#10 「ここでも特訓、できると思わないか?」
人間、楽しみなことが待っていると思うと中々眠れないものだ。
俺も例に漏れず、午前中の授業では珍しく一度も寝ることがなかった。
楽しみなこと――それはもう言うまでもない。
俺はいそいそと席を立ち、未だ席に座る拓斗に声をかけた。
「じゃあ、先に屋上で待ってるな」
購買で昼食を買わず、直接屋上へと向かう。その足取りは、まさに軽快そのものだった。
屋上に到着すると、伊沼はすでに風呂敷を広げていた。
地面に広がった四角形の領域は、伊沼のトレードマークである紫色。その中心部で鎮座するのは、光沢のある黒い箱だ。全体に散りばめられた梅の装飾は、春という季節にもってこいだといえる。
なぜ重箱がこんなところにあるのか、それを聞くのは少し躊躇われた。
「待たせたか?」
「ううん、ちょうどいい登場よ。その……私も心の準備が必要だったから」
「心の準備?」
「……だって、誰かに手作りの料理食べてもらうのなんて初めてだから……緊張してるのよ。おまけにあんたは一日ソワソワしてて、お弁当が待ち遠しいって顔に書いてあったし」
「ふぉれは悪いことをふぃたな」
俺は顔を覆って、伊沼に言葉を返す。
期待がまだ顔に出てたら、また緊張させてしまうかもしれない。
「今さら隠さなくていいわよ。……それに、緊張はしたけど嬉しかったの。私のお弁当、楽しみにしてくれてるって分かって」
解けた笑みは、俺の心をふわりと撫でる。
慣れない感触のせいか、胸がどきりと跳ねた気がした。
……さて、空気も和らいだことだし、そろそろ核心に触れないとな。
「弁当っていうのは、この重箱のことだったり?」
「そうよ」
伊沼からの返答は間髪入れずにやってくる。
ちょっと待ってくれ。いくらとびっきりの弁当といっても、このサイズは俺一人の胃には収まらないぞ。
……しかし、この弁当は伊沼が今日のために張り切って作ってくれたもの。ここは食べ盛りの男として、限界を超えてみせる……!
「そういえば拓斗のやつ――」
不在の友人に関心を持った途端、携帯に連絡があった。差出人は拓斗、用件は……
『俺、女の子誘って昼食べることにしたから、今日はそっちに行かないぜ』
文末には、ご丁寧に親指を立てた絵文字までついている。
今朝の一念発起は冗談じゃなかったのか。残念だ、どうしても食べきれなかった時に助けてもらおうと思ってたのに。
拓斗の欠席を伝えると、伊沼はいよいよ重箱を風呂敷の上に並べ始める。
中にはおにぎりや卵焼き、ウィンナーなどの定番メニューはもちろん、煮物にハンバーグ、フルーツといった和洋折衷の色々がぎっしりと詰められている。
……本当に、これを一人で食べきれるのか?
活を入れたはいいものの、腹の内は揺れ動いていた。
「さぁ、食べましょう」
そう言って伊沼は、ウィンナーを箸で摘まみ口に入れる。
「――……あ。もしかして……これ二人分か?」
「ええ。……何、一人前だと思ってたの?」
「お恥ずかしながら……」
「ふふっ、案外食い意地張ってるのね」
「……からかわないでくれ」
「いいじゃない、可愛くて。ふふっ、うふふ……」
俺の勘違いがお気に召したらしく、伊沼はころころと笑い声を上げている。
浮かれた気分に冷や水を浴びたようで、俺の思考は一気に冷静さを取り戻す。そうして、この赤っ恥が悔しさへと変換されていく。
どうにか伊沼を恥ずかしい目に遭わせ、今日の出来事を引き分けに持ち込みたい。そんな醜い欲が俺の中で大きくなっていった。
「そういえば……伊沼って修行中の身なんだよな」
「そうだけど」
「せっかく一緒に昼食を食べてるんだ。ここでも特訓、できると思わないか?」
なんのことだ、と首を傾げる伊沼を見て、彼女が自分の罠にかかったと確信する。
「ほら、食事中の鉄板じゃないか。あーんって、食べさせるやつだよ」
「あ、あーん……!」
それを聞いた伊沼は、分かりやすく顔から湯気を出す。
ふははははっ! どうだ見たか! っていうか、ここまで初心だとこの先が思いやられるな。……まぁ、俺も恋愛のいろはは漫画やゲームでしか学んでないし、正直口からでまかせなところはあるんだけど。
「サキュバスどころか、人間の女の子でも意中の男を落とすためにやるらしいぞ。つまり、初歩中の初歩の技術ってことだ」
「初歩中の初歩……分かった! 私、やるわ!」
あれ? 思ってた展開と違うぞ。俺はてっきり、『そんなこと、できるわけないでしょ!』って恥ずかしがるものだとばっかり……。
しかも、伊沼があーんをするなら、その相手って――
「……勇、口開けなさい。あ、あーん……」
ちょいちょいちょい! やるんだったら、そんな眉間に皺寄せないでくれ! その眼光は、箸で喉を一突きする時のだって!
「ほら、早く……私だって恥ずかしいのよ……」
口を尖らせ抗議する伊沼は、いたって真面目といった風だった。
たしかに、彼女にとっての目標は立派なサキュバスになることだ。特訓という建前を俺が使った以上、真剣に取り組むのは道理だといえる。
……やれやれ。
俺は自分がいかに愚かな言動を取ったかを思い知った。同時に、そのことを強く恥じた。
契約は結んだ。だから俺には、伊沼を成長させる責任があるのだ。
俺は身を乗り出し、伊沼の箸から卵焼きを食べる。
決意の味は、少ししょっぱかった。
お読みいただき、ありがとうがとうございます。
面白い、続きを読みたいと思ったら、☆評価や感想などを頂けると励みになります。




