一節
夏を眼前に見る六月下旬、今日は地球に穴を開けてしまうかと思うほどの強い雨の夜で初夏の薫風は雨粒に吸い取られ影もない。私はその雨雲の下を無防備に歩く。今にも倒れてしまいそうな千鳥足は、とある場所に向かうと言う意思だけで何とか地面に足を立てている。
その意志とは「死」だ。今私は死ぬために生きて歩いている。
愛想笑いで伸びきった顔の皮膚は、もう見るも無惨に醜いんだろうと思う。死ぬことを決めた私は軽くなった心を抱えて、傷だらけの体で歩く。
向かう場所は川だ、近所に人喰い川なんて異名の付くいい川がある。豪雨が朝から降り止まない今日みたいな日には他人の火事を覗くのが生き甲斐みたいな奴もその川を覗こうなんてしない。屈強な心を持つ男でさえ、水がうねり下っていく音を聞いただけでも悪魔に囁かれたかのように震え止まらなくなり半生で犯した罪悪を悔い、神に後生を祈り始める程。
今の私にも街頭で淡く照らされたアスファルトの先から、とても水が流れ出た音とは思えない怒号に似た阿鼻叫喚が聞こえてくる。しかし私にとってはそんな叫び声などよりもっと、恐ろしいものがある。
自分の背中にある「痣」だ。もう二人。人を殺めた。二人とも私の最愛の人達だった。全員私の背中を巣食う痣が呪い殺した。
私はこの忌々しい痣を自分の目で見たことは無い、何せ背中に居るのだから見ようにも上手くいかない。だから常に他人からの言葉でしか痣の造形を知らない。ある人からは優麗な天使の痣だと褒められ、またある人からは青ざめた顔で悪魔の痣だと戦かれた。
当の私はと言うと、この期に及んでまだ天使の痣だと信じている。何より愛している人が一番最初にそう言ったのだ、その後に悪魔の痣だと言った人は須らく自分の不幸を私の痣のせいにして憂さ晴らしをしていただけ、天使の痣を持つ私に妬ましさを抱いて悪魔などと言っただけ。先程も呪い殺したなどと言ったが、それも私がそう思ったのではなく勝手に決め付けられたのだ。
呪いだ祟りだ馬鹿らしい、私の手は潔白、今まで人を傷つけた例も無いのに。天命や病気など責め立てることの出来ない末期に於いて私の痣は八つ当たりの的として丁度良かったのだと思う。
最早この際、私に取り憑いているのが悪魔だろうが天使だろうが関係がない。どちらでも私に害悪しか呼び寄せない痣である事は変わらない。
今、人喰い川に掛かる石橋の上に足を乗せた。夜雨に晒された石橋は黒ずみ、下を流れる激流が絶え間なく橋を揺らしている。
私は橋の欄干に手をついて前屈みになり川を覗いた。夜を溶かしたかのような黒く濁った水がぶつかりうねりながら川底を削り取る音が猛り声になって辺りに轟く。雨音もバックミュージックに成り果てた。
眺める私は恐怖も未練もない。この痣を抱え生きる将来を想像した方がもっと果てしなく恐ろしい。人間味が剥離して白痴のように薄笑いばかり浮べる自分がもうすぐそこまでいる気がしてならない。
得体の知れないものを背負って挙句そいつに乗っ取られてしまうのなら、背中の痣一つで死神扱いされるのならば、私は私自身でこの身ごと葬り去ってしまう他ない。腐る前に、思い出して鼻をつまむような思い出が募ってからでは遅い。
轟轟と叫び流れる水は刻々と川縁を削る。死ぬ間際の澄んだ思考でそれを見ていると私の心の底に沈殿した毒さえも洗われる気がした。そして残るのは色褪せないようにとしまい込んでいた思い出だけ。天使の痣だといった両親の微笑だけが美化される、だがもう私には縋る糸もない。二人の微笑が見るものでなく思い出すものになってしまった今では。
雨降り頻る中、私の頬に雨以外が伝った。いい思い出ばかりではなかった、しかし浮かんでしまった笑顔のせいで走馬灯の如く、記憶が溢れて止まらない。私は心の上澄みに浮かんできた沢山の記憶の中で一際輝くひとつを手に取った。
安定感のある両手に支えられながら仰向きで木目の荒い天井を見ている。もちろん視界には二人の優しい微笑がある。
私はとある片田舎に住む初老夫婦の元に生まれた。二月四日、春の匂い立つその日に生まれたから「春子」と名付けられた私は中々子供の出来なかった両親にとって神様から授かった天女も同然だったらしい。私は二人の溢れんばかりの愛情を小さな両手で受けて育った。栗色の目が可愛い、翡翠とは正しく春子の髪のことを言うのだ、なんて。
もっともらしい喃語が口から出た時なんて部屋中小躍りで回ったのだと言う話は耳が痛くなるほど聞いた。
私はその頃の記憶が薄いから両親からの話でしか当時を語れないが自身の記憶で唯一朧気に母の言葉が残っている。
「ただ、春子が生きていてくれるだけで私達は幸いなんだよ」
母はそう言って私を深く抱きしめる。思い出しただけで全身が温かくなる優しい言葉、しかし私の首が座り、両足で歩き、鏡に映るのが自分だと認識できるくらいの年になった時からは聞いた覚えがない。いつか見た夢と混合しているのだと決めつけるのも呆気ないし、母に事実確認して首を傾げられても悲しいから未だ心の奥にしまい込んでいる。
私が自身の痣の存在を知ったのは六歳になった年の冬頃だったか、母と一緒に入浴していた時の事。嫌がる私を優しくなだめながら髪の毛を洗ってくれていた母が突然、吸った息をどこかに無くしたかのような沈黙と私の頭を撫でるように洗っていた手が震えているのを感じた。
洗髪が特に嫌いだった私は暫くは独り言のように喚いたりしていたが、母のただならぬ様子と沈黙は子供心に恐怖を抱かせた。
「だいじょうぶ?」
不安そうに震えた声、しかし数秒後母はクスリと笑ってまた何も言わず私の頭を撫で始めた。それはそれは優しく撫でる。さっき迄も勿論優しく洗ってくれていた。だが今の手つきは触れたか触れてないか分からない、頭の輪郭をなぞって形を整える、薄氷を踏む時のような慎重さで、撫でる。
沈黙が開けてから徹頭徹尾そんな調子で勘違いとは言えない違和感が確かに残り続けた。気になった私は浴槽に浸かり茹だってしまう前に訳を聞いた。やはり母はクスリと笑う。
「春子の背中にね、天使が居たんだよ」
「てんし?」
「そう、小さな小さな子供の天使。その子が羽を広げてね、春子の背中で飛んでいるの」
私がその情景を思い浮かべるより早く、母は私の頭を強く抱きしめた。なにか大きな感情に溺れている、そんな声を耳元で漏らす。
「ああ、春子はやっぱり天使の子だったんだね。哀れな私たちの元に神様が遣わしてくれたんだ、ああ、春子、ありがとう、ありがとうね」
今にも泣き出しそうな母の胸の中、キョトンとする私。母が一体何にここまで悲しさを覚え、私にありがとうと言うのだろう。
突然の事で心が追いつかない。だが母の嗚咽混じりの涙声を初めて聞いた私は掛けられた感謝の言葉よりも誰が母を泣かせたのかという疑問が浮かぶ。
涙とは悲しい時に流すもの。じゃあ母は何が悲しかったのだろう。先程の会話を思い出す、その中には私と母しかいない。
「おかあさん、ごめんね」
私の口から出た最初の謝罪。慈しんで育てられた私はその日に至るまで怒られたことは疎か謝ったことすらなかった。この謝罪さえ罪を認めて出た言葉ではない、目の前で泣きそうな母がいる、そうした時ただ純粋に泣き止んで欲しいと願って飛び出た言葉だった。
母は恐る恐る私の顔を見た。私の目に映ったのは火照った頬と細めた目から光る涙、零れるのを待たず、また母は強く強く私の頭を抱いて、今度は抑えることなく声に出して泣きだした。
三十九度の湯に浸かり逆上せかけていた私はこれ以上母を宥める術も持たず、父が異変を感じ扉を開けるまで朦朧とした意識で天井の水滴を眺めていた。