#12 「私のこと、好きにしていいわよ」
「そろそろシャキッとしたらどうなの?」
「分かってる……分かってはいるんだ……」
隣の伊沼に、俺は念仏のようにそう返す。
心の中で分かっていても、できないことだってある。昨日の神楽先輩との会話(?)のショックから立ち直れずに、俺は睡眠不足のまま学校に来ていた。
……今日、まともに授業を受けるのは無理そうだ。
そう思い、悪友に板書を頼もうと席に向かう。
この時の俺は気付いていなかった。傷心しているのが自分だけではないということに。
「拓斗」
「勇か……どうした……」
「ノート、頼めるか?」
「ノート? はは……女心の一つも分からない俺は、人の倍勉強しろってか……」
拓斗は机に突っ伏したまま、卑屈精神丸出しでぼやく。
全身から漂う暗いオーラを見たら、常人なら近づこうとすらしないだろう。それに気付かず声をかけたという事実に、俺は自分の視野の狭さを思い知った。
今の口振りからして、彼女を作ろうと色んな女子に声をかけて玉砕したといったところか。
俺が無関係というわけでもない。しょうがない、今日くらい優しくしてやるとしよう。
「いや、今のは言い間違いだ。今日は俺がノートを書くから、お前はゆっくり休んでくれ」
「気を遣うなって……どうせ俺はろくに気も遣えないダメな男なんだからさ……」
なんだこいつ、面倒くさいな。
しかし、これを口に出しては拓斗の精神が崩壊してしまう。優しくするのも逆効果となると、今日一日はそっとしておくのが吉だ。
俺はそれ以上言葉を交わすことなく、自分の席に戻る。
「矢川君も重傷ね」
「ああ、あいつと話したら落ち着いたよ」
「それは素直に喜んでいいのかしら……」
ビビりや酔っ払い然り、自分より酷い状態の人を見ると冷静になるというのは本当らしい。すっかり冷静になった俺は、今日の授業の全てを余すことなくノートに記すと決心した。
……そのはずだったのだが。
くそっ、眠い、眠すぎる……!
そういえば、昨夜はほとんど寝られてないんだった……。気合いだけで動こうとしても、休息を求める体には抗えなかった。
「――であるからして、これを現代訳に起こすとこちらのようになるわけですね」
一限の古典には、幸い指名解答はない。ここで俺が眠ってしまっても、ノートが白紙になるだけ。それなら隣の伊沼に土下座して写させてもらえばいい。
頭に浮かぶ可能性に言い訳を済ませ、俺はゆっくりと瞼を閉じた。
「……あれ、俺いつの間に家に帰ってたんだ?」
俺を取り囲むのは、見慣れた自分の部屋の風景だ。
最後の記憶は、古典の授業で猛烈な眠気に襲われたところ。そこから眠りについて……どうなったんだ?
前にも似たことがあった。登校中に気絶したあの時だ。あの時も、直前の記憶といる場所が全然違っていた。
「――分かったぞ。ここは夢の中か」
既視感が、この世界が夢であることを認識させる。
これは明晰夢――つまり、夢だと自覚したうえで見る夢だ。まさかこんな形で体験することになるとはな。
夢の世界では、全てが思うがままだと聞いたことがある。
ということは、ここでなら神楽先輩と仲を深めることも――
「ふっ……ふふふふ……」
内から湧き上がる興奮に、つい口元が緩んでしまう。
「……! 誰だ!」
扉がノックされる音で我に返る。
もしかして、早速俺の思考が反映されて家に神楽先輩が? なら、あんな殺気立った声を出すべきではなかったと反省しなければ。
「私よ」
だが、開いた扉の前に立っていたのは伊沼だった。
「……なんだ、伊沼か」
「なんだとは失礼ね」
さすがサキュバスと褒めるべきか。二度も俺の夢に出てくるなんて。
伊沼は、いつもの白いレースのネグリジェを纏っている。家にいる時はあの格好しかしてないし、俺の中の伊沼像が固定されてしまったのだろう。
「……そろそろ機嫌直してくれてもいいんじゃない?」
「なんのことだ?」
「……とぼけるのね」
とぼけるも何も、別に機嫌悪くないしな。けど、伊沼は寂しそうな目で俺を見つめてくる。
支離滅裂な内容、前後が繋がっていない出来事、明晰夢といってもいつもの夢と大して変わらないな。
「昨日のことは私が悪かったわ。だから――」
言葉を切った伊沼は俺のベッドに腰を下ろす。
そうして、今度は情熱的な視線を向けて再び口を開いた。
「私のこと、好きにしていいわよ」
伊沼の瞳が、わずかに憂いを帯びていることに気付く。
こうして部屋を訪ねてくるまで、この行動に至るまでに彼女の中で葛藤があったのだと察する。
……それにしても、この世界線の俺は一体何をしでかしたんだ?
「伊沼、さすがにそれはちょっと大胆すぎるというか……」
現実の伊沼とあまりに違う姿。この先、初心な彼女はこうして人間を誘うようになるのだろうか。
どうしてか、胸の内でそうなることに嫌悪感を抱く自分がいた。
これが伊沼の目指す姿だと分かっていても、今ここで誘いを受け入れたくはなかった。
「……意外と紳士的なところもあるのね。でも、私もこれで諦めるつもりはないの」
すると、しゅるりと俺の足首に何かが絡む。
これは……尻尾! 右足を捕られ、俺の体は勢いよく伊沼の方へ引き寄せられる。
「くっ……!」
俺はなんとか伊沼との衝突を回避しようと踏ん張る。
直後、柔らかな衝撃音と共に、伊沼の華奢な体が跳ねた。
「いいのよ……」
そう言って微笑む伊沼の顔は、俺の両手の間にある。
第三者に目撃されれば、俺が伊沼を襲っている現場だと思われるに違いない。いや、現に俺は伊沼をベッドの上に押し倒しているのだ。
伊沼は俺の首に手を腕を回し、俺を抱き寄せようとしてくる。
このまま俺が抵抗しなければ、おそらく俺たちの唇は重なってしまうだろう。
ダメだ、伊沼……! もっと自分を大切にしてくれ!
「――伊沼!」
説得しようと叫んだ名前が、教室に響き渡る。
拓斗を除いた教室中の全員の視線が、俺に突き刺さっていた。
「あの……これは……えっと……」
どう事情を説明しても説得力は皆無だと思った。
伊沼なら何か知っているかもと、一縷の望みにかけて彼女と目を合わせる。
「なっ、なななな……大胆すぎよ、あんた……!」
怒りとも羞恥とも分からない感情で顔を赤く染め、伊沼は口をパクパクとさせている。
俺も俺で動揺が収まらず、しばらく二人で見つめ合ったまま固まっていた。
結局、一連の出来事に終止符を打ったのは、授業終わりのチャイムの音だった。
この事件をきっかけに、俺と伊沼が恋仲だという噂が校内を駆け巡ることとなった。
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