#53 「大丈夫よ、全く問題ないわ」
「名前で呼んでほしい?」
俺は伊沼からの”お願い”を復唱する。
朝食の席に着いた俺に、伊沼は伏し目がちにそう口にしたのだ。
「そ、そうよ……」
「あー、いや……」
想定外だ。この二日間をどう過ごすかを考えすぎて、こんなに分かりやすい展開に頭が回っていなかった。
たしかに俺は彼女と出会ってから、「伊沼」としか呼びかけたことはない。一方の伊沼は俺を最初から「勇」と呼んでいるので、この場で腹を括るべきは俺だけというわけだ。
……どうする? 正直言って、異性の下の名前を呼ぶことに慣れていない。というか、そんなことに慣れている男は遊び人に違いない。今も昔も、俺はその手の遊びとは無縁だ。
俺が二の足を踏んでいることを悟ってか、伊沼がさらに踏み込んでくる。
「悩む必要なんてないわよ。……だって、当然じゃない?」
「当然?」
「ええ、そ、その……夫婦なんだから……」
何かを期待したような瞳で、伊沼は俺を見つめてくる。ごっことはいえ、夫婦である以上姓は同じになる。この場において、彼女の名字を呼ぶことは旧姓を呼ぶことと同義ということだ。
それはあまりにもなっていないだろう。俺も男だ、そんな失礼を働くつもりはない。
「そうだな、当然だな……」
了承を言外に伝えると、伊沼の顔がぱぁっと明るくなる。
うっ、そうやって待たれると言いづらいな……。
たった今固めた決心が、足元から揺らぐのを感じる。
「り、りり……」
「声が小さい。聞こえないわ」
そんな……! 急に厳しくないですか?
これでも結構頑張った方なんだけどな……。
「これから馴染ませていくってのは……」
「却下。どうせここで見逃がしたら、『なぁ』とか『あのさ』とかで誤魔化そうとするでしょ?」
「おっしゃる通りで……」
言われてみればそうだ。その場しのぎの提案だったけど、考えてみれば後の俺はそうやって逃げかねない。……なんだか、伊沼の方が俺より俺に詳しくないか?
「じゃあ……呼ぶぞ……」
「いつでもどうぞ」
俺は口を横に開き、前歯の裏に舌をつけて”r”の発音をしようと試みる。
「……璃々」
「…………はぁ……」
うっとりとした表情を浮かべた伊沼が、手で口元を覆う。
それから微動だにせず呆けていたようだったので、心配になり声をかける。
「伊沼……?」
しかし、反応はない。
「おーい、伊沼……大丈夫か?」
突然、俺に向けられた伊沼の眼光が鋭くなる。そして、携帯を取り出し荒々しく操作をすると、俺の携帯がメッセージを知らせる。
差出人は伊沼だ。こんなに近くにいるんだから、口で伝えればいいものを。一体なんの用件――
『璃々って呼ぶまで、返事しないから』
頭を抱えたい気分だった。これが行動として表に出なかったことを褒めてほしい。
どうやら、本格的に観念しないといけないようだ。……何を躊躇うことがある。家族なんだったら下の名前で呼ぶのなんて普通のことじゃないか。
「……璃々、大丈夫か?」
「大丈夫よ、全く問題ないわ。名前呼びの破壊力にちょっと意識を飛ばしてただけよ」
それはそれなりに問題だし、あっさり返事もしてくれた。現金なやつだ。
俺の抗議の視線を受け流し、伊沼が俺の朝食を取り上げる。
「そんなことより、朝ごはん温め直すわね」
彼女の言う通り、朝食はすでに冷めていた。
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