第七話 酒は飲んでも呑まれるな
翌朝になったが、叛乱軍との戦端はまだ開かれる様子はなかった。小競り合いみたいなものはあるようだが、それ以上のものになっていない。
懸念事項として、昨夜の会議にて、北方の諸侯が旗幟を鮮明にしていない点が問題になり、そちらに使者を送るかどうか、それとも西方諸侯軍だけで叛乱軍と戦うかで結論が出なかったものらしい。
まだ5日目で兵が集まりきっていないというのもあるが、単純な兵力や練度では優勢の見込みであるものの、もし北方諸侯が叛乱軍に与して、横っ面から殴りつけてきたら、戦線が崩壊しかねない、という認識のようだ。
なお南方は港も含め王家直轄地が多く、有力な貴族は少ない。昔は南方にも公爵家があってそこがまとめ役をしてたのだが、ある時不幸と不祥事が重なってお家断絶。
公爵の位は、ちょうどそこの娘が嫁いでいっていた王都近くのミルトン侯爵家、つまりうちの家が継いで、南方の領地の大半は王家直轄地になったのだった。
そして南方方面軍は外洋向けの海軍が主体のため、現時点ではあんまり戦力にならないっぽい。王都の近くを流れる大河ファラモントには河川警備用の水軍がいるが、こちらは数も少なく王家直轄の中央軍の管轄であるため、中央軍もろとも叛乱軍に取り込まれているようだ。
王国直轄の軍は、王都周辺の中央軍と水軍、そして西方国境警備隊、南方方面軍(海軍)で、他の地域は諸侯がそれぞれ自領に兵を抱えており、何かあれば適宜必要に応じてそれらから編成され、それを中央軍が補佐する、というのが本来の形。
なお、東と北は高い山地が国境になっているので、直轄の警備隊は置かれていない。今回叛乱に関わっていると思われるメルキスタンは東北方面の隣国で、山地の谷間の街道を通じて交流があるが、伝統的に友好関係であり、国境警備は東北方面のチェン辺境伯の手勢が担当している。
南方については、とりあえず叛乱軍に対して守りを固めよ、という指示を飛ばしているようだが、あちらは火事場泥棒で他の国が手を出してこないかどうかのほうも気にする必要があるだろう。漁業の権益に関連して、普段から海原という見えない国境での争いをやっているようだから……。
とりあえず今のところの方針では、王都解放軍(仮称)はお義父様の領地に集結させ、西方諸侯で最も大きい領地を持つサーマック公が当面軍事の指揮をとる。そして北方に対し姉上たちが直接赴いて話をつける、という方向性になりつつあるようだ。それもできるだけ急ぎで。
これもちょっときな臭いところがあるが、普通に使者を送るよりも、大物がガツンといくべきだというのはこの場合間違っていないのだろう。だがそこで姉上が動くのは正直奇妙だ……姉上は自らを囮にするつもりなんだろうか。
さて今日は朝早くから、姉上のところにフェーデル侯の子息たちが挨拶にきていた。フェーデル侯家は、ミルトン公爵家の分家であり、西端の国境のほうに領地をもち、隣接するビルナーヴァ辺境伯と並んで、武に優れた一族として知られている。
また、同領は西方国境警備隊の駐屯地にもなっていて、結構頻繁に演習で競いあっている都合上、練度も高い。けど、よくこの短期間であそこから馳せ参じることができたね、あるいは騎兵だけで先行したのかな。
なお、当代のフェーデル侯ルドミラは女性で、それでいて多数の武勲もあげている女傑だ。女性で貴族家の当主ってうちの国にもあまりいないのだけども、往年のあの人の実績からすると、そりゃそうなるな、というくらいには凄い。
しかしあの人はここ数年、病に伏していて、あまり表舞台に出てこないのだ。……魔術でも治らない病気というものは、ままあるものだ。母もそうだった。
来ているのはそこの長男のヨーゼルと次男のマクセル、そしてその従者。長男のほうはよく知っている。伏せっているフェーデル侯の代理として、昨年くらいから実質的に当主の仕事をこなしている。
普段は悪い人ではないが……酒癖が悪い。本人は記憶が吹っ飛ぶようで、下ネタ連発の暴言に、家臣を殴る蹴るのご乱行を覚えていないときた。そのため家内に禁酒令がでている。
……というか、酒癖が悪いのは彼に限ったことじゃなくて、いや彼は特にひどいのだけどさ、ミルトンとフェーデルの一族って、どうしてか酒癖悪い人ばっかりなのよね……お義父様も正直……。
次男のほうはもっとよく知っている。彼は学園を昨年卒業した一つ上の先輩であり、学園ではいろいろとよくしてもらった。なにより……私の婚約者だったから。
「ご無沙汰しております、オルフィリア様」
「ヨーゼル殿、マクセル殿、よく来てくださいました。フェーデル侯よりの心強い援軍、嬉しく思います」
「まずは先遣隊として参りました。母も体を壊していなければ、即座に馳せ参じるところなのですが……このたびは私を名代とさせていただきます」
兄弟の父親のほうは元気なはずだが、あの人は武人肌じゃないからね。遠征軍の指揮官には向いてないだろう。
「ヨーゼル殿とて、もはや戦場においてはかつての母君に劣らぬと専らの評判。昨年の西方テシュタント川での戦では、ヨーゼル殿の指揮で勝利を得たと聞きおよんでおりますよ」
「いえいえ、未だ若輩の身なれば、母の鍛えし頼もしき部下たちあればこそです」
「ご謙遜を。正直、此度の敵は侮れない相手と思っております。ヨーゼル殿のお力をお借りする場面も多いと思われますが、宜しくお願い申し上げます」
「マクセル殿、このたびは……」
「はい、オルフィリア様」
「……妹のことは、残念でした」
「……正直に申し上げまして」
「なんでしょうか」
「話を聞いたときには、ラファリア殿が、オルフィリア様のふりをしている可能性も考えたのですが……」
「マクセル!失礼だぞ!」
「…………」
そこを不審に思われるのは仕方ない、実際中身だけの入れ変わりだからね……王宮での従者たちも今は向こう側だし、誰もついてきていないのは不自然というほかない。
その辺を誤魔化すため、いろいろなでっちあげに協力してくれたお義父様、ご迷惑をおかけします本当に。まあでっち上げに気がついてるか、疑問に思う人はいるのだろうけど、表立っては声にしていない。
「申し訳ありません。実際にお会いしてみると、間違いなくオルフィリア様でした。そうであれば、そういうことなのでしょう」
そう、不幸中の幸いはそこである。なにせ私とオルフィは容姿こそそっくりだけど、中身がかなり違うのだ。髪型を揃えてお互いに入れ替わりを画策しても、知っている人間にはすぐバレる程度に、雰囲気が違うらしい。
自分達ではどこが違うのかよく分からないのだが……。前にマクセルに言われたのは、目が違う、だったかな? 同じ蒼い目なんだがなあ。なので身体は私でも、中身が姉上なら、知っている人間であれば姉上だと認識する感じになっている。
「……あの子には、なんと言って詫びればいいのか、分からないのです。こんなことになるとは、思いもよらず」
「僕にとってもそうです。こんなことになるのであれば、もっと早く……」
ごめんなさいね、マクセル……いや私にはどうしようもない事だけども、約束は破ってしまったわ。私の学園卒業後、来夏には祝言を上げる方向で進んでいたものね……。
「…我が婚約者の仇は、必ず取らせていただきます。我が弓を殿下に預け、かの無法者達を打ち倒すことをここに誓いましょう」
うん、頑張ってマクセル。私の墓ができたらあの僭王ガルザスの首を供え……られても困るな……。まあとりあえず、あいつは何とかして殺して。姉上のためにも。お願いします。そして、マクセルは後ろに控えていた従者を紹介する。
「こちらは僕の従者のアンセム。魔法と剣の腕はなかなかのものです。何かありましたら、遠慮なく申しつけください」
「はっ、アンセム・クロウヤードと申します。陛下にお目にかかることができ、光栄です」
「ええ、よろしくお願いしますね」
私のほうは面識あるが、姉上は初めてか。うーん……確かのこの人、マクセルよりかなり年上のはずなんだけど、いまだにそう思えないのよね。
貫禄が違いすぎるというか、マクセルのほうが上に見えるくらい。童顔で、従者であることを鑑みても少しおどおどした感じが抜けきらない風貌と性格のせいか。実際、腕はいい方のはずなのだけど。
「くくくくはははは、これは、くははは」
「どうしたんですか? ホノカさん」
「いや済まぬ、少し内輪で笑えることがあっただけじゃ、そなたには関係ないことゆえ気にするな」
「ヨーゼル殿、マクセル殿、いきなりですが、お願いしたい事がありますが、宜しいでしょうか?」
「なんなりと」
「これより先は他言無用となります」
「承知致しました」
「昨夜の軍議にて、北方のプロスター公にも軍を要請しようということになったのですが、魔導伝文のやりとりでは、向こう側の返答が奥歯に物の挟まったかの如しで鈍く……。隣国に備えるため兵は出せないというのですが、北方の隣国といえば山を越えた先、腑に落ちません。これは直接顔を会わせての要請が必要ではないかと考えております」
「プロスター公ですか……この非常事態、よもや怯懦に捕らわれたわけでもありますまいし……ご趣味を優先させるべきところでもありませんでしょうしね」
……ご趣味、か。プロスター公は老齢であるが、ある一点を除けば普通に優秀な貴族であり、王国四公家の一角として、北方地域のまとめ役となっている。ただ……少しばかり吝嗇家として知られている。
貴族らしい華美や夜会には目もくれず、比較的質素な生活をしながら、金貸しの真似事なども行い、ひたすら蓄財に励む姿は貴族としては異端であろう。しかも溜め込んだものを使うわけでなく、一説によると、夜な夜な金庫の前で陶然としているという噂も……。
ある程度の質実剛健な生活自体は北方全体の傾向でもあり、これは北方は若干土地が痩せていることもあって、他の地域よりも経済的に今ひとつだという事情もあるのだが。そういや、プロスター公といえば、学園で公の孫娘が同級生だった。あの娘とは姉上のほうが親しかったけど、元気にしてるかな、アイゼル。
「これについて、私が直接プロスター公と面談させて頂こうと考えているのです」
「姫様御自ら? 今陣を離れられるのは危険ではありますまいか」
「ええ。それは分かっております。しかし、現状においては、私が動くべき事情がいくつか存在しているのです。そのため私自身が向かうつもりでおります。そこでお願いしたいこととは、これにあたり、可能であれば……マクセル殿と、皆様が信頼する者をいくらか、護衛として私に同行させていただけないでしょうか、ということなのです」
ヨーゼルが答える。
「……それが姫様のご命令とあらば、我らとて従うにやぶさかではありません。しかしおそれながら、危険の大きいやり方かと愚考いたします。よろしければその事情をお聞かせ願えませんでしょうか」
「ひとつは、此度の敵は奇怪な術を使うということです。敵の首魁には 魔術に依らず、人の心身を操ることができる異能があるのです」
「話には聞いております。俄には信じがたいところではありますが」
「残念ながら事実なのです。これのために、どこに裏切り者が潜んでいるかを見いだすことが困難になっています。昨日まで正気であった者が、いつのまにか敵の手先になっているやもしれないのです」
「既に陣中に裏切り者がいると?」
「その可能性が高いと考えています。まだ戦端は開いておりませんが、敵軍の動きは、こちらの布陣にかなりよく追随しており……様子を見ようと先遣隊を送っても察知され、それが早すぎる。軍議の結果が筒抜けになっているおそれがあり、これにはサーマック公も同意されています。それもあって、迂闊に戦端を開くわけにはいかなくなっているのです」
「なるほど」
「そこで、本格的な決戦の前に敢えて隙を見せ、獅子身中の虫となった者を炙り出そうという案がだされたのです」
「その手もあるとは思いますが、そのために御身を囮とされるのは如何なものかと」
「そうです。もし、オルフィリア様が敵に捕まり、操られるようなことがあれば、全てが瓦解しかねないかと思います」
「ええ、ですが、実は操られることについては多少は対策を取ることができるようになっているのです。ただ、現状では対策を施せる人数が限られてしまうのです」
「対策がある、というのは結構ですが……どういったもので、どれくらいの人数に可能なのですか?」
「特殊な珠宝具の護りの指輪があるのです。本来は別の目的向けのものでしたが、これに調整を施すことで、それを身につけている限り、敵の奇妙な力にも抵抗できることが分かりました。ただ、残念ながら、数がありません。今のところ用意できているのは、せいぜい20ほど。そして追加で作るにも、そう簡単なものではないのです」
「珠宝具ですか……」
指輪の珠宝具……20ほど……それって、ミルトンの蔵においてあったやつでは……そう、伝統的に酒乱が多い一族対策で、外部で飲酒する場合用に精神状態を強制的に安定させるための……。……お義父様?
「20では、主要貴族の当主の方々に配るくらいで終わってしまいますね」
「ええ。そこで、もう一つ。敵の力によって誰かが操られたとしても、正気に戻せる術者が味方にいるのですが、今のところ一人だけなのです」
「どなたでしょうか? 宮廷魔術師団の皆様は、少なくとも昨夜の時点では軍に合流できていないと伺っております。さすれば、市井の術者でょうか?」
「そこが問題なのですね……彼女は、あとで皆様にも紹介致しますが……いささか事情あって、私の近くから離れられないのですよ。そのため、敵の力を解除すべき状況があるならば、私も近くにいなくてはなりません」
「私が北方に赴かんとするのは、もし向こうにも操られ正気でない方々がいるなら、それを解除しなくては動けないからです」
「なぜ、御身の側を離れられないのでしょうか」
「そうですね……これよりは、本来我が王家の秘事。ですが、ミルトン公は既にご存知の事。ゆえにフェーデル侯や、あなた方にもお伝えすべき事であろうと思います」
お? すると、王祖の契約について言うのかな?
「エルシィ殿、こちらへ」
姉上が背後に声をかけると、後ろから、誰かが歩みでてきた。それまで人のいる気配が全くなく、兄弟は存在に気付かなかったようで、驚いたのか少し身を固くしている。
現れたのは、片眼鏡をかけた黒衣のお婆さんだった。見かけは60手前くらいだろうか。長い棒……魔導師の杖というよりは、武器としての長棍に見える無骨な杖を持っている。
そして、使い魔らしき茶と黄の縞猫が肩に乗っていた。顔立ちは老けているものの、背筋はしっかりしていて、手足もよく鍛えられてる感じがある。
「うん。私はエルシィという。今回の件で、そこの姫様の護衛をしている者さ。あんた達がフェーデル侯のところの兄弟だね。宜しく頼むよ」
「あの人が魔人王が派遣してきた方ですね」
「左様。魔人王麾下ではもっとも魔術に精通しておる一人といって良かろう」
「護衛……ですか? この方が?」
「ええ」
「どういうことなのでしょうか?」
そりゃ、いきなり知らないお婆さんが出てきて、姉上の護衛だなんて言われても納得いかないだろうねえ。
「そのためには、我が王祖リオネルに遡る秘事をお話しなくてはなりません。かつて我が王祖は、このラグナディアの建国にあたって、とある方といくつかの契約を結んだのです」
「とある方、とは」
「こういう方さ」
エルシィさんが、懐からペンダントのようなものを取り出した。そのペンダントに描かれた図案は……夕日を背にして地に突き刺さった、黒い大剣。
夕日を背にした剣、斜陽剣の紋様は、西の果て、魔人の国禍津国ファスファラスの紋章だ。そしてその剣が黒一色の場合のそれは。
「黒き斜陽剣……まさか……魔人…王…!?」
「そうさ。私は当代の魔人王陛下に仕えている」
さすがに兄弟ともに、驚きを隠せないようだ。後ろに控えてるアンセムは驚愕に目玉が飛び出しそうなほど。そういやこの人、確か先祖がファスファラス出身だったっけ?
魔人ならまだしも魔人王なんて、歴史の表舞台には何百年も出てきてない、既に伝承の中の存在だものね。
「我が王祖后、フリージアが、旧きシュタインダール王家の血を引いていたという伝承は皆様もご存知かもしれません」
「え、ええ。そういう話は聞いたことがあります」
「シュタインダール王家は、その源流において、古の魔人王の血を引いていたのだそうです。そしてその最後の生き残りとなったフリージア后は、王祖リオネルがこの地にて建国の困難に直面したとき、偶然にある魔人に出会い、それを伝手に当代の魔人王と接触を試みた」
「そしてその後いくつかの幸運により、夫妻は実際に魔人王と相対する機会を得、交渉の結果、契約を結ぶに至ったといいます。そうして契約の助けを借りて、夫妻は建国の困難を乗り越えてラグナディアを発展させたと、王家には伝わっておりました」
「……なんと」
「その契約の最後のひとつに、以下のようなものがありました。ラグナディアの王家に、もし自力ではいかんともし難い危機が迫ったならば。魔人王はただ一度だけ、それを助ける、と」
「それが今回だと?」
「ええ。魔人王は今回の事態を、その契約の状況であると判断したそうです。そうして、遣わされたのが、こちらのエルシィ殿。私の見た限り……おそらく、我が国の宮廷魔術師たち、その全てを束ねても、この方ひとりに及ばない、それほどの魔導師です」
「この方が?」
さすがに疑わしげな目を向ける。
うんうん、そう言いたくなる気持ちは分かるよヨーゼル殿、だけど、この人たちほんと次元違うっぽいからね。たぶん本当です。
ただ魔術を使うというだけなら、そこらの庶民でも可能な世にあって魔導師を名乗るには、北方大陸では各国が認定する免許が必要だ。オストラントがその辺の合格基準の音頭をとっているが、うちの国では宮廷魔術師団が認定試験を毎年主催してて、合格者は年に十数人以下、一桁になるのもよくある狭き門。
要するに天才しか名乗れない代物だ。そしておそらく、このお婆さんはそんな普通の魔導師とも隔絶した使い手に違いない。
「まあ、信じる信じないは別にいいがね。陛下からの指示は、このオルフィリア姫を事態が収まるまで護衛し、契約を完遂せよというものだ。そのため、私はこの姫様から余り離れるわけにはいかんのさ。なお一応、仮の身分としては、ファスファラスの蒼鱗騎士団所属で、ある交渉のためにこちらに派遣されていたところ叛乱が勃発し、事態収拾までこの姫様に協力するよう指示された、ということになっている」
「先ほどの護りの珠宝具の調整や、操られたものの解除の術も、現時点では、エルシィ殿だからこそできることです。本来、モルゾフ殿を始めとする宮廷魔術師たちか王立学園の教授たちがいれば、彼らの中にも可能な者はいるとは思うのですが、現在はいずれも連絡が取れません。彼らが敵に捕らわれている、もしくは敵に操られている可能性が高い今、我々が他に集められる術者では対応しかねます」
「我が軍にも、魔導師資格を持つ者や、持たずとも得意とする者であれば何人かは……」
「少なくとも、サーマック公のところの魔導師たちは匙を投げました。余りに複雑精緻で、すぐに習得できるようなものでない、と」
「術式そのものは流石にうちの機密だからね、教えられん。基礎理論くらいは説明できるが、そこから術式に展開するのは、まあ大変だろう」
「そうですか……となると、厳しいですね」
「この国の軍所属の魔導師や魔術使いは、実践に寄りすぎているようだね、まあそれ自体は悪いことじゃあない。ただ今回の場合は、複合的な精神干渉防御に関する術理の構築が必要だ。個人の特性に合わせることも求められる。そっち向きの座学の基礎知識から始めないといけない」
「あなたは……その、敵の奇妙な力がどういうものなのかご存じなのか?」
「ああ。あれは何千年も前の伝説の中にしかなかったような異能なのさ。魔人王陛下にとっても、大昔の資料を掘り返さないといけなかった代物だ。現代の魔術師では簡単に対抗できるものじゃあない。なんで今になって表れたのかまではわからんがね」
「あなたが優れた術者であられるのなら、そのままその異能を持つ敵を倒してくださる、というわけにはいかないですか?」
マクセル、さすがにそれは虫がよすぎるんじゃないかなあ。
「そう言いたい気持ちはよく分かるよ。しかし、魔人王陛下が私に命じたのは、問題の解決ではなく、そこのオルフィリア殿の護衛であり、助力なんだ。それ以上のことは許可されていない。事態を解決するのは、魔人王陛下や私じゃなく、あくまで姫様を含めたあんた達ラグナディアの者、そういうことだ」
「そうですね。あくまで主体は私達にある、そういう契約です。ですが、もし敵が私を狙ってくるならば」
「敵がオルフィリア殿を狙ってこちらまでやってきてくれるなら、そう、降りかかる火の粉を払うことは命令を逸脱しない」
「なるほど。それで、姫様自らが動くとおっしゃるのですね?」
「ええ。正直、エルシィ殿のお力は、此度の事態解決に極めて有用なものです。それを契約の範疇にて最大限に生かそうとするならば、私自らが動く機会を作らねばなりません」
「ふふ。火急の時は、猫の手ですら借りたくなるもの、というしね。そういうやり方は嫌いではないよ」
そうして肩の猫を撫でる。
あー猫型使い魔いいなあ、在学中は作る機会がなかったのよね。結婚したら、マクセルが屋敷に合うのを選んでくれる約束だったんだけど、なあ。
「あともう一つ、プロスター公には、代々王家より、保管をお願いしているものがあります。それについて、この度返却を要請するつもりです」
「何を保管されているのでしょうか」
「オルドデウスの起動鍵です」
「え? ……なぜそれがプロスター公のところに?」
オルドデウス……王家の魔導聖鎧。えー、あれ起動鍵がなかったの?
魔導聖鎧は、戦闘用の特殊な自動魔機だ。普通、ゴーレムは宝珠を埋め込んだ人形ないし機械であり、使用者が起動用の魔術を込めることで、予め登録した簡単な命令をしばらくの間自立実行させるものである。
単純な力は人間よりずっと強いものが作れるものの、速度は一般にとてもゆっくり。そのため主に土木工事や重量物運搬に使われる。宝珠が必要な以上、それなりに高価なため、そんなに広まっているものでもない。
そのゴーレムを戦闘用にした機械人形が魔導聖鎧だ。中に人が入るわけでもないのに鎧とついているのは、大昔の当初は実際に鎧として、つまり中に人が入るように開発されていたこととから(結局そのやり方は死亡率が高すぎて廃れた)
そして現代でもこれの真価を発揮するには常時近くで操作する魔術師、通称人形遣いが必要であるから。つまり、ゴーレムではあるが戦闘時には自立駆動させないということだ。
そのかわりに動きを結構速くできる。魔導聖鎧の大きさは、だいたい人間の3倍から4倍くらいまでで、それ以上になるとなぜか動きが急激に鈍くなっていくものの、その大きさ以下であれば、魔法の補助のない人間程度には速くできる。
人間の3倍の身長の金属の巨人が人間の速さで武器を振るう、それだけでかなり凶悪である。
この魔法金属で作られた巨人(形状が人間からかけ離れていると、魔術師側がうまく動かせないことが多いので、大抵人型だ)は、特に防衛戦や攻城戦など、機動力が余り要らない戦闘であれば、一騎当千の戦力とされている。
実際は誇大広告だと思う、やろうとしたらその前に人形遣いの体力が尽きるだろうしね。それでもどの国も切り札としてはいくらか所持しているものだ。我が国にも東西南北に分散しているものの、全部で15体くらいあったはず。
そして我が国王族専用の魔導聖鎧がオルドデウスである。建国の頃からある骨董品であるが、元がかなり張り込んだものだったのか、躯体は蒼をベースに金銀に輝いて、今でも見かけは美しく立派だ。
年始恒例の軍への訓辞式の折には動かしてるのを見てきたが……そういや、動きが遅かったわ。
起動鍵がないってことは、高速操作できず、通常のゴーレムと同様にしか動かないってことだから、そりゃあそうなる。……ほんとに儀礼的にしか使ってなかったのね? 血継制限までやってたはずだから王族でないと動かしたりできないし……お父様、動かすの面倒くさかったのかしら。
「5代ほど前になりますが、当時の王女のひとりが、優れた人形遣いだったそうです。そして彼女が当時のプロスター公子に嫁ぐことになった折りに、どういうわけか、当時の王が、あれの起動鍵を嫁入り道具として持たせたそうなのですよ」
「後年その方が没したあとも返却されることなく、預けたままになっているのです。一応、我が父が王位を継いだ際に、先方で保管されていることは確認したそうですが、どういう経緯でそうなったのか、私にも分かりかねます」
「ふむ…………そもそもオルドデウス自体、今は敵の手にあるのではないですか?」
「実は起動鍵があれば、オルドデウスは全身の『躯体召喚』が可能なのですよ」
「初耳です」
……召喚機能なんてついてたんだ、そりゃ凄い。召喚魔術はモノを呼び出すもので、生物でないものなら遠距離の瞬間移動が可能になる。なお生き物は運べない。荷物に鼠くらいのものが混じっているだけで、魔術が何故か失敗する。
小さい虫程度なら失敗しないこともあるが、その虫が生きて転送されることはない。なお大きい生き物でも骸であれば運べる。
中央軍の兵站部隊には召喚術専門の術者が何人もいると聞いている。しかしこの魔術、距離が遠くなるほど、そして荷物が重くなるほど、難易度が、えーと、指数関数だっけ? 凄い勢いで上がっていく。
そのため長距離輸送で召喚を使う場合は、小分けにして、一定の距離ごとに術者をおいて、ひたすら順繰りに魔術を繰り返すそうな。大変なのだ。
情報を送るだけなら魔導伝文という便利な道具があって、うちの国内程度なら文を送るのは素早くできるのだけど、荷物となるとそうはいかない。
魔導聖鎧も召喚で運ぶときは普通は分解して転送し、後で組み立てるものだ。直接完成した大きさを王都からこの辺まで召喚ともなれば、少なくとも一人二人の術者では無理だ。
もしかしたら二桁人は術者が要るかも。それを元々の機能として持っているというなら、あるいは上位宝珠をそのため専用に使ってるのかもしれない。贅沢な!
「そうでしょうね。一応は、これも王家の機密の一つですから。当代のプロスター公がご存知かどうかは分かりませんが」
「わかりました。ただ、オルドデウスは、200年以上大幅な改修もされていない躯体でしょう。動かせるとしても、戦力としては我が侯家にあるプリオコスなど、全体を作り替えて代替わりしてきた躯体のほうが優れているのでは」
「単純な実用面ではそうかもしれません。ですが、あれにはいくつかの特殊な機能もありますし、なにより、我が王家の象徴機です。戦場にあって、あるのと無いのとでは、味方の士気に与える影響が違うでしょう」
「確かにそれはそうかもしれませんね……ただ、目立つために、よい的になる可能性もあります。血継制限があるはずでしょう、今あれを動かせるのは……幼い妹君たちでは人形遣いたりえない、即ち……」
「そうですね、あれを駆る私はよい囮になると思いますよ」
「そういうことですか……」
姉上、そもそも魔導聖鎧の操作練習なんてやっておられないでしょうに。私はちょこちょこミルトン家のを弄ってたけど……。ヨーゼル殿はしばし瞑目してから、答えた。
「……姫様が危険を冒されようとする理由は了解いたしました。……マクセル、護衛についてのご指名だが、お前はどう思う」
「そうですね……兄上。問題は、秘密にすべきことが多い点にあり、政治的な状況に陥ることもありえる点かと。実力だけであれば、ガリバルディかウェイシンに頼みたいところですが……まあウェイシンは今は西に残って貰っていますが」
ウェイシンのほうは会ったことある、フェーデル侯軍の百人隊長の一人で、こと戦いに関しては、凄い実績もある人だ。ニクラウス将軍より強いとも聞いた。
だけどさあ、マクセル、あの人じゃ無理よ。三度の飯の次に力比べが好きで社交性皆無の脳筋じゃない。ガリバルディもと同じくらい強いと聞くけど、同類だったような……。
「やめておこう、あいつらは口は固いだろうが………何かの拍子にボロがでかねん……」
「そうですね……そうであれば、私とアンセムが参加するのが、この際最も妥当であるかと思います」
「頼めるか?」
「その前に……オルフィリア様。その策をとるからには、仮に思惑通りに襲われたとして、敵の手勢を退けるだけの力を持っておられなくてはなりません」
「そうですね」
「その力が、そこのご老体にあるかどうか、確認させていただけませんか。手合わせをさせていただきたく」
「ふふふ」
「何でしょう?」
「ニクラウス将軍も同じことをおっしゃいました。あの方には、エルシィ殿について詳しいことまでお伝えしてはいないということもありましたし。そこで、将軍におかれては、昨夜に手合わせして頂いたところなのです」
「私がいうのもなんだけど、あんたたち、年寄りの冷や水というものをあの爺に諌言してやるべきだと思うね。十人長や百人長ならいいが、将軍になったらああじゃいけない」
「……それで、ニクラウス将軍は、なんと?」
「最後には『分かり申した。姫様の思うようにされよ』と」
「あんまりしつこいんで、腕を切り落とす羽目になったからねえ」
「なっ!?」
「すぐに繋げてやったが、数日は違和感が残るだろうさ。安静にしてればいいんだがね」
「繋げるって……四肢の接合って、最高難易度の治療魔術ですよね。失敗率も非常に高いと聞いたことが」
「あれが失敗しやすいのは、普通の術者は時間をかけ過ぎるからよ。時間が経つほど切断された四肢側が劣化し、四肢側の保存や賦活などまで並行して維持して合わせなくてはならなくなるから失敗するのじゃ」
「以前、準備からやると半日はかかる魔法とききましたけど…」
「だから時間をかけ過ぎなのじゃ。つまるところこの辺りの術者はおしなべて知識が足りず腕が悪い、オストラントやアナトの連中も大差はない」
「私としては、ニクラウス殿自らが試しをされるとは思いませんでした……しかもあれほど全力で。てっきり、若手で力を見られるものと」
「仕方ないだろうね。そもそも、本人が確認したがったんだ。あの時のことを」
「あの時といいますと」
「もう40年ほどになるかね。あの爺がまだ小僧だった頃に会ったことがあってね。私がそのときの女だとわかったからか、自分がやると言い出してねえ」
「確かに面識のあるような感じの受け答えでしたね……」
昨日の姉上の記憶、軍議までしか見てなかった、あの後そんなことがあったのか。後で確認しよう。
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思いだす。
なんだ、あれは。
砂蛟の討伐、というのが元々の目的だった。砂蛟は、王国の北西に広がるラツェン砂漠にいる、人の数倍の長さの、人の足ほどの太さの巨大な蛇だ。
巨体に加え、牙には麻痺の毒も持つ侮れない相手ではあるが、速度はさして速くないため、熟練兵であれば、単独でも相手できる程度の魔物である。
魔物……そう、魔術の力を秘める動物たち。普通の動物よりも凶暴、強力なものが多く、なぜか人間は殊に襲われやすい。彼らから民を守るのも兵士としての仕事だ。
砂漠の中の水場の近隣に、砂蛟が数体出没し隊商らを襲うという話があり、その討伐のために、十数名の兵が派遣されたのだ。俺もその一員だった。
その頃の俺はまだろくに実戦経験もない新兵で、少々槍が使えることだけが取り柄。実質は当分先輩たちの見学が仕事みたいなもの、そのはずだった。
確かに砂蛟はいた。だが、そこにいたのは砂蛟だけでなかった。そも砂蛟が急に出てきたのも、奴にいつもの住処を追われてのことだったのだろう。
砂地竜。
砂漠を旅する誰もが恐れる砂漠の王。鋼の剣をも跳ね返す硬き鱗。鋼の鎧をも無意味とする強靭な鈎爪と、避けようのない砂塵混じりの風の吐息を放つ恐るべき魔物。本来そんなところにいるはずがなく、遥か砂漠の奥地に潜んでいる死の化身。
そんなものがいるはずがないというのは油断だったか。何故そこにいたのかは分からないが、砂蛟が逃げ出したのを追いかけた俺たちは、奴の領域に入り込んでしまった。砂丘の下に何かいる、それに気づいたときには遅かった。
そこにいた者はおそらく隊長も含め、誰もが砂地竜について実物を見たこともなく、それがどのように獲物を狩るかも知らなかったのだと思う。ゆえに対処を誤った。あの人数では、一目散に散開して逃げるべきところを、立ち向かおうとしてしまったのだ。
最初に吐息によって視界を潰され、砂でろくに息もできなくなって逃げる術を失い、恐ろしい速さの鈎爪と尾に蹂躙され。脚によって押し潰され。さらなる吐息によって今度は全身を吹き飛ばされて。隊長も含め経験あるはずの兵士たちは、20を数える間に皆死んだ。
生き残ったのは、偶然後方の、奴の吐息の範囲から少し外れていたところにいた、新兵の若造が二人だけ。そのうち一人も、意識と片足を失い、既に息が浅くなり、先輩たちの後を追おうとしていた。そうして今奴に貪られている先輩たちのように、喰われるのだろう。
このままではもう一人の、俺もそうなる。それが分かっているのに、動けない。もってきた槍はどこかにいってしまった。右目が砂でまともに見えず、右足も折れていた。
それ以上に心が折れていた。あんなものに、人が勝てるわけがないと。逃げる術もなかった。呆然と走馬灯を……それまでの短い人生を思い出していたときに、声がした。
「弾き出されたはぐれがこんな人里近くにまで来ているとは、今巡の繁殖期はよほど激しかったのかねえ……」
気がつくと、砂地竜の前に誰かがいた。朱色の杖を携えた、黒衣の老婆に見えた。誰だ。こんな女は仲間にいなかった。砂地竜が老婆に気がつき、鈎爪を向け、打ち払う。
ああ。誰か分からないが、あれも結局死んで………。
巨大でありながら人がかわせるような速さでないそれは……だが、空を切った。
「な…」
次の瞬間。いつの間にか砂地竜の頭の上に老婆が乗っており、杖で頭をついた。そして。
砂地竜の頭部が爆ぜた。そうとしか、いいようがない。その、頭だけでも圧倒的な量の血肉は、周辺に雨となって降り注ぎ、俺にも降りかかった。そうして俺たちをあっさりと壊滅させた暴威は、俺たち以上にあっさりと倒れ臥した。
呆然と見ていると、老婆がこちらに気がついた。片眼鏡が軽く跳ね上がった。
「へえ、まだ生きてるのがいたか、運が良かったね」
「あの、竜は…」
「群れから叩き出されて暴れてる雄がいると聞いてね、始末をつけただけさ。私がもう少し早くついてたら、お仲間も無事だったかもしれんが、まあ運だねそれも」
「お前は……いったい……」
「さてね……せっかく拾った命、大事にするんだね」
そうして、老婆は杖を俺のほうに向け……足が燃えるように熱くなった。
「うっ…がっ…!」
熱さはすぐにおさまったが、そちらに気をとられているうちに、老婆は消えていた。
そして、確かに折れていた足の、骨が繋がっていた。まだ痛みはあったが、歩けないほどではなかった。あの老婆が治したのか。
あんな一瞬で折れた骨まで繋ぐ治療術など、聞いたこともなかった。それとも幻だったのか。だが、そこに砂地竜の屍体は確かにあり、夢ではないと思われた。
俺が動けるようになったときにはもう一人の新兵は既に事切れており、そうして、俺だけが生き残り、帰り着くことができた。
あれから何年か。40年以上になるか。死に物狂いで研鑽を積んだ。力をつけ、功を重ね、特に槍技においては誰にも負けないくらいになった。
そうして下級貴族の次男坊でしかなかった俺は、いつしか将軍と、槍聖などと呼ばれる立場になっていた。他の将軍連中が大体高位貴族出身であることを思えば、出世したものだ。それもあの時の死地の経験あればこそだ。
囮になるという無茶を提案する姫様を止めようとしたときだ。姫様の側に、あの時の女がいた。忘れようはずもない。杖の色こそ違うが、片眼鏡も、黒衣も、記憶の中のものに相違ない。王家の関係者であったのか。あるいは、事件を聞きつけどこからかやってきたのか。
力については、疑いようもない。砂地竜は、今にして思えば軍として動けば討伐はできなくもないだろうが、やはり人の個の力で届く暴威ではない。全盛期の俺でも、砂の上では全く勝ち目がないだろう。
魔導聖鎧でさえ1対1では厳しい、そも人形遣いが吐息から逃げられまい。それをこいつは、涼やかにやってのけたのだ。あれからさして齢も重ねていないように見える。おそらくは、魔性、魔人の類。
ならば姫様の考えもわかる。こいつがいるのであれば、もはや試す必要もない。この陣中で我らが護るよりもこいつが護るほうが安全かもしれぬ。
どのような思惑でそこにいるか分からないが、仮にその気になれば、この場の全員を屠ることもこいつにはできるだろう。必要ないのはわかる。試さねばならないのは、こいつではない。……俺自身だ。
「そなたはもしや、以前、ラツェン砂漠にいたことがなかったか」
「んん? あんた……もしかして、あの時の生き残りか。足は大丈夫そうだね」
「やはり、あの時の女か……そうか」
「はあ。これもまた、縁だね。どうする、それでも試すのかい?」
「試させてもらいたい。私自身で、だ」
「将軍!?」
「止めるな。これは私がやらねばならんことだ」
「それがあんたの意地というなら止めないが……やれやれ」
……人ならぬ魔性に、俺の研鑽がどれほど通じるか。既に老いの影が忍び寄って久しいものの、今こと時だけは。全盛期の俺を呼び出そう。
……そうして、100を数えるほどの、短い立ち合い。およそ、どれをとってもまだ速さだけは、我が軍の者では、受けることはできてもかわすことはできぬと自負できる俺の槍を、女は悉くかわす。
いかんな、さすがに体力は……そうして少し速ささえも落ちたとき。女は、逆に俺の槍先を落とそうとしてきた。……そうか、そうくるのであれば。くれてやろう、今少しもってくれ、俺の体よ。
「閣下!!」
「なんとまあ、このために、それをやるのかい」
槍でなく、あえて踏み込んで腕で受け、僅かにできた隙間に槍を放つ。杖であるというのに、腕を持っていかれた。その代償として。かすかに、奴の腕に赤い筋を刻むことができた。
「すさま、じい、な……」
「その傷で何を笑ってるんだか、これだから武人ってやつは。うちの宿六もそうだが度し難い」
そうして、奴は吹き飛んだ腕を拾い。無造作に俺の傷口に繋げ、呪を唱える。
「ぐっ…」
一瞬の熱さとともに、腕が繋がる。単に繋げただけでなく、多少痺れてはいるが肘も指も動く。
「こ、これは…。閣下、大丈夫なのですか」
「うむ…」
やはり、あのときのは幻ではなかった。これほどの治療術、教会本山の聖者ですらかなうまい。
「すまぬ、手間をかける」
「ほんとにね。次からは治療代を請求しよう。高いよ?」
「いや、今のぶんも支払わせてもらおう」
「今回はいいよ、これに届いたあんたの意地に免じてね」
「ニクラウス殿、大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。分かり申した。姫様の思うようにされよ。おそらくそれが、最も解決に近いでしょう」
「あんたは最初からわかってただろうに」
「わかっていても確かめねばならぬことはある。姫様を宜しく頼む」
――――――――――――――――――――――――
「槍聖ニクラウス殿の技は初めて拝見しましたが、あのお年であれほどの速さとは、若いころはいかばかりだったのでしょうか」
「私が昔会った頃はまだほんの若造だったからねえ……技を磨いたのはあの後か。少し残念だったのは、急な話だったから仕方ないが、槍があの爺様本来のでなく、従者からの借り物だったことだね。本人のは戦い方からするとたぶんもう少しだけ長いだろうし、珠宝具の品でもあるだろう。それだったらもう少し危なかったかもしれんね」
「ご謙遜を」
「ニクラウス様に勝ったんですか? あの槍に? ……魔導師、なんですよね?」
「知り合いに剣の達人がいてね。付き合ってるうちに、よけるほうは磨いたのさ」
「いやいや……国境警備隊でも、我が兵でも、ニクラウス様の槍をかわせる奴殆ど居ませんよ……ガリバルディやウェイシンでも勝率六割くらいじゃなかったですか?」
「それが本当であれば、私が敢えて試す必要はないですね」
「そういいつつ魔術を使うのはどうかと思うよ。後ろのあんたもね」
「っ! ………失礼しました。なるほど……」
マクセルが『風拳』の魔術、アンセムが『遮音結界』の魔術。後者で音が伝わらないように気配を消して、前者で一撃を叩き込む。二人とも、あらかじめ唱えておいて、遅延発動させようとしたのね。
アンセムはよく気配を消してたし、マクセルもちょっと前まで学生だったにしてはうまいのだろう。でもエルシィさんは、そんな小手先の技が通じるような世界の住人じゃなさげだ。魔術の構成が発現途中でひっくり返って、風拳が逆に二人の頭を軽く叩いたのだ。そんなことができるのにびっくりです。
「それではよろしいですか、マクセル殿、アンセム」
「はい」
「できれば本日昼過ぎにも、馬車を仕立て、ここを発ちたいと思っております。行く人員は、私とエルシィ殿、そしてお二人と、ミルトン公の人員から、御者と侍女を一人ずつ出していただく予定です。それに、サーマック公とスタウフェン侯が一人か二人、騎士をつけるとのこと。あとは……ファディオン伯が途中で合流する可能性があります」
「アーロン殿が?」
「はい……。……北方の土地勘をお持ちで、自らを守れる強さがあり、ここからの経路上におられる方となると、余り選択肢がですね……」
「……いや確かに地理的にはそうかもしれませんが……あの方は」
「交渉ごとには向いておられませんね………ですが荒事前提であるなら、わかります」
「そうなのか? すまんマクセル、正直なところ、私は彼を噂でしか知らん。つまりその……奇人と」
「兄上がそう思われるのも無理からぬと思いますが、兄上よりは私のほうがあの方には詳しいかと。アーロン殿は、私が学園に入学した年にはまだ在籍しておられましたので……いくらかお世話になりました。あの方については、言葉と実際の行動を分けて考えねばなりません。言葉のほうは真面目に受け取ると……問題ですが、実際の行動はそうでもない方です。そして、武技については、当時で今の私と同程度には使う方でありました」
「そうか………後で詳しく教えてくれ。実像は把握しておきたい」
ファディオン伯……あの人か。あの何かにつけて自分は天才だといって憚らない変人の……ただ、あの家って確か裏で色々やってたよね。姉上があてにしているのは、そっちのほうかな、王家のほうのは機能不全起こしてるだろうし。
「それもありまして、マクセル殿に同行いただけるのであれば、心強いところなのです」
「……承知いたしました。微力を尽くします」
「……ありがとうございます」
姉上が明らかにほっとしたのが伝わってきた。実のところ、姉上はかなり精神的に消耗している。自身が殺されただけでなく、体を乗っ取って私を結果的に殺してしまったことに衝撃を受けているようだ。……昨夜も寝言で私に謝罪し、ガルザスを罵っていたし……。
さらに長年頼りにしていた従卒のユアンは操られ、ガルザスに命じられるままに姉上の首を絞める始末である。ユアン以下、いつもの側近たちや、学友は今も行方が分からない者が多い。たぶん操られたままの者も多いのであろう。
正直、腕の立つ、話の通じる知り合いが近くにいて欲しいというのは切実なところなのだろう。そこは年の離れすぎたお義父様では駄目なのだ。その点マクセルなら、まだ縁戚になる予定だっただけに、普段から交流も多かったしね。多少無理をしてでも巻き込みたかったのだろう。
「それでは、皆様にはこれをお渡ししておきます。起動の呪はですね……」
……やっぱりその指輪、うちの蔵のアレじゃないですか! お義父様あああ!
チート婆さん登場
ある意味この話の活躍面での主人公です
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