっとこういう話をしただけで顔赤くしちゃうところとか、子供だよねぇ」
イリナの言う通り、リーネは頬を赤く染めていた。悔しさと恥ずかしさの入り交じった表情でイリナを睨みつける。しかしリーネは何も言い返せなかった。
「イリナはしたことあるの……?」
「あるよー。それ以上のこともね」
朱音が問いかけると、イリナは何でもないことのように答える。それ以上のこと、という言葉の意味するところを想像し、朱音は思わず顔を覆ってしまう。
「可愛い反応するねぇ。アカネちゃんもしたことないんだ?」
「あ、その……。無理やりされたことなら……」
「……えっ」
学校で行われた朱音への嫌がらせの中で、男子生徒からキスなどの行為を強要されたことがあった。とにかく不快で、その後何度も吐いてしまったことを覚えている。
「えっと……。なんか、ごめん」
イリナは特に追及せず、それ以上は何も言わなかった。リーネは朱音を慰めるように背中をさすっていた。
「ありがとう、リーネ。でも、私は大丈夫だから」
「本当に?辛いこと思い出しちゃったんでしょう?」
「うん、でも大丈夫。リーネがそばにいてくれるだけで、私は嬉しいから」
リーネの手を取り、見つめ合う。リーネは先程よりさらに赤くなり、恥ずかしそうに顔を逸らした。照れている様子がなんとも愛おしい。
「……仲良くなりすぎじゃない?一晩の間に何があったの……?」
呆れ気味に呟くイリナ。その顔には焦燥の色が浮かんでいるように見えた。
「お互いのことを色々話したからかしらね。相手のことを知れば、親しみやすくなるでしょ?」
「それにしたって……。いやまあ、別にいいんだけどさ」
そう言いつつも、イリナは二人のことを気にしていた。
話をしていて忘れそうになっていたが、今日ギルドに来た目的は朱音の報酬金を受け取るためだ。リーネと共にカウンターに向かう。朱音の代わりにリーネが受け付けの女性とやり取りし、朱音は女性から報酬金を受け取った。布でできた袋に十数枚の硬貨が入っていた。
「これって、どれくらいのお金なの?」
「銀貨十四枚だから……。そうねえ、四日は生活できるってぐらいかしら。宿に泊まって食事してたら大体使い切っちゃうわ」
「四日……」
高いのか安いのか分からない。リーネの言う通りなら、四日に一体エキュールを討伐するだけで生きていける。そう考えると高いのかもしれない。ただ、魔物との戦いでは負傷したり、死んでしまう可能性だってある。それにしては安いような気もする。結局どうなのか、朱音にはよく分からなかった。
「エキュール一体ならこんなものね。危険な魔物だと、一体でも半年は遊んで暮らせるくらいの報酬金が出たりもするわ」
依頼の報酬金は、難度によって金額も異なる。魔物の討伐依頼の場合、基本は対象の魔物が強いほど報酬金が増える。エキュールは大した強さではないらしく、金額が低めのようだ。朱音にとってはエキュールですら怖くて仕方がないのだが、本当に冒険者としてやっていけるのだろうか。一瞬そんな不安を感じたが、リーネと一緒なら大丈夫だろうとすぐに考え直した。
報酬金の受け取りが終わりギルドを出ようとすると、無精髭を生やした白髪の男性に声をかけられた。
「お、アカネじゃねえか」
「へ?だ、誰ですか……?どうして名前を……」
「昨日、リーネから聞いたぜ。森を吹っ飛ばしたってな!とんでもねえ奴が来たもんだ。はっはっは!」
妙にテンションが高い。そしてうるさい。一体なんだというのか。
「この人はここのギルドマスターよ。ギルドで一番偉い人って言えば分かりやすいかしら」
「おう、俺はギルドマスターのドワイトだ。よろしくな!あんたのことはリーネから色々聞いたぜ。別の……いや、ここじゃ言わねえ方がいいか」
おそらく、朱音が別世界の人間であることを伝えられているのだろう。
ドワイトと話していて、朱音はふと疑問に思った。
「……あれ?話せてる……。もしかして……」
「ああ、悪いな。昨日あんたが気ぃ失ってる間にクベルサかけちまった」
また知らないうちに魔法をかけられていたらしい。クベルサだから良いものの、気付かぬ間に悪人に何か危険な魔法をかけられてしまう事もあるのではないか。朱音は怖くなってしまう。
朱音が勝手に不安になっている間に、イリナがドワイトと話していた。
「ねえマスター、なんか思ってたより魔物の動き大人しくない?」
「ん?ああ、そうなんだよな。あんだけ魔力を撒き散らされりゃあ、普通はもっと活発化するもんだが……。ばら撒かれた魔力は減ってるからな、確実に吸収はされてるはずだぜ。まるで何かに備えて魔力を溜め込んでるみてえだ」
「この辺りの魔物にそんな知能あるかなぁ……」
「ただの魔物って事はねえだろうな。最近の事も考えると……もっとやべえ奴らが動いてるかもしれねえ」
通常、多量の魔力を得た魔物は能力が向上し、凶暴になることが多い。しかし大量の魔力を撒き散らされた森周辺の魔物は、想定よりもかなり大人しい様子らしい。その原因はわかっていない。
ちなみに魔力が撒き散らされた原因は朱音だ。森を吹き飛ばしてしまったときに放出した魔力を魔物に吸収されているようだ。
「わ、私のせいで……!?ご、ごごごめんなさい!ごめんなさいごめんなさい!!」
「ああ気にすんな。もし魔物が暴れたって、うちの冒険者共がどうにかするさ」
ドワイトはそう言うが、もし自分のせいで誰かに危険が及んでしまったらと、朱音は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。朱音が勢いよく頭を上げ下げして必死に謝っていると、ドワイトは思い出したように言った。
「そういやリーネ、こいつに異世界人の話はしたのか?」
異世界人という単語に、朱音の動きが止まる。異世界とは別の世界のこと。異世界人は朱音のように別世界から来た人間のことだろう。その異世界人の話とは一体なんなのか。
「いえ、まだ……」
「そうか。まあ色々気を遣ってのことなんだろうが、一応早めに話してやったほうが良いと思うぜ」
ドワイトはそう言い残し、ギルドの奥へと姿を消した。リーネは顎に手を当てて考え込んでいる。
「い、異世界人って……?」
「……やっぱり気になっちゃうわよね。変に気負わせたくないから黙ってたんだけど……。そうね、確かに話しておくべきね。人目のないところ……後で宿に戻ってからでも話しましょ」
話が終わり、朱音達はギルドを後にした。これからアンミエトの街を見て回るということで朱音は楽しみにしているのだが、リーネもイリナも表情がぱっとしない。
「……大丈夫かなぁ」
「分からないけど……。でも、確実に何か起こるでしょうね」
何やら不安そうに話す二人。どういうことなのか朱音にはよく分からない。
「あ、あの……。どうしたの……?」
「さっきマスターと話してたことなんだけどさー……」
朱音の質問にイリナは暗い様子で答えた。
数ヶ月ほど前から、この世界──ジェタントでは魔物の活動が活発化しているらしい。そして更に、最近は魔人の目撃例があるという。魔人とは人格を持つ魔物のことで、過去にはジェタントを襲撃したこともあった。ここ数百年の間、魔人が姿を現すことはなかったのだが、最近になって目撃例が出ていることで再び魔人が襲撃してくるのではないかという憶測が立っているそうだ。
そして、今回の魔物の様子。朱音が放出した魔力により凶暴化するはずだった魔物が、想定よりも遥かに大人しい。まるで何かに備えて魔力を溜め込んでいるようだとドワイトは言っていた。
「ジェタントへの襲撃に備えて、とかじゃなければ良いけど……」
「……まあでも、不安になっていても仕方ないわ。せっかく朱音が楽しみにしてるんだから、今は暗い顔していたらダメよね」
そう言って笑顔を作るリーネ。無理に表情を作っているように見える。無理にでも笑って、朱音を安心させようとしてくれている。朱音にはそれが嬉しかった。
「私、リーネの笑顔が好き」
「なっ……。ちょっと、何よ急に」
頬を染めるリーネを朱音はじっと見つめる。彼女は照れやすいのだろうか。やはり可愛い。
「さっきから何なのさ、見せつけてる?」
「な、何をよ!?」
見つめ合う二人の間に、イリナが口を尖らせて割って入る。そうして話しているうちにリーネとイリナの表情からは次第に不安の色が消え、自然な笑顔へと戻っていった。
そして明るい空気で、朱音はリーネ達に案内されながら街を見に行くのだった。