第二十七話 沙羅双樹の花の色
吹き飛ばされたエルシィさんの体が半分になって……あああ。
「……心配は要らぬ」
エルシィさんの体が、内臓を晒しながらも起き上がって……。半分の体で後ろに跳びすさりながら、凄い勢いで再生していく。
ああ、そうか、今のはオルドデウスにもかかっていた『不滅』の術式か……あの状態から再生できるとはさすが。そうか、それが分かってるから、他の人も焦ってないのか。
そういや、ただでさえ万象の魔眼持ちって丈夫だった、エルシィさんならなおさらか。要するに再生のための力が尽きるまでは食らってもお互いに死なない、と……ほんと人外の戦いだあ……。
あれ? 再生したエルシィさんの様子がおかしい。
「しまった……」
声が若い。これは?
「復元設定を若いほうにしてた、戻っちゃったあああああ!」
あー。若返ってる。
年の頃は20過ぎか。長身かつ膝元まで伸びた緑なす黒髪に、出るとこ出た体型なのが分かる。そしてキリッとした目鼻立ち、しかも金目銀目。これは目立つ。
「いいじゃねえか、その姿のほうが俺にとっては眼ぷぐへっ!?」
「主殿、煩悩祓う? 斬りとる? 潰す?」
「馬鹿旦那あっ! この姿だと余計な面倒事いっぱいなの! 形だけ幻影纏うにしても、心は体に引きずられるんだから!」
「苛ついている場合ではないぞ、そろそろ頃合いだエルシィ。さっさと手筈通り始めろ」
「はあ……自分の失敗とはいえ……向こうにぶつけるしかないか」
目が据わってる。美人がやるとこわい。
「仕掛けるから。みんな、守りをお願い。イーシャ、そっちもお願いね。パワーシンクが発生するわ」
バーリさんが後ろに門を作り、全員がそこにはいって、魔神から少し距離をとったところに出現。魔神は蔓草や花の触手を伸ばして追撃してきたが、それに対し、他の騎士たちはエルシィさんの前にたって、攻撃を避けるのでなく迎撃し始めた。
バーリさんが、エルシィさんを守るように黒い門を無数の盾のように並べる。リュースさんの刀が白く輝き、刃が振られるたびに、輝く斬撃の刃が生じて、経路にあるものを破壊していく。
神器の浄化の力が乗っているのか、これに切られた蔓草などは再生が鈍くなる。そしてオルドデウスが先ほどの戦輪をさらに出力を上げて解き放ち、周辺を焼き尽くす。そうして、少しだけ余裕が作られた。
エルシィさんの両手足が振られ、朱杖が周囲でくるくると廻り、展印魔術の灯が周囲を包んだ。舞踊のように全身を使って魔術を紡ぐ。声は出していな……いや、違う、人間の耳に聞こえないだけで、何かを、歌っているかのようにエルシィさんの唇が動く。静謐の唄。
「前にもいうたが、人が魔術を極めるには、本来肉体の機能が足らぬ。古代種の作り出しし真の力を引き出すには……」
周辺に次々と浮かび上がる魔法陣……高密度過ぎて、もはや隙間のない板にしか見えない。やがて板は、エルシィさんの背後に展開され、3対の巨大な翼を形成する。
「人に足りぬもの、必要な機能を作り出すところから始めねばならん。ゆえに時間がかかる」
そしてパワーシンク……魔素消沈現象が大規模に発生。周辺の空間の空気が変わったのが分かる。うちの軍の周りはイーシャさんが何かやってくれたようで影響ないが、他の場所からは凄まじい魔素がエルシィさんのほうに集まっていっているようだ。
今の私には、それが魔術の行使なしに見える。凄い、たぶんこれ……もし魔素を見る目で上空から俯瞰したならば、昏く、魔素が吸い込まれた領域が、国を覆うほどにまで急激に広がっていくのが見えただろう。
翼はさらに巨大になり、変形を続け、歌い手を包み込み、巨大な生物の姿を象る。伝説に歌われた、爪牙と長い胴を持つ神獣の姿。
「……龍」
古代種。即ち龍。竜や飛竜のような巨大な蜥蜴に近い姿ではなく、翼ある蛇とでも言うべきその存在は、現代ではどこにも見られないものだ。その動きを見咎めた魔神は、再びエルシィさんに攻撃を届かせようと、やり方を変えた。
『龍モドキが。『絶透なる壊星』来たれ』
オルドデウスや、騎士たちの周辺が歪み、陥没していく。重力制御。空間圧搾。知らないはずのそんな言葉が浮かぶ。魔神の見えざる巨大な拳により握られて崩壊していく大地の中で、どうやってか、オルドデウスと騎士たちとエルシィさんの近傍だけ加圧を免れていた。
バーリさんとリュースさんが苦しそうなところを見ると二人が何かやっているのだろう。わからないのがエグザさん。たぶんこの人は防御に参加もしてなくて、飄々としてる。
何の担当なのか。もちろん、最初の防御魔術のほか、花を切ったり灼いたりはこの人もやっていて、常人を遥かに超える戦技や魔術を見せてはいたのだが、異能らしきものは使っていないのだ。
「さて、西海のセイレンの本領がくるかの』
『『凄黒なる喰星』来たれ』
魔神はさらに前にも出した黒い円を再び、いっそう大量に召喚し、加圧の中に閉じ込めた巨人と、騎士たちにぶつけようとした。それに対して、ついに魔術の発動が始まる。光の龍が、咆哮する。
「灰は灰に。悉く燃え尽きよ『神焦炎』」
「天は地に。捥がれ墜ちよ『神墜雷』」
「鎚は刃に。衝き斬られよ『神裂嵐』」……
このあたりはまだ私も知ってる大魔術だったが、私が知ってる中身ではなかった。『神焦炎』とか、リディアのそれともかなり違う。大きさはリディアのよりはるかに小さく、私たちが授業で作ったものに近い。そして赤くない。蒼い、輝度の異様に高い球であり、しかも、それが同時に数十個出現。
蒼球は魔神の放つ黒い円たちと次々に相殺されていくが、一つだけ相殺されず、魔神の近くで爆発した。……視界を灼く光に、次いで川の向こうにまで体が浮きそうなほどの爆風が届き……。
イーシャさんが即座に何らかの障壁を張ってくれたようだけど……その後にもくもくと上空へと巨大な茸のような雲が……ひええええ。
「……あれが…本来の『神焦炎』ですか?」
「あの一つ一つはそうじゃな。この前の小娘のは密度が全く足りん。そして、さらに別途爆核を用意し、あの32個の火球を全周から同時に起動して爆縮させるのが完成形の『神燒炎』じゃ。『天の瞳』の出力には及ばんが、なかなかの威力になるぞ」
「まあそれをやってしまうと、少なくともラグナディアは地図から消えるから、途中で止めて分散させて相殺に使ったんじゃな。なお、この手法だと有害量の放射線は出ぬよう『にも』できる。ゆえに今回そっちの汚染はないぞ、安心するがよい」
なににあんしんすればいいのかわからない とてもこわいことをいっているきがする
そして『神墜雷』に『神裂嵐』、どちらも最高位、第七段階の大魔術として知られるものだけど、これもとんでもなく人手と手間のかかる術で、実戦で発動したという話は聞いたことがない。これらも伝え聞く形態とは違っていた。
何条もの稲妻が雨のように降り注ぐ、という魔術のはずの神墜雷と、天にも届く竜巻を呼ぶという神裂嵐。今そこに発生した稲妻は、何条とかそういうのでなく、直径百マール(70m)以上はある太い光の柱としか言いようのない代物だった。
色が所々違う雷があり、まるで腕から透けてみえる血管のようだ。余りにも降り注ぐ雷が多く、絶え間ないのか、隙間が見えない。そして直後に巨大な竜巻が発生し、稲妻を再生産して、二周り太くなった雷でできた竜巻に変じ、天を衝くどころか灼き焦がす。
それらはまさに、大艦隊をひとりで滅ぼしたという西海のセイレンの伝説が本当だと誰もが納得するに足るものだった。……そして異界の魔神はその伝説すらねじ伏せるように見えた。炎と雷に撃たれ、暴風に切り刻まれながら、魔神の哄笑が響く。
『今のはまあまあだ。しかし我を満たすには到底足りんな……』
消える。雷が消え、炎が消え、雷の後に残った煙や色違いの空気さえ、魔神に吸い込まれて。そして全てが食い尽くされたと見えた直後。
「虚は実に。その身に刻め『神刻呪』」
……神雷が穿った大地に巨大な魔法陣が顕れる。
……嵐が渦巻いた空間に高密度の陣が何十、何百と浮かび上がる。なにこれ、まさか。
「……雷と嵐で魔法陣を空間に描いてたんですか!?」
「効きもせん大技をぶち当てるなど、囮か時間稼ぎ以外になかろ。向こうに当たったのは、積層呪法陣を描くための囮の余波よ」
あれが? 余波?
「さて銀河にもこの規模で魔導機構が生きておる星は少ないぞ、外つ神。少しは危機というものを思い出すがよい」
『…これは』
魔法陣は、魔神の身体の一部をも侵食していた。即ち自分そのものを食べねば、無効化できない。さしもの魔神も一瞬躊躇した。その刹那の時間稼ぎで、エルシィさんの切り札が発動する。
「Duplicate the aether code "Avater" call "Parallel existence"」
龍と化したエルシィさんの影が全方位に広がって重なる。多重起動された影なる分身がそれぞれ呼び出すは、彼女にとって縁ある至上の霊威たち。
「Duplicate the aether code "Greed"《強欲》 call "Rescue from oblivion"」
「Duplicate the aether code "Akashic records"《史記》 call "Recall arcane thaumaturgy" and "Enhanced psychometry"」
「Duplicate the aether code "Pride"《傲慢》 call "Beyond the law of the universe"」
「Duplicate the aether code "Gluttony"《暴食》 call "Mortal detonator"」
「Duplicate the aether code "Mercy"《慈悲》 call "Code sharing"」
「Duplicate the aether code "Sloth"《怠惰》 call "Lowering flicker fusion frequency"」
「Duplicate the aether code "Diligence"《勤勉》 call "Time freezing"」
……痛ああああ!? なんでええ!? わたしに!? えええええ!?
……予想外だった……事前に言ってくれてたらいいのに……。……しかし、ああ。なるほど。最後の欠片を私は理解した。プラナスとしての記憶、そして……。
一石二鳥どころか三鳥を狙う、なるほど、まさにそうであるらしい。なんという博打か。人使い荒い、というか明日香さんに負荷をかけすぎよ、当代。
どれ一つをとっても切り札になりえる霊威を多重再現し、それらを用いて放たれるは古代種が辿り着いた一つの極致。封じられていた秘蹟なる魔術。
「色は空に。空は色に。夢は現に。現は夢に。『涅槃寂滅』」
『……餌風情が、調子に乗るな。お の れ……』
「GRUOAAA AAAA AAA A!!」
その術を受けたとき、初めて魔神自身の肉声の咆哮が響いた。その咆哮は徐々にゆっくりと間延びし低い音になっていく。彼の時間が延びて、俗世とずれていっているのだ。
それは複数の枢要霊威無しには発動もできない大魔術。ただし、本当はどれほどの霊威が必要だったのか、正確には私にはわからない。今の発動には複数の意図が込められていたためだ。
さしあたり確実なのは魔神自身の命を起爆装置、燃料として発動させた術だということ。魔神が近づいた者の命を吸って己の力に変える存在であるならば、同じ力を持つ者がいれば、それは魔神自身にも適用されるのは道理。
【暴食】の本質は力の取り込みでなく、力の性質の変換であり、体に取り込まずにその場で力に変えることもできるのだ。
魔神がいちいち「食べて」とりこんでいるのは、それが彼の魂の鋳型に由来するもの、つまりは変えられない本能だからである。彼が、かつては、生来そのような生き物であったがゆえ。
しかし、縁を繋げば複写できるという【縁起】の霊威は、そこだけを見れば【強欲】よりも反則ね……。戦うことは縁を紡ぐことに他ならないのだから。だが【強欲】でないと出来ないこともあって、今回はそれが鍵になっていた。
もっとも、複写した能力では本家より劣るから、引っ張り合いになれば負ける。ゆえに気づかれないようにする、あるいは気づかれても対応されないようにする必要がある。
そのために足りないものを得るまで、魔人王たちは待った。それがつまりは……プラナスが持っていた力。私が受け継いでいた力。
そして、それら全てを発動させることも、エルシィさん一人では到底叶わない。彼女は言わば、相手を抑え込んで目標はこいつだ、やるのは今だ、と魔導機構に合図をする、そこまでが役目だった。
その役目だけでも凄まじい命数が必要で、その消費はシューニャさんなどが支えたのだろう。あらかじめとんでもない準備がこのために費やされていたに違いない。
そして、それだけの準備をした魔術が意図するところは、彼の魔神を……さらに上位の存在に引き上げること。
幻も現も有も無も、世界の見せる夢に過ぎないならば、その夢を我が身とするに至れば、宇宙の法を超え、暴食による飢えもなく、強欲に苦しむことなく、彼は神として完成し、俗世に関わる必要はなくなる。時の感覚もかわる。
下天の一日すら俗世の五十年という、さらに上位に至れればその違いはまさに夢幻の如く。関わることも難しい。難しく、必要がなくなるだけで、関わることはできるだろうが……必要がないなら、それに執着することもない。脅威ではなくなるということ。
つまりそれは攻撃の術ではない。魔神を害する術ではなく、むしろその身を解脱させ、永遠とし、限りなく不滅とする術だった。そうであるがゆえに抵抗が難しい。
なぜならかの神の【暴食】は食べる力だ。【強欲】は奪う力だ。【慈悲】は使わせる力だ。どれも、自己を守る力ではなかった。拒絶する力でもなかった。
彼は万物を食らうことで結果的に自分を守ってきたが、この術は魔神自身への攻撃でなく、魔神を含む世界に対しての法の改変であり、暴食にて変換できない祝福だった。そうしたものに対してかの神がとれる手段は極めて限られていた。
ただでさえ力に飲まれ心を壊した外つ神にとって、得られるものを拒むこと、まして不死不滅を求める本能を満たすものを拒むのは、とても困難なことだ。だから、この罠が成立する。それが困難であるからこそ。
魔神の花が、ほどけて、煌めく蝶になっていく。そして蝶はひらひらと暫く飛んでは、大気に溶けて、永遠になっていく。夢か現か。夢であり現でもある。それは死でなく滅びでもない。
彼はどこにでもあり、どこにもいなくなり、俗世の存在からは認識できなくなる。無窮の境地。古代種たちの一部には、永遠を求めるなか、これこそがそうだとした者もいた、一つの窮極。そこに至るために作られた式。
そして心壊れてなお最後に残った矜持ゆえに、彼はそれしかない選択をとる。
『……要 ら ぬ 我 は 既 に 永 遠 な り 要 ら ぬ 戻 れ! 時 よ! 戻 れ え え えええっ!!!!』
「……捉えた」
「……」
「よくぞ【時遡】を使わせた」
ホノカさんの声が響いた。この戦いが始まってから、初めて、感情が籠もった声。
「時を戻すならば、時空に打ち込んだ楔たちも震わせざるを得ぬ。それ即ち神核なり」
やはり、そうでしたか。
「……ラファリア・リザベルよ。もうすぐそなたの時も終わる」
そうですね、終わるべき時に終わらせないとまずいと思います。終わらない果てがこれならば。永遠に咲く花などありえない。
「その前にそなたに頼みがある」
「…………はい」
空に溶けかけていた魔神が、傍目には一瞬で、元に戻った。
『ふざけた真似を……』
「はあ、はあ、はあ……」
『だが我には効かぬ。我は既に永遠なる神威なり。時は我が手にあり、我は何時でも取り戻せる。何人たりも我の他に我を制することなどできぬ』
己の時を遡り、危機を無かったことにした魔神は、改めて巨大花ごと、歩み始める。この世界を食べ尽くすために。永遠に食べて、生き続けるために。
……何のために食べ、何のために生きるのか? その疑問を抱くことも、その疑問への回答も、彼にはもうなかった。そんなことより、そこに獲物があるなら食べるしかないではないか。それに理由など要らない。
「……天にも地にも、神にも魔にも、永遠などはない」
ホノカはつぶやく。それはかつて彼女を作った龍の賢者が、自嘲しながら言ったこと。仮に先程の秘蹟であっても、あれは限りなく永遠に近いだけで、真のそれではないと、彼は言った。
自ら至ったのでなく、式に頼るのは、所詮紛い物だと。そして自分たちより、君たち……宝珠のほうが、それに近いだろうと言ったのだ。そして、そも永遠など求めるのが愚かなのだと。
あれからどれほど、この星が太陽を巡ったことか。少なくとも何千万回か。そして彼も既に此界におらず、何百万巡りか前に、ただ二柱の兄妹を遺して旅立った。そして、たかだか数千巡り前に、人類種たちがやってきて……。
彼らによって複数の神器を掛け合わせられて、彼女は今の彼女となった。新しい主たちは、信じられないことをやってのけた。演算ではありえない暴挙。龍族にそんなことをする者はいなかった。少なくとも合理ではない。それが正しいのか、短命なる種としての若さによるものか、彼女には分からない。
それでも。そうあれと望まれたのであれば、そうなるしかないではないか。他に理由など……。
なんと。妾もあの魔神と、なんら変わらぬ。在るべき理由を知るとは、なんと難しい命題か。ホノカは、笑いの感情を演算しながら、己の封印を解いた。
……そして。火の花の蕾が、綻ぶ。
『その力、なかなか悪くなかったぞ。我が僕となるがいい』
「お断り、よ!」
『地神器・都牟刈大刀・超過駆動・構成『夜幣賀岐』』
『天神器・瀬織津比売・超過駆動・構成『天禳瀑布』』
『界神器・ヴィシュヴァルーパ・励起駆動・『遍悶信箭』』
神裂嵐を越える暴風の化身。全ての穢れを洗い流す星光の濁流。万象を穿つ漆黒の虚無の矢。およそ、人が扱う範囲の神器としては最大級の破壊が圧縮され、全て魔神に叩き込まれた。
『は、ははは、ははははははははははははっ!』
切り刻まれ、焼け爛れ、虚ろに穿たれながら、もはや魔神の歩みは止まらない。魔神の周囲に発生する黒い円は次々に増えていき、光から熱まで、生物非生物を問わず周辺を捕食して、魔神に回復する力を与える。
『貴様らは強い、強いな、我が戦士たちよりも使えるぞ! その魂、どれほどの味か、楽しみだ!』
「いいえ、あなたはここで終わるから、この子たちを食べるなんて無理よ」
そして、白金色の髪の両目を閉じた少女が、いつのまにか魔神の眼前に立っていた。それはかつてこの世界の王だった、白龍巫ナギルラグナディアの化身。今は那祇を名乗る、魔神王の護法騎士の一人。
『は、は。あの時の龍種か。我の糧になりに来たか、素晴らしいぞ!』
この国が彼女の名の一部を持っていたのも、偶然ではない。王祖は肖りたかったのだろう、この星の真の王だったものの名に。だから王家の紋章は、白い龍だったのだ。
そして、この国を守る結界を張っていたのも、正確には当代の魔人王でなく、彼女だ。本当に王祖はどこまで知っていたのだろう。彼の『本』を読めば、わかるのだろうが……それは、躊躇われた。
『寄越せ。その命数、我に寄越せ!』
アルケア……古代種、神なる龍種の持つ莫大な命数は、かの魔神にとって至上のご馳走だろう。ただでさえ、時を戻し、神器の攻撃を受け止めた彼は、見かけ以上に傷ついている。だから。彼の意識は、全てそちらに向けられた。
盲目の少女が、呟く。
「エルシィ、悪いけど少しそれ、返してくれる?」
「はい」
エルシィさんが、躊躇うことなく己の右目に手を突っ込んで……握り潰す……。そうして、何千年かぶりに、万象の魔眼の権利は本来の主の元に戻った。
真なる使い手を示す白銀の魔眼を開いた少女が笑う。
「始めましょう、あの時のようにはいかなくてよ、餓鬼ノ王……マハープレータ」
『龍種よ……逃げるなよ! 今度は食べ残さんぞ! はっははははっはっ!』
見るからに奴は高揚している。やはりやるなら今しかない。
「淵は顎に。引き裂かれよ『斬星剣』」
『『絶透なる壊星』『凝白なる純星』『鮮蒼なる灼星』来たれ、来たれ来たれ!!』
「岩は地に。降り注げ『流星牙』」
エ ルシィさんの行使するそれより、さらに規模だけなら上回る構成。人が知らない、第八段階、星の領域の魔術。発動の際の魔法陣だけで空を覆い、山をも両断可能なほど大きな黒い『剣』のようなものが空に浮かびあがり、振り下ろされる。
それは空間断裂を引き起こす太古の大魔術。それに対し、空間を握り潰すための見えざる『腕』が『剣』を受け止め、白い神速の光線の雨と、破滅的熱量を宿す無数の蒼炎の礫が、少女と騎士たちに襲いかかる。
さらにその上、天から無数の流星が魔神に……いやあれ流星って感じじゃないでしょ、一つ一つが立派な隕石……魔神が食べきらなかったら大惨事では……あの、那祇さん? ……と、とにかく、こうして神々の戦いが始まった。
……その有様を、姉上や、ラグナディアの兵たちは、ただ呆然と見守るだけだった。もはや、普通の人間にどうこうできる戦いではなかった。
魔神が少しでもこちらに興味を持てば、自分たちなど無為に食い荒らされ、踏みつぶされるだけの獲物に過ぎないと本能で分かってしまっては、立ち上がる気力のあるものも稀であった。
しかし、そのままでは困るのだ。だってこの国を立て直すのは、彼らだ。魔神も魔人たちも、所詮は稀人に過ぎないのだから。心が折れたままではいけない。部下たちがそんな状態ではオルフィがとても苦労するではないか。
だから、私は。ラファリア・リザベルは。かつて王女であった者として、なによりオルフィリア・リザベルの妹として。最後に一世一代の演技をしなくてはならない。
余計な知識をいっぱい得たけれど、それでも私がラファリアであることが変わらないのは、きっとオルフィのおかげ。
急ごう、那祇さんが時間を稼いでくれている間になんとかしなきゃ。彼女は本来、龍巫という気象・惑星環境操作を得意とする存在、世界守護者としての王だったもの。
力は膨大であるが戦闘向きではなく、魔術の使い方も力任せで、正直エルシィさんよりかなり雑だ。ましてあの魔神に相対するなら、その力さえも戦っているうちに吸われてしまう。
しかし戦闘向きだった、龍将である兄、朱洛のほうはどこにいるのだろう……? 彼なら、吸われる以上の速さで相手を破壊できるのでは。……あ、だめだ、彼があれ相手に本気出したらエーギル湾の二の舞、ラグナディア消える。やっぱ無しで。
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オルフィリアは、恐ろしい、人智を超えた戦いを、ただ見つめていた。どちらが優勢なのかは測りかねる。どちらであろうと、自分達は完全に蚊帳の外におかれているのは間違いない。
見届けるだけでもと思って、兵を率いたはいいが、魔人王の騎士たちの足手まといになっただけで、むしろ兵たちには無用な絶望を見せるだけであったのかもしれない。
無駄だったのか、間違えたのだろうか、そして、何もできないのだろうか……。思い悩んだ時に、妹の念が、聞こえた。
『……姉上』
『ラファ……?』
『今から少しばかり、派手に演出と演技をやります。役者になってみせますから、合わせてください』
『どういうこと?』
『魔神を退けるための、切り札を、魔人王から授かりました。そしてそれは、姉上が振るうべきだと思います。明日からの、この国のために』
『…………いいわ。何だって、やってみせる』
『はい。それでは……』
――――――――――――――――――――――――
それは雪のような光の粒だった。
突然、ラグナディア軍の周辺で、きらきらと、光の粒が舞い始めたのだ。
「……今度は、何事だ…?」
「魔神の仕業か? もう終わりなのか、俺たち……ああ……」
精神的に打ちのめされて、座り込んでいた兵士たちは、光の粒が、やがて人々の姿をとるのを見た。
「お前たち、は……」
「あ、ああ、あ……」
「親父……!?」
「ニクラウス将軍……ロダン将軍……」
「……ひっ」
それは、死者の姿。叛乱において、あるいはこの戦いで、あるいは、さらにその前の戦いで、命を落としたものたち。何千、何万もの死者たちが、静かに、軍勢を取り囲むように現れた。
そしてオルフィリアやマクセルたちの前には……。
「陛下…!」
「が、ガルザス!?」
「ラファリア……!」
「ああ。お父様。ラファ……なぜ、ですか……」
『……姉上』
「ラファリア!?」
『聞こえますか?』
「ええ……聞こえるわ……」
ラファリアの幽霊だけが、声を発しながら、オルフィリアに向かって近づいてくる。そしてその声は、何故か、全軍に対して同じように聞こえた。
『良かった。あまり、時間は無いので、手短に言いますね。皆よ。ラグナディアの精鋭たちよ。かの暴虐なる魔神を退けるために、今、あなたたちの力が、必要なのです』
「どういうことですか?」
『……死することにより、私は知りました。かつて王祖リオネルは。いつかラグナディアの地に、恐るべき災厄が訪れることを予見していたのです』
うん、そういうことにするんだ、王祖様、みんな。嘘も方便ということで。
『そして王家をはじめ、ラグナディアのために命を落とした者たちの魂の力を、何百年もかけて、束ねるための仕組みを、作り上げていたのです』
『ガルザスに宿っていた力は、その仕組みの一つ、本来はこの災厄に備えたもの、人を操る力でなく、人びとの心を束ねるためのものだったのです。だが彼は王家の血を引きながら、正しい知識を得ることなく国外にて力だけに目覚め、さらには魔神の僕に唆され、全く誤った、正反対の使い方をしてしまった』
『そして私も父も亡く、ガルザスも我らに加わった今、その力を扱えるのは、姉上のみ。王祖の願いにより、このラグナディアで死した私達の全てを、今、姉上にお渡しします。そして』
『精鋭たちよ。立ち上がり、祈りを捧げて下さい。必要なのは、ただの力ではありません。例え山をも砕く力でも、それだけではあの魔は倒せない。ですが……』
『死せる我らの力に、生けるあなた達の祈りを掛け合わせることで、あの魔を退ける、聖なる神の奇跡をここに呼び出すことができるのです。生けるあなた達の、生きようとする意志だけがその奇跡を作り出せる。ガルザスが持っていた力の、本当の使い方で……姉上に皆の意志の力を集め、ただ一度の、魔を絶つ刃を、ここに顕現させるのです』
『この言葉が、この願いが届くならば。どうか、皆の力を貸してください。未来を託した先祖達のために、無念のうちに死した私達のために、そして明日を生きるあなた達自身のために、どうか、どうか、魔を倒すための、魂の祈りを!!』
「わ、わかりました…」
「だが、どうすれば、よいのですか……」
『皆、手を握り合わせ、あの魔を滅ぼすことを願ってください……そして姉上』
姉上の手を、幽霊の手で握りしめて……うまく笑えてるかな、私。
『お渡し、します』
「!!」
その瞬間、祈りを捧げたラグナディアの兵たちは、急激に力が抜ける感覚に襲われ、崩れおちた。そして兵士たちは見る。無数の死者たちが再び白い光の粒となって、今度はその光が深紅に変わり、オルフィリア王の目の前、ラファリア姫の幽霊がいたところに集まっていくのを。
そして、深紅の光が凝縮し……オルフィリア王の前に、一振りの、刀身が燃え上がる、巨大な刀が現れた。
……さて。今の私は、魔人王プラナスの知っていた霊威すべてを扱うことができる。本来死人である私では、使うための命数は到底足りないが、それは、ナヴァさんが補填してくれていた。それを用いることで、この演出を行う元手を得たのだ。
【史記】の霊威を使ってお父様も含めた死者たちの本から記録を読み取り、幻影を作り出す。意外にも姿だけならと許可を貰えた。ごめんね死者の皆さん、これも姉上のためです。文句は私に。ガルザスてめえも使ってやる少しでも姉上の役に立て。
そして……私自身に眠っていた力である存在の時を速める【勤勉】や時を遅くする【怠惰】を使うことで時間を操作して膨大な作業を間に合わせ、【奪魄】によって皆の力を集め、ナヴァさんを通じて、ホノカさんに注いだ。
正直、数千人ぶんの精気では、必要な量には到底足りなくて、大半はナヴァさんが用意した力だけど。それでもこうすることで、兵士たちは、自分達は無力でなく、勝利にに貢献できたと信じることができる。その物語こそが、明日のために必要だ。
あの時エルシィさんは、魔神と縁を紡いで【強欲】を複写し、さらに私の魂に向かって発動し、忘れられていた霊威を呼び覚まして、その後【慈悲】によって共有させることを引き金に、私に自力で思い出させた。
そしてその力…【勤勉】と【怠惰】で時を操ることで、本来ありえない速度で最高位の魔術を編み上げ、魔神にぶつけたのだ。さらには、ホノカさんまで対象にして、【史記】を援用して彼女の探知能力を引き上げた。魔神の神核を特定するために。
こんなこと、いつから狙っていたの、当代? プラナスの代で失われた【勤勉】と【怠惰】、ついでに【奪魄】を取り戻すために、喪われた魂を再現しようとするのはまだ分かるけど、それを【強欲】も手に入れることで確実化しようなんて、普通は考えたってやらないでしょう?
というか、いつから、【強欲】があれば霊威を忘却から掘り起こせることに気がついていたの? あ、【奪魄】の解析過程でそれに思い至ったのか?
でも、そのために、こんな外つ神の再召喚なんて危険を冒すなんて。まして、ホノカさんの力を使うのなら、支払う代償だって安くない。正直正気を疑うところ。人間の枠を越えてしまったから、その辺の価値観も変わってしまっているのかしら。それとも、これも何か、災い転じて福となす、一石二鳥の布石なのかしら。
そして姉上が、震えながら、燃える刀を。つまりホノカさんの本体を、手に取る。
「ラファリア……お父様……みんな……ああ……」
『……ありがとう、皆よ。それこそが、魔を滅ぼす、人の祈り、この国の歴史の結晶。ただ一度だけの神なる奇跡……。今度こそ、お別れです。お願いします、姉上。どうか、未来を…………』
「ラファリア!」
『さよなら、マクセル、お義父様も……どうか、お元気で……』
「ああ、ラファリア。私もいずれ、そこにいくとも……」
ごめんね、みんな。もう少し、色々話せるような別れがしたかったのだけどね。所詮私は死者だ、それは贅沢というものだろう。
魔神は、那祇さんと戦いながら、ふと、近くに異常な気配が生じたことに気がついたようだ。そして、視線を姉上のほうに向け……驚愕に凍りつく。
『ばかな』
その驚愕を理解した兵士たちが、歓声を上げる。本当に姉上の持つそれが、あの魔神を対して脅威であるのだと、分かったから。
しかし、そりゃ驚くだろうね。神器としてのホノカさんは、他の神器とは一線を画する異常なものだ。単純な出力でなく、その性質がありえない。
私もさっきそれを理解した時はびっくりした。ホノカさんは、通常駆動や励起駆動などの段階駆動や変化を持たず、たた一種だけの権能に特化した神器だったのだ。
『ばかな、そんな神器があるものか、あってよいはずがない』
そもそも、天神器が疑似魂魄を与えられているのは、魂の力を扱うため、つまり霊威を扱うためだった。そうであるために、魔術の範疇を超える現象を起こすことができた。
そして、ホノカさんが宿していた霊威は……【神滅】と呼ばれているものだ。それは魂を不可逆に破壊するもの。命を消滅させるもの。魂に依存する奇跡をも破壊する、他の霊威を根こそぎ砕く霊威。古代種の世界において、もっとも恐れられた力。
そんなものを意志を持つ神器に封じるなんて、博打もいいところだ。神器が反逆したらどうするのさ。誰よこれを発案した魔人王は? プラナス以降、当代以前の誰か。よくやるわ、ほんとに。
『そんなものが発動すれば、この世界自体がただでは済まん、奇跡を手放すのか。この世界の神よ、何を考えている!?』
そう、【神滅】の発動は、前提として不可逆に莫大な命を消費する。命は消えてしまって何も残らない。さらに、奇跡を破壊する。例えば古代種の霊威によって構成されている魔導機構に対しても猛毒といえる。
地上でこの魔神を滅するほどの規模で起動させるなら、その世界の魔導機構はかなりの部分を破壊されてしまうだろう。魔術という奇跡は、相当に衰えるに違いない。そして。この世界を管理している魔人王も、人でいえば内臓の多くを抉りとられるような打撃を受けることになるはずだ。
『そんなものを使っても我を滅ぼすには至らぬ、滅ぼせぬのだ。それなのに無駄にするな、減らすな、全て我のものだ、我と共に来い、そのほうが貴様らにとって幸福で……』
『構わぬ。妾を振り下ろせ、オルフィリア王。それで、すべてが終わる』
『姉上……』
「……魔神よ」
姉上にも分かっている、終わりとは、則ち別れだと。それでも、姉上は止まらない。それが王というものだから。
「……消えなさい。ここは、あなたの場所ではない」
『天神器・火之迦具土・終末駆動・構成『神葬弔花』』
焔纏う刃が、振り下ろされた。
それは魂を糧に咲き誇る火の花。神威の終わりを告げる弔花。
そのとき、この世界は代償として、いくつかの奇跡を失った。魔導機構は本来の出力を発揮できなくなり、魔人王自身も、少なからぬ代償を支払った。
それが分かっていてもなお、かの魔神の如き脅威が再来した時のためにと、代々の魔人王は記憶と共に意志を受け継ぎ、神殺しの刃を鍛えて研ぎ澄ましてきた。そして刃はここに振り下ろされるに至った。
振り抜かれた刃から、緋色の巨大な焔の帯が生じ、帯は緩やかに回転しながら、魔神へと迫る。
『なんと勿体のない、無駄なことを……慮外者どもめ……!』
魔神は思考する。
あれを受ければ、確かに霊威を元に構築されたこの体は滅びかねない。だが、この体は本体とはいえ、存在の全てではなく、他次元に隠した核や分体があれば、復活は可能だ。
そもそも焦る必要はない。時間は常に彼の味方だ。前回ここに来たときのように引いてもよいし、彼にはいざとなれば先ほども使った、時を戻す権能もある。疲労も激しい力だが、まだ使う余力はある。
さしあたり、あれが到達する前に、できるだけ存在を他次元に逃がすとしよう。花の奥で小さく維持していた【双界】の門を広げ、次元の狭間に……。
『……なに……?』
門が広がらない。
………いつの間にか、門の縁に相当する、花の蕾の下側に、黒い剣が「刺さって」いた。剣の隣で血塗れの人間種が笑う。
「私の力を散々吸ったものだから、結構頑固よ、それ。頑張って?」
『貴様!?』
僕の報告にあった、この世界の神か!? 急ぎ黒い剣ごと補食しようとしたが、彼の力は弾かれた。
途轍もない封印と不動の力を込められたその剣を食べるのは、彼の力をもってしても、容易ではなかった。時間をかければ可能だったろうが、彼にはその時間がなかった。
……そして死の花が、彼を捉える。
『ぐっ、おっ、おおおおおっ』
魂の奇跡を終わらせるその破壊は、受けてしまえば彼の持つ霊威では防ぐことができない。暴食で力に変えることもできない。だがまだ最悪ではない、この体など捨てても構わないのだ、もともと自分の体はこのようなものでもなかった。まだ自分には……。
自分には?
『……なぜだ、ありえぬ、ありえようはずが、ないっ、な、ぜ、どう、やっ、てっっ!?』
何故だ、いつ見抜かれた、どうして。
自身の体内だけでなく、他次元の狭間にも隠していた、本体中の本体ともいうべき神核。それも百余にも分けていたはずのもの。多重の偽装をしかけ、隠していたはずのそれらが、全て、緋色の花に捕捉され、同時に灼かれ、崩壊していく。
『『『『『『……戻れ、戻れ、時よおおおお…!』』』』』』
隠していた己の核たちを侵食され、何千万年か、何億年かぶりかも分からぬ死の恐怖に晒されて、再び魔神はその力に縋る。その力こそが狙われたと気付かぬままに。
余りにも久方ぶりの恐怖に、状況を分析する冷静さを彼は失っていた。いやそもそも、かつてほどの知性ももはや彼にはなかったのだ。今の彼は、久遠の時の果てに、ただ、食べて生き続けることだけが目的と化した、ある意味では抜け殻であったのだから。
だから、深く考える余裕もなく、得意とする非常手段に頼った。この時空の自分の力は破滅の火に灼かれかけていたとしても、他世界、他次元の自分たちを糾合すれば、時を押し戻すこともできるはず……! 全ての自分に接続し……。
……さて、ここにひとりの男がいる。護法騎士エグザ。この戦いにおいて今まで、とりたてて特別な動きのなかった男だ。彼の能力は使える条件が厳しく、かつ反動も厳しい。……その厳しさゆえに、脳以外の全ての肉体を魔導機械に置き換えざるを得ないほどに。そのため、ずっと温存されていた。
その彼が、動いた。まさに死力を尽くして魂の力を絞り出そうとした魔神に、緋色の死をかわしつつ、双の掌打を突き当てて。自身が緋色に巻き込まれれば死を免れえない状況において、彼は恐怖に溺れることなく己の任務を完遂する。
「『反転』っす」
『…!?…』
【天秤】と呼ばれる、【時遡】に匹敵する第五階梯霊威。ある事象を、それと霊的に等価の別の現象に変換する力。そしてその効果の一つである反転は。霊威を対象に、その引き起こす現象を反転させるもの。
天秤の軸となる使い手の負担も莫大であり、反転が効果を出せる機会も、発動直前の一瞬のみ。しかし、彼は一度それの発動を見て、その機会を把握していた。
時とは流れるもの。流れを遡らせる力は、それだけで無理、無法の力。ゆえに、此度の場合、その反転こそが則に沿うものであり。同格の力であっても、相殺ではなく反転のほうが明確に上回る。
かくして、時を遡ろうとした力は発動時に反転させられ、逆に時が流れ、その間に起こるべき事象は既に「起こった」ものとして接続を通じて三千世界に定着する。すなわち。
『『『『あがあああああああああああああああああああああっっっっ!? ………あ…………』』』』
かの神の魂たちは。分かたれた身の殆どを含めて。もはや数えることも忘れた時の果てに、ようやくその終わりにたどり着いた。
そしてギリギリのところで、能力の代償に双腕を崩壊させながらもエグザは離脱。それでもなお、自分の魂の死を知らずまだ蠢く遺体に対し、【絶縁の太刀】を起動したリュースが乱舞する。
彼の持つ真の力……【傲慢】と穢れ祓う神器の力により、その刃は傲慢にも世界の法則を超越し、有り得ない浄化を可能にする。本来ならば鋼すらへし折れる強度を持つはずの神の遺体は、膾のように切り刻まれ、断面からひび割れ崩壊していく。
体を少しでも残せば、魔晶石と化して争いの火種になるために、全てを破壊する予定になっていた。そして緋色の死の燃え移っていないところを粗方刻み終えると、彼も離れる。
支えるべき魂なく、物理世界との縁を断たれ、そこに存在する因を失えば、則ち在ることは能わない。魔神であった崩れた断片たちに、弔いの焔が燃え移っていく。
そして。
花。花が咲く。
無数に、赤く、紅く、最期に白く。盛者の必衰なることを表すように。
燃え尽きた白灰は、空に溶け、消えていく。
そうして。悠久の時、万物を食べ尽くしてきたはずの魔神は、一切を残さずに世界から消滅した。
魔神の下僕たちも、霊威によって維持されていたものゆえに、同様に悉く燃え尽きていく。そして全ては終わりを告げた。
「いやーすまないっすね、おいしいとこ持っていっちゃって」
「構わん、勝てばよいのだ」
「あー、もう、ほんとに今回ばかりは疲れた、疲れたよおおお」
「エルシィはほんとお疲れ様。リュース、分かってるよね?」
「主殿、私も疲れた、壊れちゃう、助けて、抱っこして」
「まずあなた自身の煩悩を祓いなさい」
「はいはい後でな。分かっていますよ那祇様。イーシャも含めて、しばらくみんなで休暇がほしいところだ」
『さて、我は再び眠るとしよう。後のことは任せ……』
「あ、眠る前に向こうまで戻ってくださいね。お姫様たちへの説明もお願いするっす。それっぽい修飾つきで。ちょうどよく向こうだとお話できてたみたいだし」
『……風情のないことだ』
ボス戦終了
残り三話
次話がこの後のラファリアと、そして2つのエピローグになります。
4/6 レイアウト、誤字等一部修正




