#40 「だって人間って欲に弱いじゃない」
中庭に向かおうと階段を滑るように降りていく。その途中、視界がノイズに侵される。
「っ……なんだ……!」
周囲はおろか足元まで、世界の全てが瓦解していき、景色は暗転していく。浮遊感はなかった。しかしその一瞬、意識を手放した感覚があった。
気付けば俺は昇降口前で、とある面々の対峙を見ていた。
俺のすぐ側、右手にはイサムと伊沼の姿。そこから距離を置いた左手側にいるのは、黒髪の綺麗な女性だった。艶のある長髪に目を引かれそうだが、整った目鼻立ち、凹凸のはっきり出た体格の全てが、この女性の魅力を象徴しているという確信があった。
この人は一体……?
俺にとって、あの美人を見るの初めてだった。ということは、この日以来顔を見ていない相手ということになる。
これは俺の隠された記憶の一部だ。そこに出てくる、今の俺が知らない登場人物といえば……
『ママ……』
声に憂いを染みつかせ、伊沼が口を開く。
『ママって、伊沼のか?』
『ええ……』
やはりそうだったか。記憶のないこの日にだけ出会ったのは、残すところ記憶を奪った伊沼の母親しかいなかった。
『ダメじゃない璃々ちゃん、入学するまでは人間と接触しないって約束だったでしょ?』
『ごめんなさい……。でも! 勇は悪い人じゃ――』
伊沼は自分の身を盾にするように、イサムと母親の間に割って入る。だが、彼女の強気な態度はすぐさま打ち破られてしまう。
『性格の良し悪しは関係ないわ。大事なのはあなたが安全であること。催眠をかけていない人間を信用してはいけないって、ママ教えたわよね?』
『……はい』
娘を叱る厳しい母の言葉……のはずなのに、とろっとした甘ったるい発声や相手の瞳に縫いつく視線が、感じる恐怖を溶かしていってしまう。優秀なサキュバスだとは聞いていたが、まさかここまで格が違うとは思っていなかった。
夢越しに認識しているはずなのに、俺の方も色香にやられてしまいそうだった。
もちろん、直に浴びている当時の俺――イサムが耐えられるはずもなく。
『はぁ……はぁ……すみませんでした。はぁ、娘さんを、勝手に連れ回してしまって……』
息も絶え絶えにそう言い、今度はイサムが伊沼を庇おうと前に出る。
覚えていないから、俺はこれが実際にあったことだと信じられない。だって考えてもみてくれ、俺にこんな格好いい行動が取れると思うか? 少なくとも俺は思わない。
けど、この時の俺は紛れもなく伊沼を守ろうと必死になっていた。伊沼の言う”白馬の王子様”の一端が、ようやく見られた気がした。
『随分と気張っているみたいね。対策もなしで私の前で立っていられるなんて』
『褒められてる……んですかね。そんなに、人間は信用できませんか?』
『できないわね。だって人間って欲に弱いじゃない。欲に目が眩む生き物はね、その欲を満たすためならなんだってするの。魅了魔法がなかったら、私たちだってどんな目に遭うか……』
両者の間にあるのは、種族という名の深い溝。断崖はそれ以上の意思疎通を求めなかった。
『――それじゃあ、悪いけどあなたの記憶は封じさせてもらうわね』
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