第七話
その後、みずきは着替えと自身のスマートフォンを持ってくるために一度自室に戻って行った。彼女は真面目というか、学校へはスマートフォンを持っていかない。一度、授業中に音を鳴らしてしまって以降、トラウマになってしまっているそうだ。
別に禁止されているわけではないので、表立って使用しなければいいと思うのだが、彼女はそのことを強く引き摺っているようだ。
そんなことを考えながら、俺も着替えと簡単にシャワーを済ませる。エナメルバッグに配給を詰め込んでいると、ドアがノックされ、玄関を開ける。そこには、体操服にパーカーというすごくラフな格好の彼女が立っていた。
昔から変わらない彼女の服装に思わずホッとしつつ、招くことなくとも部屋へと入っていく彼女の後についていく。
「そんで、どうやったらええの?」と、彼女は小首を傾げながらスマートフォンを点灯させた。
「んじゃ、『Over Land』タップして」
彼女の画面を覗き見て、まずはタップ。すると、別ウィンドウが開き、簡単な登録画面が現れる。氏名、年齢、性別、国籍などなど、高校生なら即答できる質問に答えていくと、スマートフォンにID番号を割り振られる。それと合わせて、パスワードを決定すれば準備は整う。
「お、終わり?」
あまりにも呆気ない事前準備に戸惑いを隠せない様子の彼女。
まぁ無理もないだろう。インターネットに出回っている壮大かつ絶景な写真の数々、他にも日々ニュースを賑わせる善悪共々の事象から考えると、もっと複雑かつ厳正な審査が必要と思っても仕方のないことだ。
「うん、ふんじゃあ、その辺に寝っ転がって」と、言いながら俺も床に寝る。
「へ?あ、え?」と少し慌てるような鳴き声をあげながらも、言われる通りに横になる彼女。
「ほんで、もっかいアイコンタップして、パスワードいれて」
「う、うん」
俺もパスワードを入力すると、画面はローディングバーに切り替わる。
しかし、いつもならここのまま『Over Land』に旅立つのだが、今回は別の文面が現れた。
『近くに初めてログインする人物がいます。近くの場所へのスポーンを許可しますか?』というものだった。
なるほど、こういう文章が出てくるんやな。俺が初めてログインした時は一人だったため、『Over Land』のどこにスポーンするのかという疑問はなかった。初めてスポーンする場所が予め『Over Land』で決まっているのであれば、俺は彼女を迎えにいく必要があった。というより、考えもしていなかった。あの広大な『Over Land』の世界で一人の人間と出会うために待ち合わせるなんてゾッとする。そして、ここで選択を間違えたら、と考えると、もっとゾッとする。せっかく杞憂(正確には杞憂すらしていなかったが)に終わったのに、この選択は間違えるわけにはいかない。
と、一人で最悪の展開を妄想していると、「蓮ちゃ〜ん」と気の抜けた声があがる。
「別の人物が近くにいるってやつ?」
「うん」
「許可押して」
間違ぉたらあかんで、と一声かけて、俺もタップする。
ローディングバーがゆっくりと動いていくのを確認すると、俺は目を閉じた。
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さわさわ、と膝丈草が頬を撫ぜる感覚と共に目を開いて、上体を起こす。目の前には昨日焚き付けた獣が嫌うと言われる灸がまだ燻って細い煙を立ち昇らせていた。追うように見上げると雲割合三体七のマイフェバリット青空が視界いっぱいに広がっていた。
そして、隣からは「はゎぁ〜」と感動の吐息混じりの鳴き声が聞こえてくる。
まずは、無事に合流できてよかった、と一安心すると、彼女はかさかさ、と膝丈草を鳴らして立ち上がった。
そういえば、俺もずっと『そう』していた気がする。
彼女は大きく両手を広げ、視界を遮るもののない青空を、どこまでも広がる平原を、遠くで煙を吐く山々を、柔らかな風と共に鳴る膝丈草の葉擦れ音を、平原から立ち上る緑と土の香りを、途轍もなく壮大な景色の中に一人立っている事実を、全身で堪能している。
「すごい……」
分かるよ、その言葉しか出ない気持ち。語彙力の無さを笑う奴らも、きっとその三文字を呟くに違いない。
「蓮ちゃんっ!」
しかし、俺の時との違いは、その感動を共感できる人物の有無。彼女はくるり、と一周景色を堪能すると満面の笑みを俺に向ける。
「来たよ!来れたよ!!『Over Land』!!!」
彼女は情緒が満ち溢れて少し涙目になっていた。大きな声を出しても、その声は反響することなく風景に呑まれていく。
「みぃ、ちょっと落ち着け」
「えへへ、うんっ!!」
どちらがいいとは決められない。たった一人で『この世界』の素晴らしさを噛み締める時間と、誰かと分かち合う時間。決める必要はないんだろうけど。俺の場合は少なくとも一時間は佇んでいたっけ……。傷心も相まって、少し救われた気になったことを覚えている。
そして今は、彼女の屈託のない笑顔に心を奪われている。
「ね?どこ行くの?」
そう言って、彼女は微笑む。
「すっごく自由で、どこにでも行けるんだよっ!そして、何でもできるんだよっ!」
その笑顔に見惚れながら、俺はこれまで目指してきた進路を指差して「今、見えてないものを見にいく」と彼女につられて笑った。
「『この世界』の海を見たいと思ってね」と付け加えると「わぁ」と彼女は高まった感受性をそのままに感動の声を垂れ流す。
「いいねいいね!行こ!」
彼女は感動した心の赴くままに、俺の手を握って走り出す。その手が怪我した肩の方であり、じくり、と若干の痛みを伴ったとしても、彼女を止めることはできなかった。詰まるところ、俺も浮かれていたんだと思う。
数分後
「れ、蓮ちゃん……、全然景色変わんないけど……」
「お、おう……、海はかなり遠いからな……」
浮かれ切った二人の足は、広大過ぎる『Over Land』によって止められたのだった。
ぜぇぜぇ、と息を切らしながらも、それでも彼女は笑っていた。