#52 「あれは反則だよな……」
――眠れない。そう思ったのは最初だけだった。
朝の勉強会でのハニートラップは、思ったよりも心拍に影響を与えていたらしく、布団に入るとみるみるうちに瞼が重くなっていった。ということで、土曜の朝を迎えてしまったのだ。
そう、件の夫婦ごっこの日がやってきたのです。
……なんて仰々しい言い回しをする必要もないか。
「はぁぁぁ…………」
むくりと体を起こし、全身の二酸化炭素を吐き出す。
伊沼に見られたら、また「幸せが逃げる」とか言われてしまうな。けど、朝一発目くらいは許してほしい。今日と明日、母さんがいない間のこの秘め事を乗り切るためには、精神統一の一つでもしないとやってられないというものだ。
顔を洗おうと階下に向かう。リビングが近づくにつれて、フライパンを滑る食材の音が聞こえ始める。それと同時に、香ばしさが鼻腔をくすぐる。
「……あ」
「おはよう……」
「……おはよう」
気まずい。この気まずさには心当たりがある。放課後の教室で、俺の体操服を嗅ぐ伊沼に出くわした時だ。
俺の記憶の中の彼女との出会いの場面。やり取りの雰囲気もどことなく似ているような気がする。
「えっと……朝ごはん作ってるから、顔でも洗ってきたら?」
「……ありがとう、そうさせてもらう」
俺は伊沼を視界から外すため、高速で顔を背ける。そのままの姿勢で、洗面所へと等速直線運動で退散していった。
「あれは反則だよな……」
洗面所の壁にもたれ、声にため息が混じる。
業の深いことだと理解したうえで、俺はもう一度伊沼――朝食を作る彼女の装いを頭に浮かべる。
家の中で着ている白のネグリジェは変わらず、しかしその上にエプロンを纏っていた伊沼。その破壊力は、まさに百聞は一見にしかず。たとえ噂話で聞いたとしても、今ほどのインパクトは受けなかったと思う。
いやらしい、なんてことはない。それよりも、見慣れた部屋着に加えられた新たなエッセンスが、自分以外の誰もこの姿を見ることができないという優越感を再度掻き立ててきたのだ。
同級生、それも美少女のエプロン姿となると、他の同級生男子の目に触れることはまずないだろう。そう思うほど、自分だけがこれを知っているという得難い幸福感を覚えて仕方ない。
自分がこんなにも気持ち悪かったとは思わず、今一度気を引き締めなければと己を戒める。
自戒の出だしとして、まずは当初の目的通り顔を洗うことにした。
「つめたっ……」
五月も半ばとはいえ、冷たい水は冷たい。でも、その冷たさが今は頭を冷静にさせてくれた。
リビングに戻ると、すでに伊沼は席に着いていた。二人分作られた朝食が、美味しそうに湯気を立てている。
「おお、美味そうだな」
「そう、なら良かったわ。……その、一つお願いがあるんだけど、いいかしら?」
一日目も始まったばかり。だが、まだまだ前途は多難のようだ。
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