第四話
まぁ、そうなるよな……。
しばらく歩いた後に、料理に取り掛かっていたところであった。今日の献立は豚の生姜焼き。コンロを出してフライパンに油を引いて豚肉を焼き、「あ、生姜無いやん!」と『持ち物』フォルダの致命的な欠品に気付いたとほぼ同時くらいのタイミングで膝丈の茂みから腰高程度の大きさの犬が俺の頭目掛けて、すっ飛んできた。
運良く立っていた状態であったことと体の向いている方向からの襲撃であったため、大きく一歩怯んだだけで直撃を避けることができた。この時に発した「うぉぉおい」という叫声が情けなく萎れた声だったのはしょうがないことだ。
そして、ごま油をひいたフライパンで豚肉を炒めてたら、そりゃ獣が襲いかかってきてもしょうがないことだ。
必殺のタイミングを逸した犬は、グルルルルルと大きく喉を鳴らしながらこちらを睨む。今更、豚肉を分け与えたところで引き下がってはくれないだろう。
ちなみに、『この世界』では動物を手懐けることは非常に難しい。『現実世界』でそのような技量や能力があったとしても、『この世界』の動物はなぜか人間を見ると攻撃を仕掛けてくる。目の前にいる犬も然り、もっと小さな猫やネズミ、朝を知らせてくれる雀でさえも人間を見かけると飛びかかってくる。
まったく、『この世界』の人間は、彼らに一体何をしたというのだろうか。
とにかくも、そのような事情により、俺には選択肢が三つ残されている。
一つは、逃げる。このだだっ広い平原の中を全力で走り抜け犬が疲れ果て、諦めるまで走り続けること。目の前にいる犬の犬種までは不明だが、大きさでいうならば大型犬の部類、外見で言うならばドーベルマン(以下、ドーベルマン(仮)とする)といったところだろうか。……原チャでも逃げ切れる気がしないな。すなわち、却下。
二つ目は、ログアウトする。一つ目とも類似するものであるが、『この世界』そのものから逃げるという方法だ。次元的にもドーベルマン(仮)の牙が届くことはないだろうが、それには少なくない程のラグが発生する。もちろん、その間は無防備だ。せめてサンドバック程度の防御力と忍耐力があれば逃げ切ることができるだろうが、下手したら腕一本引き千切られることになるだろう。……寮に救急車呼ぶのは、なんか……ヤだな……。と、いうことで却下。
もはや最後の一択。
戦う。
『この世界』は豊かな大自然がどこまでも広がっている。
それは、すなわち、弱肉強食の世界。
弱者は獲って喰われる、残酷な世界。
俺はスマートフォンを指繰り、『持ち物』フォルダの中から更に細分化した『武器』フォルダをタップする。残酷な世界にあって、人間にとっての救いは『武器が支給』のことと『スキル』の存在である。『スキル』に関しては後ほど説明するとして、『武器』は剣、槍、斧、棒、弓と原始的なものが用意されている。
その中で、俺は剣を、細分化して刃渡り三十センチ程度の短剣を右手に召喚する。これ以上の剣は重くて振れたもんじゃない。
ちなみに、色々説明したが、ここまで二秒。
ドーベルマン(仮)は剣を手にした俺を見て、先手を取ろうとしたのか、唸り声から咆哮を放ち、体目掛けて飛び込んできた。野生の力を遺憾なく発揮し、全身の筋肉を使った跳躍は一瞬にして距離が詰まる。
俺には剣術の覚えはない。もちろん、戦闘に役立ちそうな格闘術もだ。やっていたことと言えば、両親の影響で始めたサッカーくらいのもの。それでさえ、中学の卒業と同時に辞めてしまった。
「っこの!」俺は右腕を振るい、ドーベルマン(仮)の頭部を鉄の塊でぶん殴った。
俺にはまだ剣で斬るなんてことはできない。剣らしい使い方といえば、せいぜい『突き』くらいだ。
それでも、鉄で頭殴られたら痛いだろ。
ドーベルマン(仮)の牙よりも先に到達した鉄の剣は俺の手に骨を砕く感触を鮮明に伝える。飛びかかった惰性で迫ってくるドーベルマン(仮)を半身になって躱すと、背後に着地したドーベルマン(仮)はそのまま地面に崩れ落ちた。
「ふぅぅぅ……」と大きく深い呼気を吐き、項垂れる。ゲームや漫画では何度も見ているが、実際目の前で、しかも自分が『それ』をするとなると話は別だ。『この世界』に来てから初めての経験ではない。けれども、まだ慣れることはない。
いつか慣れる日がくるのだろうか、などと思いながら未だ震える膝を引き摺るようにフライパンの方へと戻ると、豚肉は酷く焦げ散らかしていた。
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焦がしてしまった豚肉を、その場に置き去り、仕方なく移動を再開する。犬系のモンスターは集団で襲ってくることが多い。さっきの一匹が群れを先導している個体だったとすれば、少しでも移動してエンカウントの可能性を避けるべきだろう。あとは残してきた豚肉で満足してくれることを願うばかりだが……。さすがに四、五切れの豚肉では期待しすぎだよな。しかも、焦げてるし。
危険ならば、さっさとログアウトしてしまえばドーベルマン(仮)の群れから簡単に逃げ馳せることができるように考えてしまうが、それは避けた方がいい。とりあえずの危険は回避できるだろう。では、次の日、周囲にドーベルマン(仮)の群れがいるかもしれない所にログインできるだろうか?もちろん、ログアウトの時と同じように少なくないタイムラグが発生し、自身は無防備な状態を晒すのである。俺ならできない。噛みつかれる程度ならまだ我慢もできようが、あのタイプの犬種は確実に引き千切ってくるだろう。それも、数匹の群れでいたとすれば、と考えるとゾッとする。
この世界が完全な『ゲーム』であれば、このような心配はないのだろう。
ログインして、モンスターがいてダメージを受けても、振り払い態勢を整えて迎え撃つくらいのことはできそうだ。
しかし、『この世界』はスマートフォンにインストールされた『アプリ』であり、『ゲーム』のような形態をしているが、『ゲーム』ではない。
『この世界』にはヒットポイントや体力ゲージと呼ばれる数値はない。
他にも、自身のスタミナを示すものや、レベルなんて概念もない。
全てはこの身一つ。
もし、さっきのドーベルマン(仮)に噛みつかれ、腕を引き千切られていれば、その腕は回復しない。失われたままである。
もし、さっきのドーベルマン(仮)に頭を噛み砕かれていれば?
血を大量に排出し、止血もままならなければ?
待っているのは、死、である。
ふと思い直して、地面に力なく伏しているドーベルマン(仮)へ目を向ける。
もしかすると、あのように倒れていたのは俺だったのかもしれない。
そう考えると、背中が冷えてくる。
動悸が激しくなり、自分がまだ生きていることを実感する。
『この世界』は大自然に囲まれ、美しい世界だ。
だが、『この世界』は残酷だ。
それでも、俺は『この世界』に魅了された。
続けていたサッカーを辞めてまで、『現実世界』の生活に支障が出るまで、俺は『この世界』にハマり込んでいる。
この胸を叩く鼓動は、恐怖からくる緊張なのか。それとも、未知へと期待なのか。
俺は、右手に剣を握りしめたまま、海の方角へと歩き続けた。