二節
民宿に泊まり続けている客人ような居心地の悪さがあった。
小学校に入学して暫くは自分の与えられている状況が自然だと信じ疑ってはいなかったが数年経ち、昔よりは広く世界を知った私はどうしても周りと自分を比べてしまう。そうした時、友人間の常識と私の持つ常識が著しく噛み合わないことがあった。
私は宿題やらの小言を両親の口から聞いたことが無い。私の駄々に難色を示されたことも無い。
友人らは風呂から上がると皺なく敷かれている布団も、毎日三食豪勢な食事も、馴染みのものでは無いらしい。
父は郵便局で勤めており、決して根本的に裕福な家庭では無かった。しかし夫婦二人、身の丈以上の贅沢など求めない人生で蓄えがあったという。それを私の贅沢に充てていたらしい。
その時には既に両親の愛情は留まることを知らず、私の両手ではとても受け取りきれないから溢れ続ける。偶にその愛情は恐ろしさすら感じることがあった。
目が合う度、微笑みかけて私のどこかを褒めてくる。私の所作を常に気にして世話を焼いてくる。
行き過ぎた愛情は私に疎外感すら感じさせた。家族で食卓を囲んでも心のどこかでは寂寥感に苛まれている。
世間で言う家族はお互い本気で喧嘩をし、真剣にぶつかり合う。上流から流れる石が下流に着く頃には小さく丸くなっているように、家族愛もそうして深まるものなのではないか。周りと比べて私の家庭に無い真剣な衝突とやらを羨んでしまう私が拭えない。
でも私は自らありもしない言い掛かりを愛する両親に投げ掛け言い争いをしようなどと思う様な親不幸者ではない。両親が唯一、口酸っぱく私に言い聞かせた事がある。私の人間性はその言葉で作られたと言っても過言ではない。
「春子、あなたは人に優しく生きるんだよ」
私はその言葉を世界の真理だと信じ生きてきた。ここまで甘やかされながら高飛車にならずに育ったのは両親の言葉あっての事。
思い出す度、私は考えを新たにする。このままでいい。私は贅沢だ、足りないものを欲しがり続ければ常に満たされることなんてないのに。必要に喧嘩なんて求めなくても、甘ったるいくらいの愛情で満たされた家族がいてもいいじゃない。
自己欺瞞を反芻し溢れる愛情への不信感が薄れ始めてきた何度目かの冬、それはまた母との入浴中に起きた。
先に浴槽に浸かっていた私の後に母が続く、そしてまだ肩まで浸かってもいないのに何か感じ取ったのか私に背中を見せるよう言ってきた。
この頃の私は天使の痣のことを勿論ある事は忘れずにいたし偶に見せなさいと言われ見せることも珍しくなかったが、私としては対して興味も特別な感情を持たずに天使がいるのならそれに越したことはないと呑気に思っていた。
抵抗なく母に背中を向ける。湯船の湯が一回大きく波立って、重く長い深呼吸「そんな」抑えきれず漏れたような酷く小さな声が狭い風呂場で行き場を失う。
「どうかしたの?」
「痣が、ね。大きくなってる」
固唾を飲む音が私にまで聞こえた。痣に無心だった私も流石に一抹の不安を抱く。
「痣、そんなに悪いの?」
「そうね…見つけた時は小さかったし、それに天使の姿をしていたから私達も楽観視していたけど、もしこの痣が…皮膚癌とかだったら大変だわ」
母が一拍間を置いて言った言葉は最近見たテレビで聞き覚えがあった。流れる映像から目つきの悪い白衣の医者まで子供の私には理解できないことも含め怪談話のようで耳を塞ぎ目を背けた。
もしそれが私の背中にあるとしたら。次の瞬間背中に走ったのは悪寒、ではなかった。縫い針の先端で優しくつつかれているかのような淡い痛み。それが背中の中心から広がっていく。
「お母さん、私、死んじゃうの?」
この前見たテレビと今走る背中の痛みが私の危機感を増幅させた。一度揺れた感情は流れるように崩れて涙も声も止まらない。もう私はどうしたって死んでしまうのだという現実が背中に張り付いて離れない気がして悲嘆の涙に溺れた。
母は直ぐに私の頭を抱いて。
「怖い事言ってごめんね、春子はきっと大丈夫だから。明日お父さんにも仕事を休んでもらって一緒に街の病院に行こうね。そしたら大丈夫になるから」
母に抱えられながら未だ背中の痛みは消えない。むしろ湯に浸かり体温が上がるにつれ針が深く肌に刺さる、火で炙られる、ヤスリで擦られる、どんな形容も違う。私の知らない傷みが強くなり、母の優しさと痛みによって薄灰色に濁った涙は浴槽の水面で滲んだ。
結局、私を襲った得体の知れない背中の痛みは風呂から上がってしばらくしたら波が引くように去ったが私の命を脅かす恐怖は簡単に雲散霧消というわけにもなってはくれず、眠れぬ一夜を過ごす羽目になった。
翌日、微睡みの間を彷徨っていた私は居間の方で忙しく鳴る足音を聞いて夜が明けていることを知る。重い頭を持ち上げて居間に行くと既に食事を済ませた両親が出かけの支度を整えている最中だった。
母に急かされ私も早々と食事を押し込み、身支度を終わらせる。そして出かける直前、父にも背中の痣を見せた。滅多に暗い声を出さない父だが数秒黙って痣を眺めた後「不味いことになったね」と苦虫を噛み潰したような顔で言った。
まだ朝の微睡みから覚めやらぬ心地でいた私は突然現実に引き戻され、更に頭が重くなった。
「背中は痛んだりするかい?」
「今は平気」
「よし、なら早く行こう。早い方がいい」
私のことを第一に思って急いでくれているのだろう。父に手を引かれ車に乗り込んだ私は淀みのない二人の愛を感じた。確かに両親の愛には偶に溺れそうになることがある、然しそれは深すぎる愛故抑えきれないだけ。私がそれに対して疎外感を覚えるのは私の愛が両親よりも劣っているからに過ぎない。
私がもっと二人を深い愛情で慕うことが出来たなら手から溢れることなんて無い。全て飲み込んでまた更に両親を愛することが出来たんだ。私はなんて薄情な子供だろう。
荒い砂利道で大きく揺れる車内、また思い出したかのように背中が疼き出した。しかしそれを言い出したところで二人を心配させるだけ、私は両親への愛の下にこの痛みを隠す。
気を紛らわすため曇った車窓を服の袖で拭き取り景色を眺める。青を取り戻した空は乾いた光を振りまいて、奥の山に残る雪の澄ました化粧が映え、禿げた田んぼの脇に流れる用水路も乱反射する。痩せこけて寂しげな針葉樹も両手を上げて歓喜しているように見える。今日の朝は最近では久しく陽の光が温いと感じられる程の陽気だった。運ばれてくる風には微かに春の匂いが乗っていて私の鼻腔をくすぐった。
私は春が好きだ。自分の誕生日が春だと言うのもあるし名前にも春が入っている。でもそれだけじゃない、我が家の庭には両親が私の誕生日を祝う意味を込めて植えた梅があり、それがあと一ヶ月と少しすれば綺麗に咲乱れる。家族三人、縁側に腰を下ろしてその梅の花を眺めるのが私は何より楽しみで仕方がない。その時の景色を空想すると思わず口角が上がってしまう。
ふと妄想から目を逸らして外を見た。既にガラスの向こう側は電柱や住居に塗り替えられて、奥に並んだビルは物憂げにこちらを見つめている。それはさながら剣山の様相を呈していた。
あそこに私達が向かう病院があるらしい。医者に掛かるなんて生まれてこの方縁のなかった私は先程まで春を思って浮かべた笑顔は何処へやら。思い出したらガラリと表情が霞んで、このあとどんな診断を下されるのかと思うと思考は曇るばかりだった。
その病院は入り組んだ住宅街にあった、看板がなければただの住居と見紛えてもおかしくないシンプルモダンな建物。母が言うに信用の置ける皮膚専門の先生がいるとの事だから私も同じく信用を置いて痣を晒す覚悟をした。
内装は玄関から上がると白と青を基調とした待合スペースと受付があるだけ。天井のスピーカーからはオルゴールアレンジされたカノンが狂ったように流れ続けていた。
入口で受付を済ませた後、間に二人の患者を経て私は診察室に通された。信用のある先生とのことだから、さぞお年を召していらっしゃるのだろうと思っていた私は目を細め笑う若い男性先生の登場に少し驚いた。その先生は母が私の痣のことを細かに伝えている最中、常に口角を少し上げ、いかにも朗らかで親しみやすい人間ですよとでも言いたげな表情を作っている。私はそれが昔持っていたプラスチックの人形と似ているのを思い出して独りでに面白くなったりした。だが直ぐに私の気分は重く腹の底に落ちることとなる。
「じゃあ後ろを向いて背中を見せて貰えるかな」
私の目線に合わせて笑いかける先生の顔。断頭台に立たされた私には死神の薄ら笑いにしか見えなかった。
だってこれからの私の人生、この先生の言葉一つでどうとでもなってしまうのだ。この先生がお前は癌だと言われたらそうだし、手術だと言われたら背中を正方形に切り取られる。最悪、お前はあと三日で死ぬと宣言されたなら私はどれだけ泣き喚こうとも三日後しっかり死ぬのだ。
ああ、それならいっそ私は信用の置けない老いたヤブ医者にでも見てもらって何も知らないまま三日後に突然死んでしまいたかった。
医師に見てもらう事が初めてだった私はそれほど極端な思考に陥りながらも両親と医師に囲まれた診察室に逃げ場など無く、首を差し出す心持ちで背中を見せた。
私は私を脅かす痣を見た事も無ければ、今は私の運命を決める医師の表情も見えない。医師は私の背中を手や聴診器で触ることもせず、ただ無言で眺めた。
沈黙、長考、何もかも私には知らず見えない。ちぎれるほど強く唇を噛んで辺りに充満する恐怖から目を背けようとした。
「どうです先生、娘の容態は」
耐えきれなくなった母が不安そうに尋ねた。
後ろで大きな鼻息が響く。
「…どうも何も」
訝しむような声が聞こえて、眼前が闇に落ちるのを感じた。
「私には娘さんの背中にお二人の仰るような痣が見当たらないのですが」
「いやいや…先生よく見てください。あるじゃないですか。ほらここにおかしな形の痣が!」
母が声を張って何か言っている。また暫く、今度は冷たい手が背中に触れる。その手は私の肌を伸ばしたり押したりした後。
「やはり、見た所では娘さんの肌に異常は見られませんね」
先生の診断に両親は言葉を失っているようだった。私の脳は既に追い付けず、とりあえず三日後に死ぬようなことは無いだろうと全身に張り巡らせていた緊張がため息となって口から漏れた。
しかし両親はそれでは納得いかないらしい。ある物はある!冗談はよしてくれと言い出して後半からは先生との言い争いのようになりながらも、先生とて無いものは無いと譲らない。
私は先生の言う通りの事実を望んでいた。痣なんて例え天使だろうと無い方がいい。ただ両親が嘘なんてつくはずがないとも思っていたからどっちつかずな言葉で場を濁した。
「でも先生、今痣がなくても私背中がたまに痛む事があって、その時に痣が出るのかも」
会話に私が入ったことで三人とも我に返ったのか熱の籠り出した部屋の空気が少し落ち着いた。
後ろから椅子を座り直す時の軋む音が聞こえる。
「まぁ、とりあえず紹介状を書きますからこれを持って一度大病院で見てもらってください」
いつの間にか、への字に曲がった口角で冷たくあしらわれた私達は半ば追い出される形でその大病院に向かった。
道中両親は先程声を荒らげてしまった為ばつが悪いのか「私達は春子のために言っていたんだよ」とまるで言い訳のような言葉だけ喋ってからは口を固く閉じ、静まり返った車内を放ったらかした。
そんなこと、私はちゃんと分かっているのになぜ今更言うのだろう、もしかして本当に後ろめたいことがあるのだろうか。後部座席から愛する両親の横顔を見ても、そこに欺瞞の影が紛れているように思ってしまう。溢れるくらいの愛情はその影を隠すためなんじゃないか。
なんて、冗談に収まらない様な事さえ簡単に頭を掠める私が嫌になる。ここまで大切に愛をもらいながら育ててもらったのに、なぜ心から二人を信じて身を任せようと思えないのか。
はっきり、目を向けよう。私はさっき医者と両親が言い争いになっているのを見て、恨めしく思ってしまった。
ああ、こんな卑しい私なんて痣でもなんでも早く蝕まれればいいんだ。変化の無いぬるま湯のような家族関係じゃ満足出来ない贅沢な私なんて!
まだ青い心を持つ私には真っ当な自己嫌悪がよく沁みた。だから目を背けるために有り合わせの言葉を掴んで投げた。
「お母さん、お父さん。私きっと大丈夫だよ。そんな気がするの、二人のおかげで背中が軽くなったみたい」
春子がそう言うからそれに越したことはないね、二人笑って、私も笑った。乾いた心根も満たされない欲求も吹き飛ばすように。馬鹿みたいに笑った。
大病院には日が傾く前に着いた。しかし帰路に着く頃には西の山奥に赤く燃える斜陽が隠れる寸前だった。
さすがに大きな病院は人が多い、待ち時間だけで二時間は経った。そして軽く診察してからレントゲンを撮るまでまた更に待たされる。
そうして得た結果は惨憺たるものだった。医者は口を揃えて痣などないと言い切った。外傷、内傷見当たらない、レントゲンにも異常無し、健康児の判を額に押された。
最後に医師は「背中の痛みは思春期を過ぎれば治る」などと曖昧な診断結果を渡して満足げ。なんだろう、私の訴えを子供が使う仮病の類とでも思っているのだろうか、塗り薬ひとつも出してはくれない。終始不満は残るが、もし両親の意見を突き通そうとし続ければ今度は二人が眼科のお世話になりかねない。
「…馬鹿にしてやがる」
オレンジに染ったビル街の県道、信号機に阻まれながら普段温厚な父からは想像もできない言葉とやるせなさが篭もった声。
しかし私も同じ心持ちだった、まるで真面目に取り合ってくれていない。今日見てもらった医者はもれなく全員ヤブ医者だったに違いない、私は信用のおける医師や大病院にいる名医よりも両親の言葉を信用した。
いくら学があって経験も豊富で、最新の機械で私の体の中まで覗いたってあんなことしか言えないんだったらそれまで。両親の方が分け目も振らず私を見てくれている。私の変化を一番に感じとって第一に考えて、行動してくれている。ならば事実は、正義の愛はどちらにある。天秤にかけるまでもない。
私は天使の痣を受けいれた。誰がなんと言おうと痣はある。この目で確認するまでもない。
「ねぇ、私の痣は天使の痣なんでしょ?ならさ、今日見てもらった人達全員、心が汚れてて見えなかったのよ。二人みたいに心が綺麗な人しか見えないんだと思うの」
欣喜雀躍と声を弾ませた。
助手席に座る母は一切体を動かさず。
「確かにそうね」
灯り始めた街灯が車窓から流れる、薄暗い車内に響いたのは心在らずな、苦笑。
話しかけた笑顔のまま私は固まる。裏切られた、は大袈裟だが、母にここまで素っ気なくあしらわれた事がなかったから、なんだか突然、心が寂しくなった。明らかに今私の声は母の横を通り過ぎて対向車の前照灯にかき消された。
分かってる。母だって一日駆け回った挙句、痣なんてないと言われ困惑していると思うし私の事で色々悩みの種が増えただろう事は。
でもそれなら、こんな中途半端な相槌をするくらいなら!「少し黙ってて」と強く言いつけてくれた方が、私は幸せだった。「そんな言い方ない」と拗ねて喧嘩した後なら、痣なんて「きっとどうにかなる」と笑い合えるんだ。
母の言い方は何があっても波風立てまいとする棘もなければ私に当てようとする意思もないような言葉。
「ねぇ、二人にとって私は言い争いをするのも億劫な存在なの?」言えたら楽なのに、優しくあれと心に刻まれた私は二人を傷つけてしまうような言葉を自らの口からは到底出そうにない。
闇のない愛はいくら満たされても私の中ですぐ消化されて、残るは空っぽの心だけ。
二人の愛は喉が渇く、飲んでも飲んでも喉が渇く。影がなければ物は存在しない、幽霊に影がないのとおなじ、存在の証明は闇の濃さに付随する。二人の愛は、埃の立たない真っ白な部屋、甘ったるく、文句の付けようのない。
だから満たされない。味の無いガムじゃつまらない。説得力が!ただ口から出しただけじゃないという説得力が欲しい!陰影が濃く、本当に存在しているんだと信じられる愛を!
私の中で何か得体の知れない怪物が育っているのを感じた。背中の刺すような痛みはもう後頭部や脇腹にまで侵食を進め、前身が痛みで悶えるのは時間の問題。
私たち家族を乗せた車はもう都会の喧騒を離れ、点々と住居がある限りの寂しい景色が広がっていた。
沈んだ太陽に光を奪われ西の山々は夜と同化する、しかしその後ろから漏れる光で山の頂だけが燃え盛っているように見えた。
虚心で見つめる。ああ…あの炎で私たち家族を燃やしたら後には何が残るだろう。考えた自分は吐き気を催す、共鳴するかのように背中の痛みが広がる。二の腕から指先まで両脚も震えが止まらない。
父が気まずい静寂を裂くためだけに掛けていたラジオが車内に響く。私の息遣いはその音に吸われ消えた。