1.「始まり」
「……ん」
喜久川朱音が目を覚ますと、視界に青空が飛び込んできた。夢でも見ているのかと思ったが、徐々に意識が覚醒し、これが夢ではないことを認識する。
体を起こして周囲を見渡すと一面に木々が生い茂っている。どうやら森の中のようだ。
朱音は困惑していた。ここは一体どこなのか。何故、自分はこんな場所にいるのか。
「……死後の世界?」
考えられるのはそれぐらいだった。なぜなら朱音は死んだはずだから。もし死なずに助かっていたとしても、こんな森の中にいるという状況はありえない。
困惑しながら自分の体に目を向けると、高校のセーラー服を身につけていた。体に異常はなさそうで、特に問題なく動かすことができる。
朱音は立ち上がって改めて周囲を見回すが、森が広がるばかりで他は特に何も見当たらない。
恐る恐る歩き初める。目に入るのは木々ばかり。しかし少し歩いたところで何かを発見した。
それは小動物の後ろ姿のようだった。リスのように見えたが、その顔には鳥の嘴のようなものがついている。見た事のない生物だ。
ゆっくり近づいていくと、三メートルほどまで接近したところで鳴き声を上げはじめた。威嚇かとも思ったが、そうではなかった。
草の擦れるような音と、大きな足音のようなものが聴こえてくる。その音は徐々に大きくなり、近づいてくるのがわかる。そして木の間から音の主が姿を現した。
リスのような体に、鳥のような嘴。そこにいる生物と同じような姿だが大きく異なる点があった。それは巨大な体だ。二メートルはあるのではないか。
「……えっと、この子のお母さん?」
語りかけても反応はない。人語を理解できるような存在には見えない。
その生物は大きく吠えると、朱音に飛びかかった。咄嗟に横へ跳び間一髪で避けられたものの、そのままの勢いで体勢を崩し転倒してしまう。そして立ち上がる間もなく、再び生物が飛んできた。このまま巨体に押し潰されれば無事では済まない。
もう駄目だ、と思ったその時。
生物が飛びかかってくるよりも早く、別の何かが朱音に飛びついた。何かに抱きしめられながら地面を転がり、朱音は生物の攻撃を回避することができた。
朱音を助けたのは一人の少女だった。長く美しい金髪に、透き通った白い肌。翠色の瞳は宝石のように輝いていたが、それよりも印象的なのは尖った耳だ。
少女は素早く立ち上がると、朱音を庇うようにして生物と対峙した。少女は剣を構える。何か話しているようだが言葉が理解できなかった。日本語ではない。英語でもなさそうだ。
生物はその言葉を理解している様子はなく、大きく咆哮して少女に飛びかかった。少女は軽い身のこなしでそれを避け、背後から生物の首を切り落とす。一瞬の出来事であった。
大きな生物の体はそのまま動かなくなり、小さいほうの生物はいつの間にか姿を消していた。
少女は朱音に目を向ける。よく見ると少女の額には菱形の赤い宝石のようなものがついていることに気がついた。顔立ちは整っており、これまで見た誰よりも美しく魅力的であった。
何かを語りかけてくるが、やはり言葉が分からない。朱音がオロオロしていると少女は手のひらを朱音に向け、何か唱えた。
「これで話せるでしょ?」
少女の言葉が理解できる。先程までと変わらない、朱音の知らない言語なのだが、少女の発言内容が理解できるようになっていた。
知らない場所で謎の生物に襲われ、耳の尖った美しい少女に助けられ、知らないはずの言語を何故か理解できるようになり……訳の分からないことばかりで朱音は混乱していた。
そんな朱音を安心させるよう優しい口調で少女は語りかける。
「大丈夫よ。もうあの魔物は倒したし、何かあればまた私が守るから。それよりあなた、怪我はない?」
「あ、ありがとうございます……。怪我は、ないです……」
少女は朱音が負傷していない事を確認すると、不思議そうに朱音を眺めた。
「変わった格好ね。それに知らない言語……。あなた、どこから来たの?」
「それは……」
この場合、何と答えれば良いのだろうか。住んでる県か、市か。それとも日本と言うべきなのか、ここがどこなのかによって変わってくるだろう。
「あの、ここってどこなんですか?死後の世界……?」
「死……!?な、何を言ってるの?私は死んでないわよ?あなただって生きてるじゃない」
死後の世界ではない、となれば一体どこなのか。死んだはずの自分が何故生きていて、何故ここにいるのだろう。そんなことを考えていると少女が口を開く。
「ここはアンミエトの東にある森。時々危険な魔物も出没してるし、あんまり立ち入らない方がいいわよ」
聞き馴染みのない地名と単語。頭がパンクしてしまいそうになる。理解するのは諦め、とりあえず今の状況を説明することにした。と言っても話せるのは自分が死んだはずである事と、気がついたらここにいた事ぐらいだが。それを伝えると少女は顎に手を当てて首を傾げた。
「不思議な状況ね……」
「はい……。それで、私がいたところが……日本って分かりますかね……?」
「ニホン?聞いたことないわね」
彼女はそう言いながら地図を取り出し、広げて見せた。それを見た朱音は驚愕する。
「その、ニホン?ってどのあたり?」
「……な、ないです」
「へ?」
その地図に日本列島は載っていなかった。いや、それだけではない。朱音の知っているはずの国や地形はこの地図に一切載っていないのだ。地名と思われる文字のようなものも書かれているが、それも読むことができない。
「いや、これ世界地図よ?ジェタントの全てが載ってるはず……」
「じ、じぇたんと……?」
「知らないの!?この世界の名前よ!?」
「す、すみません……!その、他にもちょくちょく知らない単語が出てきてて……。魔物とか、アン……なんとかって」
朱音の言葉に少女は目を見開いて驚いていた。見たことのない地形の世界地図に、少女の反応。不可解な現象と今の状況から考えられるのは……。
「わ、私、もしかして…………別の世界から来ちゃったんじゃないかな、なんて……」
「別の、世界……?そんなこと……」
自分で言いながら現実味のない話だと思う。しかし他に説明がつかない。少女は何かを呟きながら考え込んでいる。明らかに朱音を怪しんでいるようだが、不安そうな朱音の表情を見てか特に追求はされなかった。
「……ごめんなさい。こんな知らない場所で目を覚まして、襲われて。怖かったわよね」
「し、信じてくれるんですか……?」
「とても信じられないような話だけど……。嘘をついているようには見えないし、そんな顔されちゃったらね。私から見てもあなたには不思議な部分があるし。それに……いえ、何でもないわ」
何かを言いかけた少女だが、そこで言葉を止めてしまう。朱音は不思議に思いつつも一先ずそれはおいておく事にした。
「あなたが別の世界から来た人間だったとして……どうしたらいいのかしら」
困ったように朱音に目を向ける少女。だが朱音も何を聞けばいいのか分からなかった。
「とりあえず街へ行きましょうか。こんなところで話すのもアレだし」
笑顔で接してくれる少女に、朱音は徐々に心が落ち着いてくる。二人は話をしながら街へと向かい始めた。
「そういえば、まだ名前教えてなかったわね。私はリーネ・クラミール。リーネって呼んでいいわ。あなたは?」
「わ、私は喜久川朱音っていいます……」
「キクカワ?」
「えっと、朱音が名前で……」
「そうなの?ならアカネって呼ぶわ」
友達になったわけでもないのに初対面で下の名前で呼ばれるとは。この世界では普通のことなのだろうか。元の世界でも下の名前で呼ばれたことはほとんどなかったため、何だかこそばゆい気持ちになる。
「まずはお金がないと宿に泊まったりもできないわね。お金は持って……ないわよね」
「はい……」
朱音が所持しているものは今身につけている制服ぐらいだ。お金はないし、仮にあったとしてもこの世界ではおそらく使えない。
「そうね……。アカネ、あなた冒険者にならない?」
「ぼ、冒険者?」
冒険者というのは冒険者ギルドに登録された人々のことを言い、ギルドに届いた依頼をこなして報酬金を稼ぐことで生活していくらしい。依頼内容は様々で、果物の採取、犯罪者の追跡、事務仕事など沢山の種類がある。リーネも冒険者として生活しているそうだ。
リーネが言うには今の朱音がお金を稼ぐには冒険者になるぐらいしかないという。基本、身分がはっきりしない人物は仕事に就くことができないのだが、冒険者であれば朱音のような状況でもなれるようだ。
生活感ある話に、これは夢ではなく現実なのだと認識させられる。
「特に稼げるのは魔物の討伐依頼ね」
「その、魔物って何なんですか?」
「魔物っていうのは、生命維持に魔力を必要とする生き物のことよ」
「ま、魔力……??」
「あー、まあその……とりあえず魔物は危険な生き物って覚えておいて。さっき森で襲ってきたのも魔物の一種ね」
ギルドには様々な依頼が届くが、その報酬金のみで生活している冒険者たちはほとんどが魔物の討伐依頼で生計を立てているらしい。先程襲ってきたような生き物を倒して稼ぐなど、朱音にはとてもやっていける気がしなかった。ただでさえ運動が苦手なのに、魔物と戦って勝てる未来が全く見えない。
そんな朱音の不安を感じ取ってか、リーネはため息を吐いて言った。
「私が手伝ってあげましょうか?」
「え?いいんですか……?」
「今のあなたを見て放っておける訳ないじゃない」
「あ、ありがとうございます……!!」
何て優しい人物なのだろう。初対面の自分にそこまでしてくれるなんて。この世界で初めて出会ったのがリーネで良かったと、彼女の優しさを噛み締める。
微笑む彼女の表情が、太陽のように眩しく見えた。
──悪意のない純粋な笑みを向けられたのはいつぶりだったか。
そんなことを考えながら朱音はリーネの顔を眺める。整った顔立ちはまるで人形のようだ。鮮やかな翠色の瞳や尖った耳のこともあり、自分の知っている人間とは全く別の存在に思えてしまう。これが異世界人というものなのか。
「……?どうしたの?」
「あ、いえ!何でもないです……!」
不思議そうな様子のリーネ。朱音は慌てて目を逸らすが、見つめていたことは確実にバレている。
◆
しばらく二人で歩き、街へたどり着いた。
「わあ……!!」
「コルグマン王国の首都、アンミエトよ」
西洋風の建物が並ぶ中世を思わせる街並みが広がり、活気のある雰囲気に包まれ人々で賑わっている。おとぎ話の世界へやってきたような感覚で朱音はやや興奮気味であった。
人々に混じって何か動物のような頭をした者もいた。彼らも周囲の人々となんら変わらぬ様子で過ごしている。
「まずはギルドに行って、冒険者登録を済ませておきましょ」
朱音は興味津々に周囲を眺めながらリーネについて行く。
人々を見ていて朱音はある事に気がついた。異世界人は皆リーネのように耳が尖っているのかと思っていたが、多くは朱音のよく知る人間と同じ形の耳をしていた。
「リーネさんの耳って……」
「え?ああ、この尖った耳のこと?私はエルフだから」
「エルフ……?」
「ちょっと魔法が得意なのと寿命が長いだけで、ほとんど人間と一緒よ。こんな事言ったら他のエルフに怒られるかもしれないけどね」
この世界では人間以外にも色んな種族が一緒に生活を営んでいるらしく、エルフもその種族の中の一つだ。そしてここにいるのはエルフだけではない。少し辺りを見回しただけでも犬のような頭をした者、猫らしき耳の生えた者、鱗をもつ者など様々だ。
まさか自分がこんな世界にやってくるとは。
そうして歩いているうちに冒険者ギルドへと到着した。
ギルドの中も多くの人が集まっており、沢山の紙が貼られた掲示板の前は特に密集していた。
そんな中、二人はカウンターへ向かい受け付けの女性に話しかける。
「(こんにちは、リーネさん。依頼を受けますか?)」
「いえ、違うの。今日はこの子を冒険者登録して欲しくて」
「(新規のご登録ですね。かしこまりました)」
リーネの言葉は理解できるが、女性は何を言っているのか分からない。二人は同じ言語で話しているはずなのに、リーネの言葉だけ理解できるのが不思議だ。そもそもリーネの言葉を理解できているのがおかしいのだが。
朱音が黙って聞いていると、女性から紙を渡された。
「これに必要な情報を書かなきゃいけないんだけど……無理よね?」
書面には文字や記入欄のようなものが記載されているが、当然読めないし書くこともできない。
代わりにリーネが書いてくれることになり、朱音は必要な情報を伝えた。と言っても書けたのは名前と性別、年齢ぐらいであり、ほとんどが空欄になってしまった。
これで本当に登録できるのかと不安になる朱音だが、少しして女性からカードのようなものを手渡された。
「それがあなたのギルドカードよ。なくさないようにね」
「あれで登録できたんですか?」
「まだ完了はしてないわ。そこの石に手を当てて」
リーネはカウンター横に置かれた三十センチほどの石を指さす。ただの石のように見えるが、朱音は言われるがままに手を当てた。
すると石が淡く光り、朱音の持つカードも同様に光った。光はすぐに治まる。
「カードを見てみて」
朱音のカードには何か紋章のようなものが浮かんでいた。
「今のは……?」
「その石に触るとね、その冒険者の居場所をいつでもギルドのほうから確認できるようになるのよ」
リーネの説明を聞き、そんな事が可能なのかと関心する。そういえばリーネがエルフは魔法が得意だと言っていた。この世界には魔法が存在する。科学技術とは違う、魔法による様々な技術がこの世界にはあるのだろう。
「カードの紋章は登録が完了した証。これでアカネもこのギルドの冒険者ってわけ」
「あ、ありがとうございます!」
朱音は受け付けの女性に頭を下げる。言葉は通じていないだろうが、女性は優しく微笑んでくれた。
そんな様子をリーネは微笑ましそうに眺める。
「それじゃ、パーティを組みましょ」
「パーティ……?」
冒険者同士でパーティを組むと、同じ依頼を一緒に受けられるようになるらしい。魔物の討伐依頼を中心にこなしているような冒険者達はほとんどがパーティを組み、協力して助け合っているようだ。
「言ったじゃない、手伝ってあげるって。だからパーティを組むの」
「は、はい!よろしくお願いします……!!」
深々と頭を下げる朱音の勢いに戸惑うリーネだが、その様子は楽しそうでもあった。
「ふふっ。ええ、よろしくね」
こうして朱音は無事に冒険者登録を終え、そしてリーネとパーティを組むことになった。突然別世界に来て不安に塗れていた朱音だったが、リーネのおかげで今は多少心が落ち着いている。
これから何が起き、どうなっていくのか。今の朱音には全く予想ができなかった。