#59 「どうしたんだ?」
階段を駆け下りても、前みたいに世界が崩れることはない。それどころか、進むほどにあの日あの時の記憶が蘇ってくるようだった。
俺はあの日もこうやって階段を下りて、伊沼のもとに急ごうとした。中庭で泣いている彼女を見つけて、心配になったのを覚えている。
これはあの日の追体験だ。だから、今は思い出せていなくても次の行動は俺の体が教えてくれた。
動き出した足は、中庭に到着すると歩みを止める。
「はぁ、はぁ……」
立ち止まってやっと、息が上がっていたことを自覚する。
目線の先には、身を抱いて震える伊沼がいる。呼吸を整えて声をかけるんだ。
一歩、また一歩と彼女との距離を詰めていく。その度に、耳に届く嗚咽が大きなっていった。彼女はまだ、俺に気付く様子はない。
「どうしたんだ?」
口が勝手に言葉を紡ぐ。記憶の再現なのか、はたまた俺の衝動が口をついて出たのか。
――ともかく。俺はついに、この世界で伊沼に話しかけることができたのだ。
「泣いてるんだよな……?」
しかし、伊沼からの反応はない。またか、と思いかけた時、彼女が顔を上げた。両の頬に透明な軌跡を描いたその瞳は、俺を見るやいなや丸くなる。
「っご、ごめんなさい……私……」
伊沼は反射的に顔を俯かせ、俺から泣き顔を隠そうとする。
「こっちこそごめん。声、かけられたくなかったか?」
その様子に申し訳なくなって、俺は彼女に背を向けようとする。
……本当に気の遣えないやつだな。泣いてるとこなんて、誰であって見られたくないものだ。それをズカズカと踏み込んでしまった。
すると、今度は勢いよく顔を上げた伊沼が、俺の制服の裾を掴んだ。
「ち、違います……! その、嬉しかったですから!」
「……それなら良かった」
まだ赤みの残った目元で見つめられ、どうしようもなくて頬を掻いてしまう。
この世界では、本当に初対面のはずだよな? それなら自己紹介くらいした方がいいか?
「えっと、遊佐勇です……よろしく」
どう名乗ったらいいものか分からず、ぎこちない挨拶になった。
「あ……よろしくお願いします……」
呆気に取られた伊沼も、同じようにぎこちなく頭を下げる。
俺はもう彼女の名前を知っている。それだけじゃない、人間じゃないことも意外とジャンクフードが好きなことも、予習用と復習用のノートを各教科で用意していることも知っている。
あの時も俺は彼女の名前を聞かなかったなと、失われた記憶を徐々に取り戻されていくのを実感する。
「その制服、うちのじゃないと思うけど……もしかして転校生とか?」
その矢先、思ってもないような発言が口から飛び出す。
やはり、今は記憶の再現。俺の意思に関わらず、あの時のセリフをなぞっているのだろう。
「そんなところです……」
「あー……なんかごめんな。これじゃあ、最悪の形で顔見知りできちゃったよな……」
今考えても、出会いとしては最悪の形だ。まぁ、俺が黙ってればいいだけだし、同じクラスになるとも限らなかったわけだが……結局同じクラスになるんだよな。この後記憶を奪われるから、黙っておくことには成功するわけだけど。
思考の途中だったが、俺の口が次の言葉を発しようとする。
「そういえば、何年生? 俺、先輩に失礼とかしてないですよね……」
「一年生ですよ。遊佐君と同じね」
ふっと笑みを零した伊沼は、俺のことを慣れない呼び方で呼んできた。
「タメなんだったらさ、遊佐君じゃなくて勇って呼んでくれないか? 名字だと、なんか距離感じてムズムズするんだ」
「分かりました」
「それと! 丁寧な口調もなしで。……お嬢様なんだったら、無理にとは言わないけど」
「ふふっ、おかしなこと言うのね。私がそんな高貴な存在に見える?」
そう聞く伊沼の表情に陰が差したのを、俺は見逃がさなかった。きっと当時は気付かなかった……いや、気付けなかった。彼女のことを何も知らない、あの頃の俺には。
――でも、俺の答えは決まっていた。
「俺には見えるけどな」
「そ、そう……?」
嬉しさを隠し切れなかったのか、伊沼の声が上擦る。こうしてみると、感情が表に出やすいのだと思う。
「振る舞いとか本物って感じするし、雰囲気とかも上品な気がする」
ここぞとばかりに褒め殺しにしたのは、当時の俺にしては攻めたことをしている。無自覚ながら異性のツボを刺激してそうだった。
「本物って感じって……ふふっ、他に言い方なかったの?」
「でも伝わるだろ? なんかこう、『こいつデキる!』みたいな感じでさ」
「そうね、伝わってるわ」
俺の懸命な説明に、伊沼はころころと笑いながら応じる。
ここまできて、ようやく伊沼の表情が完全に和らいだと感じた。あのおかしな出会い――再会をしてからの伊沼と変わりはなかった。
「ここで会ったのも何かの縁だ。学校、案内するよ」
「授業はいいの?」
「サボれば問題ないさ。幸い、ノートなら任せてあるしな」
拓斗に貸し一つだな。そのうち昼飯でも奢るとしよう。
伊沼と連れ立った俺は、ぶらりと校内を回り案内という名の冒険をした。途中先生とすれ違いそうになったりとハプニングもあったが、俺たちは楽しんでいた。屋上を案内しなかったのは、人の良さそうな伊沼を悪の道に誘うわけにはいかなかったからだ。
そうして五限目を迎えた頃のことだった。
「あら、璃々ちゃん?」
伊沼の母親が俺たちの前に現れたのは。
「――まで! 解答用紙は列ごとに回収してくるように」
「……んぁ」
長い夢にも思える時間だった。だが、あれは夢じゃない。俺はとうとう思い出したのだ。伊沼と初めて出会った、あの日のことを。
それが何を示すのか、分からないほど俺は愚かじゃなかった。
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