#36 「申し開きはあるかしら?」
個人レッスンは寝支度を整えてからという合意のもと、俺たちも一旦は解散することとなった。
とはいえすぐに夕飯に呼ばれ、再び顔を合わせることになったのだが。
夕飯中は大変だった。なんといっても、母さんが俺たちの関係を根掘り葉掘り聞こうとするものだから、どう答えようか冷や冷やしたものだ。一方が答えづらくなったら、もう一方が気を利かせて場を繋ぐなんて綱渡りなことをしていた結果、伊沼との連帯感は今日一日でとんでもない成長を見せたように思う。
緊張の最中ということもあって、食事の味は分からなかった。肝心の焼き菓子は任務完了後に口にしたので、格別の旨味を味わうことができた。勉強会で食べていたら、おそらくここまで感動することはなかった。神楽先輩にはちゃんと感謝を伝えなければ。
「はぁ……」
今日は無駄に疲れたような気がしてならない。とっとと湯舟に浸かって、一日の疲労を絞り出してしまおう。
洗面所へ続くノブに手をかける。が、扉は開かない。
この時点で何かを察するべきだった。後の俺はそう言うだろう。しかし、今日の俺は疲れていたのだ。一刻も早く風呂に入りたい、カポーンとひと息つきたい、カポーンって効果音を考えた人にノーベル平和賞を与えたいという気持ちで満ちていたのだ。
だから何かの拍子で鍵が閉まったのだと、爪の先で開錠を試みた。玄関を閉ざす扉と違って、家の中の鍵はコインなどで開けられるものになっている。そもそも家に入っている時点で怪しい者はいないという、一種の固定観念と言えなくもない。
だが、人生というのは何が起きるか分からないものだ。突然悪魔に出会うこともあるし、悪魔と同棲することもあるし――
「ひっ……あんた、なんで……」
こうして、悪魔の着替えに出くわすこともあるのだ。
「伊沼……なんで……」
オウム返しのように、俺も疑問を投げかけることしかできない。『なんで』と問われるべきは自分であるということには、未だ気付いていなかった。
伊沼は肌色を露出させまいと、半脱ぎになった服をどうにか体に纏わせている。腕だけじゃ押さえきれない部分は、尻尾を巻きつけて固定する徹底ぶりだ。それでもちぐはぐに出ている素肌や体のライン、下着のシルエットが逆にチラリズムを掻き立ててしまっている。
いらぬ心配、お節介、余計なお世話。頭に浮かんだ思考を表す言葉はいくつもある。
反射で出た反応は、この場に最も相応しくない類のものだった。
「あ、えっと……見えてるぞ……?」
「見てんのはあんたよ!」
潤ませた瞳、朱の差した頬で伊沼は激昂する。それと共に、洗面所のありとあらゆる物が俺に向かって飛来してくる。幾数の形状、幾数の材質の雨を受けながら、俺はやっとの思いで離脱する。
「っつつ……あそこまで派手にやらなくても……」
軽い不満が口を衝いて出たタイミングで、伊沼が開いた隙間から顔を覗かせる。
「……何か?」
「いえ、何も」
「言っておくけど、事故だって意見は認めないからね。鍵だって閉めてたのよ? それを開けて入ってくるなんて、犯行の意思があるに決まってるじゃない」
「は、犯行って……!」
俺は声高らかに異議を申し立てたかった。これは明確な事故だ。事故のはず……なのだが、それを証明できるのは被告人である俺だけ。本法廷は、いきなり最終局面を迎えていた。
助けてください弁護士さん! 俺はやってないんです! いや、正確にはやってしまったけど偶然だったんです!
「申し開きはあるかしら?」
「俺が悪かった。だから許してくれ、この通りだ」
伊沼は見たことがあるのだろうか。これが日本という国で謝罪する時の由緒正しきフォーム――土下座というものだ。この窮地から助かるためなら、地面に額をつけることにも抵抗はない。なんなら伊沼の足だって舐めてやる。……それはまずい、これ以上罪状を増やしてどうするんだ。
「ちょっと、誰も腹を切れとは言ってないわよ!」
「……は?」
「日本人って、土下座した後は切腹するって聞いたわよ。私、勇に死なれたら困るんだけど……」
「ははははっ、伊沼さん、思い出したようにハーフキャラみたいなこと言わなくても……」
伊沼の顔は真剣そのものだ。決して、安易なキャラ付けで発言したわけではないらしい。……え、じゃあ本気で俺が腹を切ると?
「嫌よ、勇……。私そんなに怒ってないから……さっきは結構許せなかったけど、あれは心の準備ができてなかっただけで……」
「えー……伊沼さん?」
耐え難い羞恥で分泌されていたはずの水分は、いつの間にか耐え難い別れのために流される涙に変わっている。
「私だって、そ、そういう時がきたら見せるつもりでいたわ。で、でも! そんな大胆に攻められるとは思わないじゃない!」
「色々ツッコミたいけど……そういう時はまだ当分来ないから安心してくれ」
「まだってことは、そのうちくるのね……?」
「それはまだ分からないけど……ほ、ほら、早く風呂入らないと体冷えちゃうぞ! 俺は部屋に戻ってるから、ちゃんと肩まで浸かって百数えるんだぞ!」
そう早口でまくしたて、俺は洗面所を後にした。
あんなことを言ったせいで、自分の番で湯舟に浸かりづらくシャワーで済ませたのは、ここだけの秘密だ。
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