第二話
ふぅ、分かっちゃいたが……。
水筒から口を離すと「ぷはぁ」という呼気が無意識に溢れ出る。
スマートフォンの時計は午前八時を回ったところ。
おおむね、一時間ほど歩いたことになるのだが、『世界地図』の現在地のアイコンは動く気配がない。
飯までに海には着かんな、これは……。
『現実世界』との時差は九時間程度、すなわち、俺の日常時計は十七時頃ということになる。
空を見上げると、未だに天頂に向かって登っていく太陽が見えて不思議な感覚に陥る。
昨日も結局徹夜してもたし、今日は早めに切り上げんのもアリよな……。
そうこう考えていると、だんだん早めの夕飯も悪くない気がしてくる。
思うが早いか、すぐさまスマートフォンを点灯させて、『持ち物』のアイコンをタップする。
羅列される『持ち物』の中身、『この世界』では荷物をスマートフォンに収納することができる。
その中からキャンピングチェアーとテーブル、そしてカセットコンロをタップしてスライドさせると、まるで最初からそこにあったかのように、何の効果音もなく椅子と机が野原の真ん中に現れる。
いやぁ、ほんまに楽。
ちなみに簡単なテントや寝袋も収納済みであるため、いつでもどこでも気軽にキャンプを楽しむことができる。
ただしかし、『この世界』で野宿するのは、危険が伴うために他の誰かがいない時はやめておいたほうがいい。と、いう注意喚起を行い、気軽とは?などと自身の思考にツッコミを入れる。
もちろん、誰もグッドボタンを押してくれないため、思考を途切ってテーブルの上にカセットコンロとオモチャのような一人用の鍋をセッティングして、エナメル鞄の中身を探る。
まずは米を炊こうか。
一食用に小分けされた米を鍋に入れ、軽く研ぎ洗いする。
水は貴重ではあるが、『現実世界』に取りに戻ることもできるため、ここではジャブジャブ使うことにする。水だけに、などとくだらないことを考えるのも、お一人様ならではだ。
と、水を定量入れて、火にかける。
米が炊き上がるまでの、待ち時間も大自然の中では悪くない。
キャンピングチェアーの前脚を浮かせて、ぷらぷらしながら空を見上げる。
真っ白な雲がゆっくりと流れるのを眺めながら、米を炊く音に耳を傾ける。
悪くない、むしろ非常に良い心地だ。
今この時にも、『現実世界』では『戦争』が行われている。
本当に痛ましいニュースが日々流れ、一体、どうすれば世界は平和になるのだろうか、などと考えさせられる。もし、世界中の人々が『このような時間』を生きることができれば『戦争』はなくなるのだろうか?
などと思考を巡らせていると、鍋はしゅんしゅんと鼻息を荒げ始めた。
慣れた所作で火を弱めると、エナメルバックから鶏肉のラップ包を取り出して、一口大にカットする。何とも簡単な調理風景ではあるが、食べられれば何でもいい。と、いうより、この絶景の中では何を食べても美味いから手の込んだ料理は必要ない。
炊飯が蒸らしの段階に入ると、コンロから鍋を離して次は鶏肉を焼く。フライパンに先ほどカットした鶏肉を並べて焼く様を見て、今度こそ網を買おうと強く心に言い聞かせる。いつも思うのだが、真っ先に自室に帰る癖をどうにかしないといけない。
そんなこんなで焼けた鶏肉を米の炊けた一人鍋に乗せて、市販の焼肉のタレをかけて夕飯が完成する。スマートフォンからタンブラーと氷を取り出して、そこへ水筒の水を注ぎ込む。簡素で味気ないドリンクだが、これが一番身にしみる。
テーブルの上に簡単男飯鳥丼と氷水を並べて、いただきます。太陽が天頂に向かう様を見ながら食べる夕食は慣れればどうということはない。
まずは箸を取り、飯を口の中に掻き込む。太陽の下でありながらも、もうもうと立ち昇る湯気に違わぬ灼熱の米が口の中で猛威を奮うが、それを氷水で流し込む。喉を通り抜ける冷え切った水というのは非常にいいものだ。
次に焼き鳥を口に運ぶと、ほろほろ、と解れていく筋繊維と焼肉のタレの絡み合いがいい調和を醸し出し、ついつい米に箸が伸びる。一心不乱に箸を動かし続けると、すぐに丼は空になってしまった。口の中に漂うタレの余韻も氷水で胃の中に流し込む。
ふぅ、と深い息を吐き、遠くへ目を向ける。まだまだ伸びる地平線の先は一体何が待っているのだろうか。
そんな感慨に耽りながら、スマートフォンをタップしてカメラ機能を立ち上げて、コンロや鍋を写し込む。すると、一つ一つがスマートフォンの『持ち物フォルダ』の中に収納されていく。
簡単な片付けを済ませると、再度、海の方角へと向き直る。
さて、腹ごなしに、もう少し歩くとするかな。
ゆったりと流れる時間を感じながら、穏やかな風が吹き抜ける平原を歩いていく。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
結局、海に辿り着くことができないままにログアウトすると、『現実世界』はすでに朝六時を過ぎた頃だった。登校を始めるには早すぎる時間だが、一眠りするには時間が無さすぎる。
それに『Over Land』でのログアウト前の日課のため、すこぶる体調は悪い。
とりあえず、シャワーだけでも浴びよう……。
布団の上で寝転がっている体を起き上がらせようとすると、視界がぐにゃり、と曲がり三半規管が悲鳴を上げる。さらに、歪んだ視界に対応するには脳の処理が追いつかず、起き上がろうと床に着いた腕の力を失わせると、顔面を布団に突っ伏させる。
その衝撃に追加攻撃を受けた三半規管と脳はより大きな警報として、胃の不快感を訴える。込み上げてくる胃の収縮による逆流を何とか堪えるが、起き上がることのできない状況ではトイレには間に合いそうにもない。
幾度かの波を乗り越えながら、起き上がることを一旦諦めて仰向けに寝転んで、呼気を整える。
最悪、あと二時間弱の時間はある……、慌てんと、波がおさまるまで耐えるか……。
などと考えながら、何度も繰り返しの経験から準備していた枕元の水入りペットボトルに手を伸ばす。若干、頭を起こして口をつけて、水を嚥下すると、ゆっくりと胃の中に入っていくのが分かる。
腕で目を押さえながら、しばらくの間は微動だにせずに、少しでも体調が好転するのを待ち続けた。
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時刻が七時半を少し回った頃、ほんの少しではあるが気分が和らいだので、その隙にシャワーと着替えを済ませ、早々に登校することにした。教室で机に突っ伏していれば、遅刻することはない。
体の不調がぶり返してくる前に何とか学校に着こうと足を早め、下駄箱まで辿り着くとようやく一息だ。
「れ、蓮ちゃ……、大丈夫?」
上履きと靴を履き替えていると、こちらの体調を慮るような聞き馴染んだ声が降ってきた。顔を上げるまでもなく、相手が誰かが分かるどころか、表情までも脳裏に浮かぶ。
きっと、泣きそうな顔をしてんだろうな。
そう思うと、余計に顔を合わせ辛い。ただでさえ、今は気不味い相手だというのに……。
「大丈夫、ほなな」
聞き馴染んだ声の主と顔を合わせることなく、しゃがれた声だけ返して早々に教室を目指す。あまり口を開くと余計なものまで出てきそうだ、と身勝手な言い訳を自分に言い聞かせる。
「あ……」という寂しさと切なさと心配が入り混じった声を背に受けて、少しの罪悪感を覚えながら、振り返ることなく歩き続けた。
聞き馴染んだ声の主の名は、古田みずき。親同士が親友が故の幼馴染で、つい先日、中学の卒業を機に告白して自爆した相手でもある。自爆というのは、告白した直後の彼女の表情が悲しげであり、一生懸命に俺を傷つけないように言葉を選んでいることが目に見えたために「てのは嘘や」と自分で結論を出して逃げ出した。それまでの関係がある分、答えを聞いて、それまでの関係が壊れてしまうことを互いに恐れた結果でもあった。
もう少し、気持ちが落ち着いたらいつも通りに戻れそうな気がする。
そんな情けない祈りにも似た気持ちを胸に、俺は教室へと急いだ。