#2 「あんた、私と契約しなさい」
伊沼璃々への印象①人間である……✕
「私は人間じゃないわ。サキュバスなの」
伊沼璃々への印象②ハーフである……✕
「だから、イギリスと日本のハーフっていうのも嘘」
伊沼璃々への印象③留学生である……△
「私はね、修行するために人間の世界にやってきたの」
当初彼女に抱いていた印象は、音を立てて崩れ去っていく。
もし、俺がノーベル賞とかを取って有名になったら、残す名言は『人生とは学びの連続である』にしようと思う。
同級生がサキュバスだという現実味のない話を聞かされて、俺の頭はほとんど現実逃避状態にあった。
「話は大体分かった。けど、どうして俺の体操服を嗅いだりしてたんだ?」
「そ、それは……!」
鋭い目を向ける伊沼の頬に、赤みが強く差す。
至極真っ当な質問をしたつもりだったのだが、伊沼の眼差しは俺をノンデリ男と認定しようとしていた。
「……あんたが、そんな雄臭いものを放っておくのが悪いんでしょ」
雄臭い……だと……!
俺は、その事実に今日一の衝撃を受ける。一回の着用でそんなに臭うものなのか? もしかして、俺って臭い……?
「そ、そうか……それは悪かったな……」
がっくりと肩を落として、俺は消え入りそうな声で謝る。
あまりのショックに、謝らされているという理不尽に不服を唱える力もなかった。
「そこで、あんたに一つ話があるわ」
「まだ何か?」
「あんた、私と契約しなさい」
「断る」
「はぁ?! なんでよ!」
断られるとは微塵も思ってなさそうな面に、俺の本心をぶつけてやる。
サキュバスと契約? そんな危険な橋を、俺は渡りたくなんかない。
「サキュバスの契約ってあれだろ? 精気を奪うかわりに極上の快楽を――」
「ちょ、ちょっと! それ以上は恥ずかしいからなし!」
「サキュバスのくせに、今さら何恥ずかしがってるんだよ。……とりあえず、俺は契約なんてしないからな。今日のことは黙っておいてやるから、慎ましく生きろよ」
そう、放課後に同級生の体操服を嗅ぐなんて奇行に出たりせずにな。
俺はそれだけ言い残して、教室を後にした。
「授業だけでも大変だったっていうのに、こんな目に遭うとはな」
まさに泣きっ面に蜂というやつなのだろう。
しかし、この後俺は蜂よりも恐ろしい悪魔と、再び対面することになる。
逃げるようにして家に帰ると、玄関に見覚えのない靴があった。
高校生なら誰もが履いていそうな茶色のローファー、その持ち主が今この家にいるのだろうか。
「ただいま。……母さん、誰かお客さんでも来てるのか?」
「お客さん? クラスの子なら来てるわよ」
「クラスの子……?」
同じクラスの……友だちだろうか?
俺は決して友だちが少ないわけじゃない(主観)。だが、その友だちの中に、俺の家を知っていて、なおかつ勝手に家に上がる無礼なやつはいない。
――まさか。
辿り着いた予感に、思わず悪寒がしてしまう。
「母さん、そいつはどこに?」
「勇君の部屋で休ませてもらうって言ってたから――」
「分かった、ありがとう!」
俺は鞄を投げ捨て、靴を脱ぎ捨て階段を駆け上がる。
勢いよく扉を開けた先にいたのは、やはりという人物だった。
「あら、帰ったのね」
そういえば。こいつは人じゃなくて悪魔なんだったな。
予想通り、俺の部屋にはサキュバス――伊沼璃々がいた。
漫画を読んでいるというのに、彼女の居住まいからは品を感じる。正座の効果なのか、それとも伊沼自身の佇まいがそう思わせているのだろうか。
「どういうつもりだ」
「どういうって?」
「なんでお前が、俺の家に上がってるのかって話だよ」
「私、ここで暮らすことになったから」
「……は?」
今日だけで、何度こいつに驚かされればいいんだ。
この家に住む? 伊沼が? どうして?
「お母様、とっても優しいのね。家出したからしばらく泊めてくれないかって頼んだら、即答でOKもらえたわよ」
母さん……! 知らない人を家に入れちゃダメって、ばあちゃんたちに習わなかったのか? ……いや、違う。相手はサキュバス、常識を捨てるんだ!
「――魅了魔法をかけたのか」
「何言ってんの?」
「どっかで聞いた覚えがある。サキュバスは魔法で人を魅了させることができるって。それで正常な判断ができないようにしたんだな!」
「……ないわよ」
伊沼の口から零れた呟きは、小ささよりもその暗さが気になった。
「……かけてないのか?」
「違う。……できないって言ってるの」
「できない?」
「この世界に修行しにきてるって言ったでしょ。私は魔法も使えないし、サキュバスに必要な……その……せ、性的な誘惑とかもできないの。落ちこぼれだから、私は今ここにいるの」
伊沼の来歴は、思っていたよりも過激なものだった。
修行とはいえ、自分の世界を離れて人間しかいないこの世界で生活するのだ。少なくとも、俺にはできそうになかった。
『サキュバスのくせに、今さら何恥ずかしがってるんだよ』
教室で伊沼に放った言葉が無神経だったと、今になって気付く。
……なんだよ。俺の方がよっぽど悪魔みたいじゃないか。
「……すまなかった」
「なんで急に謝るのよ」
「お前の事情も知らずに、心ない言葉をかけた。本当に悪かったと思ってる」
こうして頭を下げたところで、俺に見せられるのは誠意のみ。許してもらえるかは、伊沼次第だ。
「……いいわよ。別に気にしてないから」
「そうか、なら良かった……」
「代わりに、私の頼みを聞いてもらうわよ」
「ああ、どんな頼みでも断らない! 俺にできることなら――」
「私と契約しなさい」
……ですよねー、分かってました。でも、もう断らないと言質を取られてしまった。ここは腹を括って、俺の精気を伊沼に差し出すしかない。
父さん、母さん、ごめん。俺、子孫は残せそうにない……。
「……分かった。お前と契約してやる」
「本当?!」
直前の物憂げな様子から一変、明るい声で俺との距離を詰める。
後ろの尻尾が、ブンブンと動いて激しく主張していた。
「じゃ、じゃあ……手繋いでくれる?」
「それが契約の儀式ってわけだな……」
俺は固唾を飲んで、伊沼と手を重ねる。
「わ、わ……すごい。男の子の手って、こんなゴツゴツしてるんだ……」
感心した声を上げて、伊沼は俺の手にしきりに指をなぞらせる。
く、くすぐったい……! 俺からすれば、柔らかい伊沼の手の方が珍しい気がするけどな……。
「……どうだ?」
「同じ手なのに、全然違くて不思議な感じ……」
「……そうじゃなくて! 契約はできたのかって聞いてるんだ」
「へ?」
……なんでそこでとぼけるんだよ。あれなのか? 契約を結んだ瞬間って悟られたらいけないのか?
「契約はしたわよ……だからこうやって私の特訓に付き合ってもらってるんじゃない」
「……特訓? 付き合う?」
「わ、私たち、つ、つつつ付き合ってなんかないわよ……! ただ、手を繋いでもドキドキしないでいる特訓をしてるだけ!」
あー……契約ってそういうことか。
本来なら動揺してもおかしくない事実なのだが、あまりに濃い一日のせいで、見かけ倒しの契約内容に心は凪いでいた。
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