~ 女の子を助けて崖からダイブ ~
植物から発せられる蜜の甘い匂いが登山姿の若い女性、ケイ・グレイスの鼻孔をくすぐった。
「くっ!」
美しく整った顔を苦痛に歪めながらケイは金色の短髪を振り乱すほどに暴れるがその体には植物の蔦が絡みつき身動きが取れなかった。ケイの目の前には自身の体を丸ごと包み込めるほど巨大な植物が赤い葉を広げてそびえ立っていた。葉の先端には鋭い棘が動物の牙のように突き出しており、大きな獣が口を開けて獲物が飛び込んでくるのを待っているかのような光景だった。
ケイはもう一度蔦から抜け出そうと暴れるが、その度に蔦はさらに絡みついてきてケイの体を締め上げた。締め付けられる痛みに耐えながらケイは植物を睨みつける。が、植物相手ではどうなるわけもなく、ケイの体は徐々に植物の方へと引き寄せられていく。
踏ん張りながら耐えるケイの足元を同じ捕まった子ウサギが蔦に引きずられていった。蔦は捕まえた子ウサギを開いている葉の中央付近へ放り投げるようにして離すと、待っていたとばかりに左右に広がっていた葉は勢いよく閉じた。葉と葉がぶつかった際の衝撃と音がケイの金色の髪を乱暴になびかせた。
(食べられるっ!)
ケイは腰に付けていたナタを取ろうと手を伸ばすが後少しの所で届かない。
(蔦を切れれば逃げれるのに……なんでこんな危ないのがここに!)
ケイは幼い頃から山菜取りに山へ入っていたが、一度も人を襲うような植物に遭遇したことはなかった。同じ街の住人からも危険な植物が自生していると聞いたことはなく、危険といえば稀に熊と遭遇するくらいだった。熊への警戒はケイもしていたが、肉食植物は想定外だった。
最初は偶然に枝が絡まったと思うだけだったが気が付いた時には手足を絡み取られて、ズルズルと肉食植物の口の前まで引きずられて来てしまっていた。
ケイの目の前で再び真っ赤な口のような葉が左右に広がった。葉の中には放り投げられたはずの子ウサギの姿は骨すらなく、粘液が粘り強く葉の表面に付着していた。
体の奥底から一気に沸き上がってきた恐怖にケイは悲鳴を上げながら必死に蔦から逃れようと足掻く。
ケイの足掻きに反して蔦は少しずつケイの体を引きずっていき、ついに葉の内側にまで連れ込まれてしまった。ケイの体を覆い尽くすほど大きな葉は静かなだけに何時閉じるか分からない恐怖をケイに与え続けた。
「だ、誰かっ! 助けてぇ!!」
森の奥で届くはずのない声をケイを上げることしかできなかった。
ケイの叫びに森が震えたかと思うと何か棒のようなモノが飛び込んできて植物に突き刺さった。それと同時に蔦の力が緩み、ケイは慌てて蔦を振り払った。
「逃げるぞ!」
突如、声と共にケイは誰かに腕を掴まれて植物から逃げるように引っ張られた。
「おい、急げっ!」
強く怒鳴られてケイは自分の腕を掴んでいる人物を見た。ケイよりも少し年上くらいで肌がやや黒い。赤い目をした旅装束の青年だった。青年は気が動転しているケイの腕を今までよりも強く引っ張って無理やり植物から離れた。
「ちゃんと走れ。あれくらいじゃまだ倒せてない。追ってくるぞ!」
青年の言葉を肯定するかのように後方から植物の蔦がケイと青年に襲い掛かってきた。
「ほら、走るぞ!」
「は、はいっ!」
ケイは青年と共に森の中を走り出した。
マントを揺らしながら先を走っていた青年は徐々に速度を落としてケイと並ぶようになった。ケイは自分に速度を合わせていると思ったが、青年が息も絶え絶えになっているのを横目で見て驚きの声を上げた。
「え!?」
青年の走る速度はさらに遅くなり、ケイが先行するようになった。
「だ、大丈夫!?」
ケイは青年と並走するように速度を落とす。青年の速さはすでに走っているのか歩いているのか分からないほどになっていた。
「俺に構わず先に行け。ちょ、ちょっと体力がないだけだ」
声を出すのも苦しそうな青年の背後からは植物の蔦が迫っていた。
「先に行けるわけないでしょ!」
ケイは力が抜けた青年を強引に背中へ背負った。
「おい、俺を置いて先に行け。人を背負って走るなんて無理だ!」
「大丈夫よ。肉体労働は日課なの。だからそこらへんの男共より体力はあるんだから!」
ケイは自身の言葉通りに若干速度を落としつつも蔦が追いつけない速さで森の中を走り始めた。しかし、いくら体力があるといっても一人背負っての移動は長くは続かず、すぐに歩くような速度になってしまった。
「やはり無理だ! 君だけでも早く逃げろ。俺だけならなんとかなる」
ケイが視線を背後に向けると蔦が木々の間を縫うようにまだ追ってきていた。
「逃げれないわよ。あなたまだ顔が青いじゃない。こんな辛そうな人を置いていけないわ」
「だがな……っ! 分かった。このまま進んでくれ。言う通りにだ」
追いかけてくる蔦から逃げ切る方法を思いついたのか青年は声を落ち着かせた。
「何? 助かる方法でもあるの?」
「このまま二人で森の中をずっと走り続けるよりは生存率は高い。そこを右だ」
ケイは自分も知らない森の地理を知っているかのような口調に疑問を問いかけた。
「あなた、この森を知ってるの?」
「思い出してきたという方が正確だな。かなり昔だがこの辺を走り回ったことがある。時間が経っても遠くに見える山の形は変わらないからなんとなく方角が分かる」
「なんとなくって……結構不安になったんだけど?」
「大丈夫だ、見えてきた。昔の記憶は染みついてるもんだな」
懐かしむような青年の声と共にケイの視界が開けて二人は森から抜け出した。
「なっ!?」
そこに広がる風景にケイは声を失い、慌てて足を止めた。
二人の目の前には切り立った崖があり、その向こうには美しい山林の風景が広がっていた。
だが、そんな美しい風景を楽しんでいる時は二人にはなく、植物の蔦も森を抜けて二人へと迫っていた。
「ちょっと崖よ! 行き止まりじゃない!」
「そうだ。崖だ」
「道、間違えたの?」
「いいや、合ってる」
青年はまだ辛そうな表情のままケイの背中から降りると崖の下を覗き込んだ。ケイも続けて覗くと遥か眼下に川が流れていた。
「まさかここから飛び降りるの!?」
「そうだ、それしかない。森の中をこれ以上は逃げ切れないからなっ!」
青年は迫ってきた蔦をいつの間にか手にしていた木の棒で振り払った。
「下が川だからって助かる高さじゃないわよ!」
「大丈夫だ、信用しろ」
青年は木の棒を蔦に絡められて盗られると戸惑っているケイの腰を掴んで勢いよく崖から飛び降りた。
「信用しろッて!? いやぁっ! いやぁぁっ! きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
ケイの叫びは二人の体が川へ飛び込む音で掻き消えた。