オシノハナ
「あぁ、やっぱり綺麗だな。――ハナちゃん」
夕食を取りながらテレビを眺める。そんな少年がため息をつかれるのはいつものこと。
少年は今テレビに映っているアイドルの大ファンだ。名前は〝ハナちゃん〟。まだ、全国区に進出していないローカルなアイドルのため当然知名度はない。それ以前にCDを売りだしたなんて話すらなく、そもそもライブすらやっていないのだ。
それでも少年は一目見てその綺麗な容姿に心を奪われた。どちらかといえばモデルのような雰囲気の女の子が、キラッキラなアイドルをしている。そんなアンバランスさに惹かれたのだろう。
ピッ。チャンネルが切り替わる。画面にはバラエティー番組。もちろん全国放送。少年の家族はどうやらハナちゃんには興味がないらしい。まあ、週に五分しか出番のない新人アイドルよりも待ちに待ったゴールデンタイム。当然のことだ。
そう、彼女を見られるのは本当に一瞬。そんな夢のような時間を少年は毎週楽しみにしていた。
***
「――その押し花、綺麗だね」
放課後に図書館で本を読んでいると突然声をかけられた。声の主は机の向かい側だ。こんな人気のない本棚に囲まれた一角で話しかけてくる人がいるなんて。
僕は恐る恐る顔を上げる。そこには腰まで伸ばした艶のある黒い髪。すらっとした体型の年上の女の子の姿。もう秋になるというのに身に着けているのは白のワンピース。それがなんとも彼女を神秘的な存在に仕上げていた。そう、ちょうど昨晩そんな娘を見たような、
「は、ははは、ハナちゃんっ!?」
思わず立ち上がる。同時に図書館に声が響いた。いやいや、でも仕方ないじゃないか。だって僕の推しているアイドル、ハナちゃんが座っていたのだから。
ハナちゃん?は片肘を机につき、手で頬を支えながらこちらを眺めている。
「……」
え、本物? いやいやっ。そんなわけない。だってハナちゃんだよ!? アイドルだよ!? いくらここが山だらけの田舎だとしても。こんなにも近くに憧れの人がいるはずがない。そう、夢。きっと夢だ。そうに違いない!
「ちょっとちょっと、落ち着いて。ここでは静かに。誰が声を聞いているか分からないから。ね?」
「はへ、そ、そうですよね……」
口の前で人差し指を立てる女の子。その仕草にようやく僕の心も落ち着いてきた。深呼吸、深呼吸。
「…………もしかして、ハナちゃん、でしょうか……?」
「おや? よく知ってるね。うん、私は〝ハナ〟。あ、本名は秘密だよ? こんなんでもアイドルだからね」
「…………………」
「あ、あれ? ちょっと君? しょーねーん、聞いてるー? おーい」
口をぽかんと開けて固まる僕の顔の前にハナちゃんの白い手が揺れる。その動きを何度か追っているとハッと再び我に帰った。そして、片手を前に突き出しながら乾ききった口をなんとか動かす。
「――握手してください!!!!」
「だから声を押さえなさいって!!」
「痛ったぁーーっ!」
頭に軽い衝撃が走る。身を乗り出した瞬間にハナちゃんがチョップをしてきたのだ。僕は両手で頭を覆いつつ席につく。
「どう? 少しは落ち着いたでしょう」
「――は、はい。なんとか。すみません、ちょっと動揺しちゃって」
「いいよいいよ。それだけ私のこと知ってくれているってことでしょう? そこは本当に嬉しい。まさか私にファンがいたなんてなー。でも、ここは図書館だから、静かにお喋りしようか」
「え、さっきハナちゃんだって大きい声――」
「私はいいの。でも君はダメ。ほんと、男の子の声は大きいんだから。誰にもばれないように声のバランスは考えてね」
「なんか、理不尽じゃ……」
「女子なんかみんなそんなものだよ。……もしかして幻滅した? イメージと違ったかな?」
「あ、幻滅とかそんなのはないです」
「あら即答」
ハナちゃんに幻滅? あるわけがない。というかそもそもアイドルは偶像なのだ。仕事をしていない時は普通の女の子。むしろプライベートの姿を見ることができた僕は運がいい。――だからこそ分からない。
「……あーっと、それでですね。どうして僕なんかに声を?」
当然の疑問。世間が狭いとはいえ、会話相手なんていくらでもいる。別の人でもよかったはずだ。もっとハナちゃんにふさわしい相手がいると思うのだけど。
するとハナちゃんは机を指差す。そこには栞代わりに使っていた押し花が置いてあった。白? いや、黄色? そのどちらにも見える花は窓から差し込む朱色に染められている。
「その押し花、綺麗だなーって」
「え、それだけですか?」
「そう。一応、さっきもそう言ったんだけどね」
「そういえばそんなことを聞いたよう……な?」
第一声なんて覚えているはずがない。ハナちゃんを目にした瞬間に全ての意識がそちらに向いてしまったから。でもまあ、本人がそう言うのならそうなのだろう。
「ちなみにこれはなんて花を押したんだい?」
「えっと、実は僕も分からなくて。ちっちゃい時から持っていたので、多分その辺で拾ったのを押してもらったんだと思います」
「……そっかー、名前は知らないんだね」
なにか残念そうなハナちゃん。そんなにこの押し花が気になるのだろうか。
「気に入ってくれたならあげましょうか?」
長年使いこんだ栞をそっとハナちゃんの前へ。どうせ読書の時くらいしか使わないし、それこそいくらだって代わりになるものはある。この押された花だってどうせなら持つべき人の手にあるべきだ。
「………」
ハナちゃんが栞を、いや、押し花を見て動きを止める。そのまま数秒見つめていたかと思えば、ゆっくりと首を振った。
「いいや、気持ちは嬉しいけど受け取れない。だってこれ、随分使い込んでいるでしょう? 見れば分かるよ」
「それはまあ、毎日使ってはいますけど」
「ふーん。読書家なんだ」
「それくらいしか趣味、ないですしね」
僕はつい自虐的に苦笑した。趣味がない人間の常套句。「趣味はありますか?」と聞かれて困ったときには「読書、かな」と答える。するとまあ質問してきた方はつまらなそうにするわけで。
でも、ハナちゃんは違った。静かに椅子を引き立ち上がるとそっと僕の隣へ。
「それなら明日もここに来てくれるよね?」
ハナちゃんが首を傾げながら上からのぞき込んでくる。急に近づくその綺麗な顔から僕は慌てて視線をそらした。
「そそ、そんなっ。そう何回も会うなんてできませんよ! 他のファンに申し訳ないです!」
「……他のファン、かぁ」
「そうですよっ。それにハナちゃんだって男と一緒にいたらいろいろ大変でしょう?」
アイドルに恋はご法度。もしもこんな場面をカメラとメモ帳を忍ばせた大人に見つかったりなんかしたら、必ずやっかいなことになる。
「あはは、私のこと気にしてくれるのは嬉しいけどね。たぶんこんな所、誰も来ないと思うよ?」
「そ、それは確かに、そうですけど……」
周りに人の気配などない。こんな小さな図書館の、それも奥にある隠れたスペースに人がくるなんてそうそうないだろう。ただでさえ新しくできた図書館に人が流れているのだから。
それでも首を縦に振らない僕にハナちゃんは少し頬を膨らませると、思いついたように両手をそっと合して、
「――それじゃあ、もう一度その押し花が見たいな。だからまた会いたい。これじゃあだめ、かな?」
「いや、それでも……」
「目的は少年じゃなくてそのお花」
「あ、え、うぅ……」
「あくまで君はついでということで」
「…………」
「大丈夫、誰も見ていないよ。ね?」
「………………分かり、ました」
「ほんとに? やったっ」
あぁ、その表情は反則だ。いつもテレビで見るアイドルらしからぬ大人っぽい綺麗な微笑み。それをこんなにも近くで見せられては僕に断る術なんてあるはずもない。
「ふふ、じゃあまた明日、ここで待っているよ」
「……はい、また明日、きますね」
嬉しそうに手を振るハナちゃんの姿に僕は小さく息を吐く。こうなっては仕方がない。確かにこんなところに人はそうそう来ないだろう。
会うくらいなら、きっと平気だよね? 複雑な気持ちのまま、僕は本を閉じ図書館を出た。
***
「少年、中学生だよね? 部活は?」
「陸上部です。でも、僕はもう三年だから引退してるんですよ。もう九月ですしね」
「そっか、それで暇で図書館にねぇ。勉強は――まぁ、別にくどく言わないけれど」
「一応、家ではしてますよ。後は学校で友達と」
「さっきからちょいちょい話に出るけど、ちゃんと友達いるんだね」
「……さらっと酷いこと言いますね。いますよ、普通に」
「でも放課後はここにくるんだ?」
「わざわざ放課後にまでつるむ程の仲ではないので」
「ふーん。なるほどなるほど。それじゃあ私は気兼ねなく君を独り占めにしてもいいわけだ」
「か、からかわないでください」
「もーう、ごめんって」
次の日。約束のとおりに図書館に行くとハナちゃんがいた。なんだか昨日よりも落ち着いて話すことができたような気がする。もしかして、気を使わせちゃったのかな。
たわいのない話を延々と続けて帰路につく。つい、明日も約束をしてしまった。
***
「――それはもちろん、ちやほやされたいからさ」
「そんな理由でアイドルになったんですか……」
「そんなとは失礼だなぁ。まぁ、確かに? モデルとかの方が似合うとは我ながら分かってるよ。でも、私は雑誌じゃなくてテレビに出たいのさ。モデルでテレビに出られる実力者なんて、ほんとうに一握り。だったらアイドルの方がまだ可能性があるじゃない?」
「でも、ハナちゃんスタイル良いし、綺麗だし、学校じゃあもう人気者なんじゃ……。えっと、今は高校生でしたっけ」
「少年はまだまだ子供だなー。私ほどにまで歳を重ねるとそれじゃあ満足できないのさ。もっと私のことを知って欲しい。私の名前を呼んで欲しいってね」
「それって、いつか僕にも分かりますか?」
「きっと分かるよ。大人になってふと卒業アルバムを見てさ。あぁ、あの先生は僕のこと忘れていないかなぁ。はぁ、初恋のあの娘は僕のことを覚えているかなぁ、とかねっ」
「大人って……ハナちゃんだってまだ大人ではないと思いますけど。後、僕の初恋はまだ終わってないですよ?」
「そうなの!? ちょーっとおばさんに聞かせてごらん? まさか君から恋バナが聞けるなんてねぇ!」
「ハナちゃんですけど」
「え、私……?」
「はい、だから推してるんじゃないですか」
「はは、ははは……。参ったな、そんな恥ずかしげもなくはっきりと。若いってすごいね。でも――」
「でも?」
「私はやめた方がいいよ。いつ消えるかもわからない新人アイドルに恋をするなんてもったいない」
「……消えるとか、そんな悲しいこと言わないでくださいよ……」
「あーあー、ごめんって。そんな泣きそうな顔しないでー。うん、これは私の言い方が悪かった。忘れて忘れて、ね?」
「……はい」
次の日。僕はハナちゃんを困らせた。
だから、今日で会うのは終わりにしよう。そう、思ったのだけど。きっと心を読まれてしまったのだろう。ハナちゃんの方から「また、会おう」と誘ってくれた。それがなんだかとても嬉しくて、ダメだと分かっていても僕は結局明日の約束をした。
***
「――あの番組って毎回出演する芸人さんが変わるじゃないですか。その、大変じゃないですか? 人間関係とか」
「んー、そんなことはないかな。実は共演してる芸人とは会話もなくてね。だって私の出番はたったの五分なんだよ? だーれも相手にしてくれない。悲しいけどね」
「それでも先月のは酷くないですかっ? あの芸人さん、まだハナちゃんが話している途中だったのに」
「あはは、あれねぇ。あの時は時間おしてたからなぁ。ほら、あの番組って生放送じゃない? だから芸人さんが話すのも、私がカメラから掃けるのも、タイミングが大事なんだ。先月はそれがたまたま噛み合わなかっただけ。だから、広い心で見ていてくれると嬉しいな」
「なんか、すみません……」
「謝らないでよ。少年はなにも悪くないんだからさ。でも、あの芸人さん最近売れてるらしいんだよねー」
「あ、そういえばこの間バラエティーに出てました」
「ホントに? うわー、悔しいな。先こされちゃったか。私も頑張らないと」
「ハナちゃんならすぐファンも増えますよ」
「……嘘でもそう言ってくれる君のこと、好きだよ。あ、今のはファンサービスだから」
「はぁ、分かってます」
次の日。番組の思わぬ裏話を聞けた。せっかくの出番が尺を稼ぐためだけのものなのは少し悲しい。けど、それでも諦めないハナちゃんはすごいな。ずっとずっと、応援したい。たとえファンが少ないままでも推し続けよう。
そういえば別れ際に僕の方から「また来ます」と言い出してしまった。あれはよくない。次は気をつけよう。――それはそれとして、約束したのだから明日も行かないと。
***
次の日。僕は当たり前のように図書館へ向かった。だけど、なにか様子が違う。ほぼ無人だったはずのこの場所にちらほら人の姿が見られたのだ。
近所の子供達や親子を横目に本棚の奥を目指す。奥から端へ。端から角へ。入り組んだ棚の先には机に腰をかけているハナちゃんの姿。差し込む夕日のせいだろう。退屈そうに足をブラブラさせるハナちゃんは白とも黄色ともとれる絶妙な色調に輝いて見えた。
「あー、やっときたね? もうっ、遅刻だよ、ち・こ・くぅ。私はずーと待ってたのにー」
「えっと、いつもと同じ時間だと思うんですけど」
「はぁーー。分かってないな、少年。男の子なら約束をした娘を待たせちゃいけないのさ。それこそ昨日から待ち伏せる心構えをだね」
「無茶言わないでください。それにハナちゃんも今日学校ですよね? だったらここに来たのもさっきなんじゃないですか?」
今日はまだ週末。流石に休みということはないだろう。だからハナちゃんがそんなに待っていないことくらい僕でも分かる。
その証拠にハナちゃんは悪戯っぽく小さく舌を出した。
「あ、ばれた? 実は私も今来たところだったんだ。奇遇だね、少年」
「分かりやすい嘘つかないでくださいよ」
「ゴメンゴメン。少年をからかうのは楽しくて。つい、ね」
嬉しそうに笑みを浮かべるハナちゃん。もちろん綺麗で可愛い。けど、そんな姿を前に僕の頭は他のことを考えていた。それはずっと前から引っかかっていたことだ。
「あの、前から思ってたんですけど……。少年少年って、僕にはちゃんと――」
「――そこまでだよ。少年」
まるで僕の声をかき消すかのようにハナちゃんが話し始める。今までにないくらい真剣な表情だった。
「――私と君はあくまでアイドルとファンだ。だから、お互いに名乗る必要なんかない。これまでだってそうだったでしょう? それに私の〝ハナ〟だって本当の名前じゃないしね。君は君。〝少年〟でいいじゃないか」
「……確かに、そうかもしれません」
あくまで他人。一枚壁を隔てたままの関係。それが僕達の本来あるべき関係だったじゃないか。別に名乗らなくてもファンであることに変わりはないのだから。
「分かってくれればいいんだ。私と少年を繋いでいるのはあくまでその押し花なんだからさ」
「そういえばそうでした。――今日も、見ますよね?」
「うん、見せてもらおうかな」
恒例のやり取り。僕が栞を渡して、ハナちゃんが受け取る。そして、少しの間静かに見つめると「……ありがとう」とこちらに返すのだ。だから、少しだけ驚いた。
「――君はこの花、綺麗だと思う?」
「え?」
今までにない問いかけ。想定外なやり取りの続きに僕は一瞬言いよどむ。それでも押し花と答えを待つハナちゃんを交互に見ると自然と言葉が出てきた。
「綺麗だと思いますよ」
「そっか、ありがとう。きっとこの花も嬉しいと思うよ」
「どう、いたしまして?」
「そうだ、ここまで付き合ってくれたんだ。お礼をしてあげなくちゃね。――目を閉じてくれるかい?」
「え、あ、はい」
言われるがままに目を閉じる。するとカタンっと床へと足がつく音が耳に入る。そして、そのまま足音が近づき――僕の正面で静止した。
お礼、一体なんだろうか。目をつむって、接近して。気がついたらなにか良い匂いが。匂い、が……。
え、近すぎじゃない? これじゃあまるでキスでもするかのような。まさかお礼ってそういうこと!? いやいや、そういうのは付き合ってから――じゃなくって! これは流石にまずいのでは!?
思考とは裏腹に僕の目は開かない。想像すればするほどに何故か動かすことができなかった。
ドクンドクン。心の音が強く速く、打ち続けている。
「……へ?」
ギュッと僕の手が握られた。間の抜けた声と共に目を開け視線を落とすと握ってきたのは華奢なハナちゃんの手だ。
「握手だよ。前にしたいって言ってたじゃない? もうっ、特別なんだからね」
「あ、あーっ! 握手、握手ですよねー! はは、はははは! すっごく嬉しいです!」
「ほらっ、声! 忘れてるよ!」
騒ぐ僕の頭に直撃するチョップ。それと同時だ「静かに!」と声が響いてきた。
筋が凍りつく。もしかしたら、ここまで誰かが注意をしに来るかもしれない。けれどそれは杞憂で、結局ここに人がくる様子はなかった。
僕はそっと胸に手を当てながら頭を下げる。
「す、すみません」
「改めて分かってくれたなら構わないよ。でも、少し騒ぎすぎたかなぁ。――ちょうどいい時間だし、お開きにしよう。名残惜しいけどね」
「そうします……」
僕は逃げるように帰路についた。今でも顔から火がでそうだ。キ、キスとか妄想にもほどがある。明日、ハナちゃんにどんな顔で会えばいいのか……。
羞恥に包まれながら今日が終わる。――――次に会う約束はしていない。
***
次の日。休日など関係なく図書館へ。でもそこにハナちゃんはいなかった。
いつもの場所にいたのは子供達と大人が一人。どうやら絵本の読み聞かせをしているらしい。
これでは人目を避けて会うことなんてできない。それに今日は約束をしていなかった。
今日は休日。もしかしたら、ハナちゃんもお仕事で忙しいのかもしれない。
〝みんなで図書館を盛り上げましょう〟。帰る時、そんなポスターが目に入る。なるほど、昨日から妙に人が多いと思ったらこれが原因だったのか。
でも、そんなことは僕にとってどうでも良くて。ベットに寝そべってからも頭の中はハナちゃんでいっぱい。本を読む余裕もなかった。
明日も会えないかもしれない。人目について迷惑をかけるわけにもいかないし、図書館に行くのはやめておこう。ハナちゃんに会えないのは残念だけど……平気だ。だって夜にはテレビから推しを応援できるのだから。
***
「あ、あれ? ハナちゃんがいない……」
日曜日。夕食の中、身を乗り出す勢いでテレビに向かっていた僕は首を捻る。いつまでたってもハナちゃんの出番がない。
すると父さんが呆れ顔で口を出してくる。
「なんだまたその番組か? んー、そんなに新人芸人が好きかねぇ。父さんが若い時なんかはアイドルにはまったもんだが……。まぁ、そろそろ終わりだろう? リモコン貸してくれ。ほれ、今日はクイズの日だろう?」
父さんの口から出た信じられない言葉。コトン、僕の手にしていたリモコンが落ちる。
「……なに、言ってるの?」
「おん? いやな、だからリモコンを――」
「違うよその前っ!」
「あぁ、お前が新人芸人好きだって話か。あれ、違うのか? 毎週毎週気持ち悪いくらい真剣に観てるもんだからてっきり」
父さんがリモコンを拾いチャンネルを変えると始まるのはクイズ番組。けれど僕の様子が気になるのか、父さんは番組ではなくこちらに顔を向き直した。
「……父さん。ハナちゃんって知ってる?」
「なんだぁ、急に。……うーん、ハナちゃんねぇ。いや、聞いたことないな。また芸人かなにかか?」
「……さっきの、番組なんだけど、そこにアイドルが出たことって……あった?」
「はぁ? そんなもん出るわけないだろう? それこそお前が一番詳しいだろうに」
「…………ごめん、ごちそうさま」
「おい、まだ残って――」
家族全員に同じような質問をした僕は自室のベットに倒れ込む。みんな同じ反応だった。僕は新人芸人が地元を盛り上げる番組に熱中していて。当然そんな番組にアイドルなんていなくて。――ハナちゃんなんて誰も知らない。
「……訳が分からないよ。それじゃあ僕が毎週見ていたハナちゃんはなんだったの?」
つい、言葉が漏れる。今起きている現実が信じられない。
チャンネルの間違いでたまたま目にした花のように綺麗な女の子。名前は〝ハナちゃん〟。長い黒髪でいつも白のワンピース。アイドルをしていて、たったの五分に全力で……。
まさか実際に出会えるとは思わなかったけど。この一週間は楽しかった。本当に、楽しかった。――この思い出も、偽りだったのだろうか。
「――そんなわけない。ハナちゃんは絶対にいたはずなんだ。だって、握手をしてもらった」
最後にしてくれた握手。その感覚は今でも思い出せる。あの時確かにハナちゃんは僕の前に存在していた。それは間違いない。けれどみんなの反応に嘘はないようにも感じる。だから別にみんながおかしいんじゃない。――おかしかったのは僕だ。
僕だけが見えていて、僕だけが会えていた。それが普通に戻った。ただそれだけ。
「もしかして」
鞄を漁る。中にある本を手にするとパラパラとめくった。けれど、どのページにも〝それ〟はなかった。
それは推しと出会うきっかけをくれたもの。それに興味を持ってくれたから僕は夢を見ることができた。――僕と推しの唯一の繋がり。
「妄想が過ぎる……けどっ」
あまりにも現実的ではない。それでも僕はまだ子供で。今でも夢心地でっ。――だから簡単に結論を出してしまう。
「……きっと、あの栞が……ううん。あの押し花があったから、僕はハナちゃんを見つけられたんだ」
僕はベットから起き上る。もう、中学三年生。幸せな夢からは覚めなくてはいけない。その為にはもう一度彼女に会わなくては。けれど、会い方が分からない。だって彼女は一度だってライブをしたことがないのだから。だったら――、
バタンッ。僕は自室のドアを勢いよく開け放つと台所に駆け込む。
「――母さんッッ!!」
公式に会えないんだったら。マナー違反だけど仕方がない。――もう、直接会いに行くしかないよね。
「はぁ、はぁ、はぁっ」
九月の夜をひたすらに走る。けれど闇雲に足を動かしてはいない。
「おいっ、待てってぇー! 急にどうしたんだ!? おーいっ!!」
少し離れたところから父さんの声。自分の子供が突然家を飛び出したのだ。追ってこない方がおかしい。
陸上部に入っていて本当に良かった。少なくとも父さんにはまず追いつかれない。
「ここが……昔キャンプに行った、山?」
母さんから聞いた山は想像していたよりもずっと近かった。僕は軽く息を整えると小道を歩き出す。
ここは僕が幼い頃に家族でキャンプをした山だ。正直ほとんど記憶はない。それでもあの時僕は大切なものを手に入れていた。それがあの押し花。
その花は僕がいつの間にか持ってきたものらしい。僕はそれをすごく気に入っていて。だから母さんと一緒に押したのだという。
「……?」
山道の途中立ち止まる。目に映るのは草木のみ。道なんてありはしない。けれどなぜか心が引かれた。
僕自身困惑しながらも道を外れて木々の中へ。またもや心配する父さんの声が聞こえたけれど、そのまま進んだ。
なんだろうこの気持ちは。どことなく懐かしい。進めば進むほどそれはだんだんと大きくなり、気がつけば僕は走っていた。
そうだ。僕はここを知っている。頭では覚えてはいないけど身体は確かに覚えていた。きっとこの先に僕の求めているものがあるのだ。そして、
気がつけば僕は開けた場所に辿り着いていた。
「――あぁ、やっと……見つけた」
目の前に広がるのは一面の花畑。大きなお月様をバックに白いような黄色いような美しい花が揺れている。それは紛れもなく僕が押した花だった。
そうただの〝花〟。それなのに、僕は一目見てこの花が〝ハナちゃん〟だと理解できた。
僕は一番近くで揺れる花の前にしゃがみ込む。
「ハナちゃん、ごめん。また、会いに来ちゃったよ」
返事はこない。当然だ。目の前にいるのはただの花なのだから。今の僕は〝一人で話している危ない人〟だ。
「いつも言ってたよね。〝静かに〟って。あれ、僕を守ってくれていたんでしょう? 僕が危ない人に見られないようにって」
やたらと僕の声だけに気を配っていたハナちゃん。最初はなんで僕だけなのかと理不尽に感じていたけれど、そもそもハナちゃんは僕にしか見えていなかった。その綺麗な声だって僕にしか届かない。
「そうだ。昨日見てきたけど、図書館にぎわってたよ。あの場所も子供たちでいっぱいだった。ありがとう、僕から栞を取ってくれて」
金曜日。思い返せば栞を返してもらっていなかった。僕が急いで帰ってしまったから。あれもハナちゃんがそう誘導したんだ。あの状況じゃ流石に目につく。だから僕たちを繋げてくれていた唯一のチケットを取り上げた。
「おかげで僕は普通に戻れたよ。でも、辛かったよね。あんなに見つけてほしがっていたのに」
有名になりたい。ちやほやされたい。そのままの意味だったのだろう。けれどこんな山奥じゃそれは叶わない。だから僕に声をかけたんだ。
でも、肝心の僕はどこでその花を押したのかも分からない少年で。きっとがっかりさせてしまったに違いない。
「だからまた見つけてあげられて本当に良かった。ハナちゃんの本当の名前はまだ分からないままだけど。安心して。実はそういうのが得意な人がいるんだ。こんなに綺麗なんだし、絶対にファンも増えるよ」
僕はそっと花に触れると静かに笑った。それから数秒見つめていると後ろから大人の足音。
「おぉぉっ!? なんだなんだ!? 一面花畑じゃないか! しかも白と黄色で……見たことがない!」
父さんがようやく追いついてきたらしい。それはつまりこの光景を目にするわけで。
「くっそぉ、カメラ持ってくればよかったぁ!」
予想通りのこの反応。父さんらしい。僕はそんな父さんをこっそり指さしながら囁く。
「ねっ? もうファンが増えた」
答えは返ってこない。それでも風に撫でられ踊る花は不思議と嬉しそうにも見えた。
「あぁーなんでこの花光ってんだ!? こりゃ物凄いスクープ――って、違う違う。そんなことよりもっ!」
「――痛ったぁぁ! なにすんの父さん!」
座り込む僕に落ちるげんこつ。僕は涙目になりながら振り返る。そこには笑顔の父さんがいて。
父さんは握った手をそのまま開くと乱雑に僕の頭を撫でる。
「たぁーく、こんなとこまで逃げやがって。で? いったいなにしに来たんだよ」
「――あー、ちょっと父さんを紹介したくてさ」
「はぁー? なに言ってんだお前。意味が分からん、もっと詳しく――」
「もーいいのー。要は済んだんだからっ。ほら、帰るよー。父さん」
「おい、ちょっと待て! 少しだけネタのメモをだな!? おい、待てって――」
十五の夜に輝く美しい花畑。僕はこの夢のような光景を今度こそ忘れない。
***
『見てください! この一面を照らす花畑! 月の光を浴びて今年も輝いています!』
テレビを見ると見覚えのある景色が目に入る。数年前に見たあの花畑だ。
あの花がもうとっくの昔に絶滅していた種だと知ったのは少し後のこと。最近なにかと口うるさい記者が撮った写真から分かったらしい。
「〝私ほどにまで歳を重ねると〟か。そのまんまだったな」
一度消えたから。忘れられてしまったから。思い出してほしい。もう一度名前を呼んで欲しかった。だけど気がつく人はいなくて。偶然花を持っていた少年の前に現れた。
「なーんて、我ながら都合の良い妄想だことで」
所詮は中学生が見た夢で、誰だって信じてはくれない。だから、あれは妄想でいい。
『この花を押し花にすると――』
人気俳優が花を押し花にしている。なにやらご利益があるとか巷では噂されているらしいが……それは間違いだ。だって〝ハナ〟は押すものじゃない。推すものなのだから。
『それではまた来週!』
気がつけばゴールデンタイムも終わりのようだった。毎年この時期にはどの局からも大人気な花も少しは休めるだろう。
最後に再び花畑の全体が映しだされる。その光景を特に前のめりになることもなく眺めていた。あのころじゃとても考えられない。
これがきっとあのヒトが言っていた大人になるということなのだろう。あれが〝少年〟の初恋の終りで。夢の終わりだったのだ。
それでも。そうであっても〝青年〟は思ってしまう。
「あぁ、やっぱりきれいだなぁ」
――ハナちゃん。