#30 「大事な話がある」
「送ってくれてありがとうございました。ここまでで大丈夫ですよ」
駅が目の前に見える大通り、その信号前で神楽先輩はそう言う。情けない話だが、俺の焦りを見抜いてのことだろう。記憶を取り戻す方法が分かったと、伊沼に伝えにいきたい。そんな衝動に駆られていたのだ。
「それじゃあ、気を付けて帰ってください」
「そうだ、伊沼さんに一つ伝言をお願いできますか?」
「いいですよ」
「家で毎日会えることを見落としたわけじゃありません。目をつぶってあげたんですって、伊沼さんに教えてあげてください」
随分と強気な伝言だな……。
しかし、言われてみればそうだった。伊沼は神楽先輩と違って、自分の担当日以外も家で俺と接する機会がある。同棲者の特権と言われてしまえばそれまでだが、神楽先輩もそこまで器が小さいわけではないらしい。
……ここで自分が譲歩したと強調するのは、器には関係ないと思いたい。
俺は横断歩道を渡る神楽先輩を見送り、その背中に背を向け駆け出す。
これを知ったら伊沼はどんな顔をするだろう。喜びに笑みを漏らすだろうか。それとも、恋をするという条件に顔を赤らめるだろうか。
優秀な母親がかけた魅了魔法を打ち破るのだ、伊沼にそれができれば一人前のサキュバスだと認められるに違いない。何せ魔法に頼らずに、人間を虜にしたのだから。
そのチャンスを得たという見方も含めて、持ち帰るのが吉報であると胸を張れる。
「ただいま!」
「勇君、どうしたのそんなに急いで」
「母さん……はぁっ……伊沼は、どこにいる……?」
立ち止まった途端、無視していた息の詰まりが押し寄せてくる。胸に酸素が入っていかない。こんな感覚がするまで走ったのは、生まれて初めてだった。
「璃々ちゃんなら、お部屋に戻ったと思うけど……」
「ありがとう……!」
俺は靴を脱ぎ捨て、慌てて階段を上る。
伊沼が初めて家に来た時とも、屋上に向かった時とも違う、俺から彼女に何かを伝えようと走った。
「……はぁー……ふぅ……」
部屋の前で深呼吸をする。それからようやく息を整えて、扉をノックする。
「伊沼、いるか?」
「どうしたの?」
扉が開かれ、伊沼が顔を覗かせる。運動直後の火照った俺を見て、伊沼は目を細めてもう一度問う。
「……どうしたの?」
「大事な話がある。――俺の記憶に関して」
「……入りなさい」
目の色が変わった伊沼は、俺に入室を促した。
部屋の中は、装飾の類がほとんど変わっていないからか懐かしい感じがする。というよりも、そのままの父さんの部屋に伊沼がいることが不思議だ。
そういえば、前に入った時はそんなこと気にする余裕もなかったしな。
「本題からは逸れるんだけどさ、模様替えとかしないのか?」
「必要ないわ。それに借りてる部屋ですもの、下手に動かしたらお父様を困らせちゃうでしょ?」
「お気遣いどうも」
……できれば家に押しかける段階で、その発想になってくれていたら嬉しかったんだけど。
「私の部屋について考えるのは、勇との愛の巣を用意してからよ。その時は二人だけじゃなくて、こ、こここ子どもの未来も考えなくちゃだしね!」
相変わらず気の早いことで。
伊沼は元の世界に帰りたいとは思っていないのだろうか。それとも、帰ることは不可能だと思っているから、こういうこと言っているだけか?
その意思を確認するうえでも、これからの話は重要になってくるはずだ。
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