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8時15分

作者: 長月きいこ

午前8時05分。

彼女は職場に向かって歩いていた。

アスファルトが濡れている。

今朝、雨でも降ったのかな。

この靴じゃない方がよかったのかも。

そんなことを思いながら。


彼女は、十字路を左に曲がった所で歩く足を止めた。

一直線の通り。

この通りの両側には、様々な店舗が立ち並んでいる。

各店舗が開店に向けて、のぼり旗を出したり、掃き掃除をしたりと準備を進めていた。

彼女の職場もまたこの通りにあった。

「ふう…」

彼女は小さく深呼吸をした。

よし、と心の中で呟き、止めていた足を進める。


数件の店舗を通り過ぎた所で、フラワーショップの看板と、黒いエプロンを着けて作業をしている彼の姿が目に入った。

彼女の歩くスピードが遅くなる。

その代わりに彼女の心臓の鼓動が早くなった。

大丈夫…

さっきの挨拶と同じように…

彼女は心の中で自分に言い聞かせた。


「おはようございます。」

彼女は彼に向けて挨拶をした。

彼女の声に彼は振り返る。

「あ、おはようございます!」

片手にじょうろを持ちながら、彼が挨拶をした。

その笑顔に胸が高鳴った彼女だが、歩く足を止めない。

冷静を装って会釈をし、彼の前を通り過ぎた。


たった数秒の出来事。

しかし彼女にとっては、とても大切な数秒間だ。

フラワーショップから彼女の職場まで、さほど距離は遠くない。

先程から上がっている口角をそのままに、彼女は職場のドアを開けた。


今日も挨拶ができた。

それだけで、彼女は今日一日を頑張れるのだった。


――――――――


ブラックコーヒーに砂糖をたっぷり入れる。

ミルクは入れない。

それが彼女のコーヒーのこだわりだ。

仕事の合間の休憩時間。

このコーヒーを飲んでいると、彼女はあの日のことをいつも思い出していた。


――――――――


彼女はその日残業をしていた。

社内には数名まだ人は居るが、彼女のいるこの部屋には誰もおらず、辺りはシンと静まり返っていた。

時計の時刻は午後7時50分を指している。

彼女は気分転換にと、何杯目かのコーヒーを口にした。

砂糖たっぷりのそれはやはり甘い。

でもそろそろ、このコーヒーの効き目も無くなりそうだと、多くの資料を目の前にして彼女は思った。

もう少しで終わるのに。

そのもう少しが進まない。

「はあ…」

彼女はため息をついた。

自分の仕事の効率の悪さと、人に頼ることをしなかった不器用さに嫌気が差した。

そして、昔からそうだったと、彼女の思考が学生時代にまで遡っていた時のことだった。

ドーンという音が彼女の耳に届いた。

その音は何度も聞こえてくる。

彼女は音のする方へと足を進めた。


「あ…」

そして、会社の外に出た所で、その音の正体が花火だと気が付いた。

会社の向かい側。

建物が立ち並んでいるため、はっきりとは見えないが、赤や緑の花火の明かりが時折見える。

「……」

やはり疲れているらしい。

彼女は込み上げてくる涙を感じてそう思った。

目頭を拭う。

まるで、私を応援してくれているみたい。

そう自分に都合よく解釈した。


もう少しはっきりと花火が見たい。

そう思った彼女は、花火がよく見える位置を探しながら、通りを歩いた。

いつもなら、日が沈む前に歩いている帰り道。

人通りはなく、均等に並んでいる街灯の明かりが少し寂しく感じられる。


「あ…」

どこのお店も暗いと思ったのも束の間、彼女の足が止まった。

フラワーショップの看板と店内の明かりに照らされて、一人の人物がそこにはいた。

通勤時、いつも挨拶をしてくれる人だと彼女は思い出していた。

その人はどうやら花火を眺めているようだ。

この顔を見られるのはまずい。

花火を諦めて、彼女が踵を返そうとした時。

「あの!」

その人に声を掛けられてしまった。

この場を去ることができなかった彼女は、会釈をすることしかできなかった。

少しの沈黙の後、その人が口を開いた。

「花火綺麗ですよ!ここから良く見えます!」

距離があるためか、その人の声は少しだけ大きかった。

顔を合わせなければ大丈夫。

そう彼女は自分を納得させて、その人の隣に立った。


「俺、今年初めて見ました。」

「…私もです。」

「どこの花火ですかね?今日、祭りでもありました?」

「…私も全然知らなくて。びっくりしました。」


きちんと会話をしたことのなかった顔見知り程度の関係。

そんな二人が並んで花火を眺めている。


「残業していて良かったです。俺。」

ぽつりと呟かれたその言葉に彼女が返事をする。

「花火綺麗ですもんね。」

「はい。」

彼女は至って真面目に返事をしたのだが、少し笑いを含んだその、はい、という返事に、彼女は思わずその人の横顔を見た。

その横顔はやはりどこか笑っているように見えた。

「俺の顔に何かついてます?」

その人は花火を眺めながらそう言った。

「え?いえ…」

彼女は慌てて視線を花火に戻した。


花火の音だけが辺りに響く。

時折、強い風が髪をなびかせた。


二人の間に、どのくらい会話のない時間が続いただろうか。

金色の大きな花火が上がった時だった。


「お疲れ様です。」


彼女もよく使う言葉。

彼女の職場でもよく聞く言葉。言われる言葉。

でも、彼の呟いたその一言に彼女はまた泣きそうになった。

涙を流すまいと、彼女は花火に意識を集中させた。

花火が次々と打ち上げられる。

どうやらフィナーレのようだ。


「…お疲れ様です。お互いに。」

少しの間を置いて彼女は言った。

午後8時15分。

彼女が彼を意識し始めた夏の日の出来事だった。


――――――――


彼の名前を知ったこと。

名前を知ってもらったこと。

会社に戻って、そういえばと慌てて鏡で確認した自分の顔が、何だか明るい顔をしていたこと。

残っていた仕事を終わらせることができたこと。


彼女はあの夏の日のことを鮮明に覚えていた。


彼女は、時計の時刻を確認し、残っていたコーヒーを飲み干した。

そして、手元のファイルから数枚の資料を取り出し、席を立った。


「あの、先輩。ここの箇所なんですが…」


あの夏の日のこともまた、彼女の力になっていた。


――――――――


「寒い…」

そう呟いた彼女の息は白かった。

今朝は一段と冷え込んでいる。

外の気温計は1度を示していた。


午前8時15分。

いつもの通り。

いつもの看板。

いつもの…

今日の彼はこの寒さもあってか、黒のダウンジャケットを着ていた。

その彼の後ろ姿はどこか可愛らしく見える。

彼女は思わず上がった口角を引き締め、彼に声を掛けた。

「おはようございます。」

「あ!おはようございます。」

振り向いた彼は、ビオラの寄せ植えを持っている。

ふわりと甘い香りが風に乗って彼女の元に届いた。


「寒いですね。今日。」

「はい。めっちゃ寒いです。」

最近立ち止まって一言、二言会話をするようになった二人。

その会話はどれも当たり障りのないものばかりだったが、彼女はその少しの変化が嬉しかった。

彼の持っている花がビオラだと彼女が覚えたのも、彼が彼女と同い年だとわかったのも、この朝の時間だった。


今朝の彼女は、あることを彼にお願いするつもりでいた。

「あの…」

彼女の言った言葉に、彼が頷いた。

「もちろんです!」


――――――――


その日の昼。

彼女は、ワクワクした心と、ドキドキした心と共に、フラワーショップに来ていた。

ドアを開ければ、店員の声と、花の甘い香りが彼女を迎えた。


初めて入る店内。

店内はアップテンポで明るい歌が流れている。

色とりどりの花や可愛い雑貨が沢山並んでおり、見ているだけで楽しい。


「いらっしゃいませ!」

彼が店の奥から、小走りに現れた。

彼の手には花束が一つあった。

ピンク色でまとめられた可愛い花束だ。

「可愛い…ありがとうございます。先輩も喜んでくれると思います。」

彼女の言葉に、彼が頬を掻いた。

「そう言ってもらえて嬉しいです。励みになります。」

「いえ…」

彼女もまた、彼のその言葉が嬉しかった。


「誕生日のメッセージカードも一緒に…あ。」

彼が言葉の途中で何かに気が付いたようだった。

「何かありました?」

彼の視線を追って、彼女は店の外に視線を移した。

「あ…」

そこにいた柴犬と飼い主に、彼女は見覚えがあった。

「あのワンちゃん、この時間によくここの前を散歩しているんですよ。」

「へえ…」

「ここからは外の景色がよく見えるので、俺は気に入っています。結構面白いですよ。色んな発見があって。」

「そうなんですね。」

「例えば、あのワンちゃんと、ぶつかりそうになった女性がいたとか。」

「えっ。」

彼女は思わず彼を見た。

そんな彼女を見て彼は笑みを浮かべ、話を続ける。

「あの日の朝、ここから丁度目撃したんです。びっくりした!っていう大きな声に、ワンちゃんもびっくりしてました。その時俺、すみません。ちょっと笑いました。」

彼の表情も声色もどこか楽しそうだ。

彼を意識するずっと前の話だったが、彼の話に間違いはなかった。

彼女の前方不注意が原因だった。

「その後すごい謝ってましたよね。ワンちゃんにも飼い主さんにも。」

「…はい。忘れてください…」

彼女はそれだけ言うと、顔を赤くするしかなかった。

彼女は、その顔を誤魔化すように、再び店の外へと視線を移した。

二人の会話なんてつゆ知らず、柴犬は飼い主と共に歩いていく。


「忘れる訳ありません。」

彼がぽつりと呟いた。

「……」

彼女は思った。もしかしたら、本当の彼は意地悪な人なのかもしれないと。

だが、それは束の間だった。

「だってその時からですよ。あの人、ああいう顔もするんだなと思って。」

先程までとは違う彼の声色と、その言葉に、彼女の胸が高鳴った。

彼の表情が気になった彼女だったが、彼女の視線は外に向けられたままだった。

自分に都合よく考えてしまうのは、先程から店内に流れているラブソングのせいにした。


――――――――


「ありがとうございました。」

彼の笑顔に見送られ、彼女は店を後にした。


あれから彼に話を切り替えられ、結局彼女は何も聞くことができなかった。


今朝は寒くて仕方がなかった冬の冷たい風も、今の彼女には心地よかった。


――――――――


午前8時05分。

彼女は職場に向かって歩いていた。

雲一つない青空だ。

遠くの方で鳥が飛んでいるのが見える。

明日も今日みたいに暖かいといいな。

そんなことを思いながら。


午前8時15分。

いつもの姿が見えた。

どうやら向こうも彼女に気が付いたらしい。


「おはよう。」

「おはよう。」


二人の声が重なった。


――――――――


おはようと挨拶をすることが日常になり、どのくらいの月日が経っただろうか。


ピピピ…ピピピ…


枕元で鳴っている電子音。

彼女はそれを手探りで止め、時刻を確認した。


午前8時15分。


その数字を目にした彼女は慌てて起き上がった。

しかし数秒後、今日は休日だと思い出す。

胸を撫で下ろした彼女は、その部屋のドアを開けた。


コーヒーの香りが彼女を包む。


「あ、おはよう。」


そこには優しく微笑む彼がいた。


「…おはよう。」


起こしてくれればと、文句の一つでも言おうと思っていた彼女。

だが、やはり彼女は彼の笑顔に弱いらしい。

素直に挨拶を返した。


一緒に朝ごはんを食べる。

一緒に通勤する。

一緒に晩ごはんを買いに行く。

一緒に…

一緒に…


そんな温かな毎日が待っていた。


(完)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 大人な二人の初々しい恋の感じにドキドキしました! 素敵な作品を読ませていただきありがとうございました!
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