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#15 「声をかけてくれたの」

 靴裏を擦り減らしながら歩き辿り着いた自分の家に、俺は入れずにいた。

 一方的に告げられた、クラスメイトからの『好き』という言葉。普通なら、ここで一旦家に持ち帰って考えることができるのだが。


「どんな顔して帰ったらいいんだよ……」


 その”普通”は、俺には適用されない。告白してきたその同級生――サキュバスと同じ家に住んでいるのだから。

 一つ屋根の下で生活する以上、顔を合わせないということはない。つまり、保留にする期間が長引くほど、家の中が気まずくなるということだ。当然、聞かなかったフリなんてできない。そんなことをしたら、意を決して話してくれた伊沼に失礼だ。


「ここで迷ったって仕方ないか。もう一回、直接話そう」


 そう心を決め、取っ手に手をかける。

 幾度と開けてきた家の扉も、まるで鉛で作られたかのように重く感じる。鈍った決心が、扉にのしかかっているみたいだった。


「ただいま……」


 中を窺いながら、ぼそりと帰宅を報せる。

 母さんは買い物に出ているらしい。足りない靴で不在を察する。


 ……これって、チャンスなんじゃないか?


 今、家の中にいるのは俺と伊沼だけ。状況だけ考えれば屋上と全く一緒だ。

 母さんもいつ帰ってくるか分からない。善は急げだ、俺は急いで伊沼の部屋へ向かった。


「……伊沼、いるか?」


 扉をノックし呼びかけると、隔てられた先で大きな物音が鳴った。

 きゃっ、という悲鳴の後、二度三度と連続して何かが落ちる音がする。


 俺は思わず、確認もなしに扉を開いた。


「伊沼、大丈夫か!」


 見ると、伊沼は膝を折って床に散乱している本を拾っていた。

 彼女の顔が上を向き、俺と視線が交錯する。


 一瞬、その瞳が揺らいで見えたが、今はそんなことどうでもよかった。


「なんか大きな音がしたけど……怪我とかしてないよな?」


「……ええ、大丈夫よ。ちょっと机にぶつかって、教科書とかを落としちゃったの」


 悪戯を叱られた子どものように、伊沼は気恥しそうな顔を浮かべる。


「……もしかして心配してくれたの?」


「当たり前だろ」


「そう……やっぱり優しいのね」


 そう言って伊沼は目を細める。

 彼女が見ているのは、俺じゃない気がした。俺の覚えていない、伊沼を助けた俺。その影を追っていると感じたのだ。


「……伊沼、その『やっぱり』を俺は知らない」


「消されてない記憶の中でも、あんたはずっと優しかったわよ」


「え?」


「自分の体操服を嗅いでたサキュバスと契約を結ぶなんて、相当なお人好しじゃない」


「っ……! あれは、お前が家まで押しかけてきて――」


「あんたが『どんな頼みでも断らない』って言ったのよ」


 そうだった。俺は伊沼に心ない言葉をかけたことを謝罪し、その償いとして契約を結んだのだ。

 そこに優しさはないし、俺は自分で自分の首を絞めたと思っている。


「あんたにそのつもりがなくても、その優しさが大きな助けになることだってあるの。……少なくとも、私は勇に助けられたと思ってる」


「……俺は、泣いてた伊沼に何をしたんだ?」


 泣いてる伊沼を前にして、俺は何ができたのだろう。夢の中では、声をかけたくてもかけることができなかった。

 もし、声が届いていたのなら、伊沼を助けることができたのだろうか。


「声をかけてくれたの」


 その一言を皮切りに、伊沼はゆっくりと言葉を紡いだ。まるでアルバムのページをめくり、噛み締めるように。


「笑顔にさせてくれた」


「私のことを認めてくれた」


「温かい気持ちにしてくれた」


「……学校を案内してくれた」


「そ、そうか……」


 こうして暴露されると、覚えてもないのに恥ずかしさが募ってくる。

 本当にそんなことをしたのか、と伊沼に問いたくなってしまう。


 しかし、嬉しそうに語る伊沼の姿を見て、その質問が無粋であると理解した。


 そして、俺は一つの答えを出した。


「……伊沼」


「何?」


「告白の返事なんだけど……」


 言い淀んだわけじゃない。これを聞いた伊沼がどう反応するかを待ちたかったのだ。


「……うん。教えて?」


 伊沼の表情に迷いはなかった。俺は口を開いて、彼女に思いを伝える。


「結論を先に言うと、伊沼に気持ちには応えられそうにない。俺の中では会ったばかりで、好きとか嫌いとか決めるには早すぎる」


「……そうよね」


「でも」


 物憂げな伊沼の声に被せるように、俺は話を続ける。


「これから、伊沼のことをもっと知っていきたいと思う。だって俺、まだ伊沼の好きな食べ物すら知らないんだ。答えがどうなるかは分からないけど、まずは好きになるための時間がほしい」


「たしかにそうね。私たち、お互いのこと全然知らないもの」


 張り詰めた伊沼の口元に、笑みが戻ってくる。

 俺たちは出会ったばかりだ。これからいくらでも知る術はある。その中で、俺が伊沼にどんな感情を抱くのか。それを知るための時間がほしかった。


「それと、消された記憶もできれば戻したい。思い出を俺だけが忘れてるなんて、不公平だろ?」


「ふふ、独占できなくなると思うとなんだか寂しいわね」


 言葉に反して、伊沼は朗らかな顔をしている。

 俺たちは再び契約を結んだ。今度は互いの条件を飲んで。

お読みいただき、ありがとうがとうございます。

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