第九話
二人で歩く『Over Land』の景色の中に笑い声が響き渡る。『この世界』に存在する『自動翻訳システム』が社畜並みに仕事をするために生じる全日本人標準語計画の弊害のためだ。何を話しても違和感が仕事をして、どこか引っ掛かる。『この世界』の開放的な風景がそうさせるのか、浅くなったツボを刺激され、この日三度目の爆笑が巻き起こっていた。
ひぃ〜っひぃ〜っ、と息継ぎに苦心するみずきの姿を見るのは、実に四、五ヶ月ぶりくらいではないだろうか。
「それほど面白いか?」
「〜〜っん、おもじろいっっ」
ならよかった、と思うが、さすがに笑いすぎではないかと不安にもなる。
「大丈夫か?」と声をかけながら、スマートフォンの『持ち物』フォルダから水筒を取り出して、コップに注いで彼女に手渡す。それを「ありあと」と受け取って一気に嚥下すると「ふあ〜〜〜っ」と長い息を吐く。
気持ちを落ち着かせる彼女を横目に「そろそろ飯の準備すっか」とスマートフォンを指繰って、いつものセットを地面に並べていく。その様を見て、みずきは「ほ?」と短く鳴くのみだった。
キャンピングチェアーとテーブル、カセットコンロと鍋、フライパン。手際よくセッティングして、今日は野菜炒めにしようと献立を決定した頃に「な、何してるの?」と彼女から一時停止の声がかけられた。
「飯の準備」
ノールックで答えながら鍋に無洗米と水を入れてコンロに火をつけていると「うん、どこから出てきたの?」と異空間から物を取り出す系の手品を見た観客のような疑問を呈してくる。もちろん、タネと仕掛けしかない上にマジシャンでもない俺はスマートフォンを見せつけると、彼女は自身のスマートフォンの画面を凝視する。
「その中に『持ち物』ってアイコンあるだろ?その中に物を入れられるんだよ」
そんな説明にさえも、ムズムズするような仕草を見せる彼女だが吹き出して笑うようなことはせずに、少しにんまりしながらアイコンをタップしてみせた。そこに現れる無数の空欄に「結構入るんだね」と呟いて虚無空間をスワイプし続ける。そんな彼女に「便利だよ」とだけ返しつつ、エナメルバックに入れていた野菜たちを一口大に切り分けていく。
「野菜炒めだけど食うか?」
未だにほぉ〜、へぇ〜とスマートフォンに関心を取られている彼女は「うん」と返事をするや否や「へ?今十時!?」と驚愕の声を挙げると共に、空を見上げる。そんな彼女の初心者あるある行動に少し笑ってしまう。
「ねぇ蓮ちゃん……」と説明を求めてくる声に「『この世界』の時間は世界標準時刻になってるんだよ」と準備していた文言で答えると「それって?」と考えることを拒否した彼女はそのまま首を傾げて答えを求めてくる。
「時差は約九時間、日本時間だと今は夜七時くらいだね」
俺の答えに「はぁ〜〜……」と呼気で答える彼女。再び空を見上げると「そりゃ、寝不足になるね……」と普段の俺の行動原理の根源を察したようだ。
「蓮ちゃんはいつも何時くらいに帰ってるの?」
「ん〜、こっちの『世界』が夜になるくらいだから七時から八時くらいかなぁ」
炊飯の火加減を調整しながら、脳死状態で答えると彼女は「ふぅ〜ん……」と言いながら両手の指を折っては起こして「四時か五時かぁ……」と呟いて「え゛っ!?」と瞬時に我に返ってみせた。
「蓮ちゃんっ!それは良くないよっ!!せめてお昼の二時か三時には帰んないとっっ!!」
気を動転させる彼女は子供のように両手をわたわた、とさせながら俺に説教しようと試みる。「せめて十一時か十二時には寝ないと!」と普段の優等生っぷりが炸裂する。
「いいね?今日はお昼の二時には——」「みぃ……」
「——帰…」「『この世界』の夜は、いいぞ」
俺は豚肉を切りながら、彼女の言葉を遮る。
「街灯はもちろん、光源が何もない『世界』の夜は空が、凄い」
語彙力もへったくれもない言葉だが、効果は抜群だった。
みずきは言葉を、そして息を呑んで俺の言葉の続きを待つ。
「あれほどの満天の星空は毎日でも見たいし、あっちに見える火山も赤く煌めいて見えるんだ」
「そ、そんな……」
「今は暖かいけど、夜は肌寒い。そんな中での温かい飲み物は格別だし、マグカップには星空が映り込んでてな、すっごく綺麗なんだよ」
「うっ……」
「みぃ……」と俺は彼女の名を呼びながら、野菜炒めを調理するためのフライパンを手に彼女の方へと向き直って「どうする?」と訊ねる。すでに彼女は両膝を地に着けて崩れ落ちていた。
「夜が……見たいです……」
彼女は項垂れ、懇願する。きっと彼女はいいバスk……『Over Land』の住人になることだろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
炊飯が蒸らしのフェイズに突入したと同時に今度は野菜炒めの作成に入る。フライパンに油を垂らし、野菜を炒めていく。その調理の様子を見て「明日はウチもカセットコンロ持ってこよ」とみずきは独り言を呟く。すっかり明日もログインする気になっているようで、少し嬉しく思う。
「小さい椅子とかそういうのも準備しといた方がいいぞ」と先駆者から助言すると「そだね、結構持ってくるものあるね」と彼女はスマートフォンを手に取ってメモをとっているようだ。野菜の火の通り具合を確認しながら「持ってくる時手伝うよ」と声をかけると「うん、ありがとー」と嬉しそうな声が返ってくる。簡単な会話だが、話し相手がいるっていいなぁ、と心からそう思っていると——、
ピコーンッ! 「ん?」
突然、電子音が鳴り響いた。合わせて、みずきがスマートフォンを確認すると「あ、薫ちゃんからだ」と画面をタップ&スワイプで操作していく。『こっち』にいても『現実世界』からの連絡って取れるんだなぁ、と初めて知った瞬間であった。彼女は鼻唄を奏でながら上機嫌な様子で薫への返信を送る。すると——、
パキパキッ 「ん?」
今度は違う電子音が鳴り、右太腿に振動を感じた。どうやら今度は俺のスマートフォンのようだ。フライパンに豚肉を投入しながらポケットからスマートフォンを取り出して画面を確認する。
《は?何してんの?》
薫からの連絡だった。挨拶の言葉もなく、いきなり圧を感じる一文に未読スルーしようともう一人の僕が提案する。同意して画面を消すと——、
パキパキッ 《あんた気まずいとかほざいとったんちゃうん》
パキパキッ 《は?待って食堂におらんやん》
パキパキッ 《は?おかしない?》
パキパキッ 《なぁどこおんの?まさか部屋連れ込んでんちゃうやろな?》
俺のスマートフォンから破砕音が止まらない。木っ端微塵になるんじゃないかと不安になる。
ピコーンッ! 「あ、薫ちゃんもこっちに来たいみたいだよ」
にこにことした笑顔のまま、みずきはスマートフォンの画面を俺に見せつける。そこには《みぃちゃん、そろそろそっち行ってもいい?ご飯食べよっ!》から始まり《えぇ〜!?うそやん!誘ってぇやぁ〜!!》と続いている。そのやり取りを読み解いている間にも俺のスマートフォンは数秒毎に破砕音を鳴らしながら小刻みに震えている。爆発するんじゃないかと不安になる。
まさか俺が同一人物に脅されているとは夢にも思っていない彼女は「いい?」と無邪気にも憤怒の化身を召喚しようとしている。ここで断った場合と了承した場合を脳内シミュレートするが、ぶっ殺されるのとぶっ飛ばされるくらいの誤差の範疇で後者の方が比較的軽症に済むと結論づいて「いいよ」と答える。
「じゃあ、みぃが迎えに行ってくれるか?」
「へ?」
予期していなかったお使い司令に彼女は、ぽかん、とした表情を俺に向ける。裏心がないか、と言われれば無いとは言い切れない。しかし、「ほら、ご飯作っとくからさ」とフライパンをちゃっちゃと振るわせると彼女は「うん、分かった!」と笑顔で聞き入れてくれた。なんか騙してるみたいで胸がチクチクする……。
「俺が教えたようにすればここに戻って来れるよ。最後の『あれ』だけ注意な」
「うん、『あれ』だけ注意ね!了解!!」
ビシッと敬礼するノリのいい彼女に「食べ物とか必要そうなものがあれば一緒に持ってきなよ」とアドバイスしながらログアウトの方法を教えると立ったままログアウトしかけて慌てて呼び止める。
「座った姿勢か寝た姿勢じゃないと危ないから」と過去の経験を元に忠告すると彼女は「わかったぁ」と草原の上に寝転がって、ようやくログアウトした。他人がログアウトする様子を初めて見たが、やっぱりというほど無防備なタイムラグがあることを再認識する。一緒に『Over Land』を旅する仲間が増えることは嬉しく思うが、より一層気を引き締めないといけないな、と強く胸に刻み込んだ。
「さて、何かもう一品つくるかな」