表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
山羊が見える  作者: マツダ
6/6

6.少女と悪魔

6.少女と悪魔



 私は、あの子が嫌いだった。

 私と席の近い苗字が嫌いだった。休み時間のたびに振り返ってつまらない話題を振ってくるときの引きつった唇が嫌いだった。前の席でうたた寝をするたびに髪が揺れて見え隠れするうなじの産毛が嫌いだった。「一緒に帰ろう」という少し緊張したような声が嫌いだった。

 私のことなんか好きでもないのに、必死に友達になろうとしているあの子が大嫌いだった。

 誰だって友達が欲しいのは分かる。けれど私は、新学期に誰でもいいから友達になりたいとかいう理由で適当に友情を向けられることが、大変に気に食わなかった。それでも上辺だけでも友達になったふりをしてあげれば、あの子は馬鹿みたいによろこんで尻尾を振った。

 したくないけど優しくしてあげた。笑いたくないのに笑ってあげた。いたくないけど一緒に帰ってあげた。

 そんな友達ごっこの時間を費やして四月五月六月と時間は跳ねるように過ぎていく。

 くだらない話をたくさんして、寄り道にアイスを食べたりもした。「楽しいね」と微笑まれて私は「うん」と返した。その時間の空虚さといったら。空に浮かぶ雲の数を数えた方がまだ有意義かもしれない。

あの子と話している時間も。あの子と過ごしている時間もすべて無為だ。十分の昼休みに必死に会話をするのも、普通に変えるよりもだらだらと時間をかけてしまう下校時間も、一体何の意味があるのだろう。突き放さなかった私も私だ。いつの間にほだされて、馬鹿みたいだ。

 私の気持ちも知らずに、あの子は毎日笑っていた。何が楽しいのかも分からなかったけど、私はあの子の真似をして笑ってやった。構ってさえあげれば、あの子は世界で一番安心しているように笑って、私はそれが滑稽で仕方なかった。


 相本樹里に話しかけられたのは七月の体育の授業の時だった。

 バレーのチーム分けであの子とは離れていて、私は自分のチームであの子のへたくそなサーブを観戦していた。

「あんたって、なんであの子と一緒にいんの?」

 意味もなくジャージを七分丈に折り直しながら相本樹里は話しかけてきた。

「え?」

「いや、あんた頭いいしお嬢様~って感じじゃん。なのになんであんな野暮ったいのといるのかなーって思ってさ」

 意地の悪そうな狐目が私を見る。口元はにやにやと厭らしく歪んで私をからかっていた。

 よくいる女だ。くだらないカーストの上位に居座って勝ち組を気取るはりぼての女王様。明け透けで見ている方が恥ずかしくなる。どうしたってこういう女は陰湿な行為を好むのだろう。

「……別に理由なんてないよ」

 関わり合いになりたくなくて、私は適当にあしらった。

「理由もないのに一緒にいんの?それってつまらなくない?」

 天然パーマと呼ぶには人工的すぎる髪をいじりながら相本樹里が首を傾げる。本当に厭らしい女。

「つまらないよ。でもそれでいいの」

「ふぅん」

 相本樹里は興味を無くしたように視線をはずす。試合ではあの子がボールを顔面で受けていた。


 夏休みに入ってあの子と会わなくて済むようになった。

 親に買い与えられたスマートフォンに行きたくもない遊びの連絡が来るのではないかと憂鬱だったが。まるで死んでしまったかのようにあの子からの連絡はなかった。

 好都合と思って私は勉強や趣味の読書に勤しむ。誰にも邪魔されない時間がこんなに幸福だとは。

 一週目が過ぎて二週目が過ぎて。盆を過ぎたころにはあまりの連絡のなさに段々とイライラしてきた。

 癪に障ったけれど、私は仕方なくあの子へと連絡してあげた。

『今度の花火大会、一緒にいかない?』

 いつもなら飛びつくよう返事が返ってくるはずだ。私はスマートフォンを置いて読みかけの本に集中した。しかし三十分経っても、三時間たってもあの子からの連絡はない。朝に連絡して夜になっても返事は来なかった。もどかしくて何度もスマートフォンの画面を開いてしまう自分に気が付いて頭の裏でじりっと何かが灼けるような気がする。

 翌日の昼過ぎ、ようやくあの子から連絡が帰ってきた。連絡の通知を告げる音に反射的にスマートフォンを手に取ってしまって、なんだか自分が恥ずかしくなる。心が少し浮ついた気もしたが、きっと気のせいだろう。

画面のロックを解除して、あの子の返事を読む。そこに書かれていた文字を読んで私は頭の奥がさあっと冷えていくのを感じた。

『誘ってくれてありがと!でもごめん、その日別の子と一緒に行く約束しちゃった』

泣いている絵文字までつけて、あの子はそう返してきた。胸の中で膨らんでいたものが、しおしおと萎んでいく。

そう。花火大会へは別の子と行くの。

世界の色がなんだか褪せていくようだった。うまく動かない指で『気にしないで』とだけ打って私はスマートフォンをベッドの上に放り投げて自分の身も放り投げた。

エアコンが機械の中で水滴を落とす音が部屋に響く。ひどく空虚な気持ちだ。

別に花火大会になんて行きたくなかった。人混みは嫌いだし大きな音も嫌いだ。ならばどうしたって私は嫌いな場所へ嫌いなあの子を誘おうとしたのだろう。

自分で自分が全くわからなくなりそうだ。あの子のことなんて、好きじゃないはずなのに。

花火大会の日をどう過ごしたのかは思い出せない。惰性で布団の上に寝っ転がって頭に読みかけた本の同じページを何度も行ったり来たりしていた気がする。

何を期待していたのか、スマートフォンの通知音にずっと耳を傾けたりもしたけれど、その日通知音が鳴ることはなかった。


不可解な感情を抱えたまま学校へ行くのがなんだか重苦しかった。

けれど九月一日が始まれば、元の日常へ戻るに違いない。

そう思いながら開けた教室のドアの向こう側には思いもよらない光景が広がっていた。

相本樹里の席であの子が楽しそうに話していた。少し焼けたあの子の肌は相本樹里と同じ色をしていて、私は私の領域を何者かに踏み荒らされたような心持ちになってしまった。

私が席に座ってもあの子はこちらを見ようともしない。私はなんでもないようなふりをして、持ってきた小説を開いた。思えば、一年生の初日以来、この本を開いていなかった気がする。

チャイムがなって、散っていた生徒たちが席に戻って乱棒に椅子を引く不協和音が響く。あの子はちらりと一度だけ私の方を見て、それからもう二度と振り返らなかった。

休み時間になれば振り返っていたあの笑顔は今相本樹里やその取り巻きに向けられている。お昼の時間に誘われることも一緒に帰ろうと言われることもない。まるであの日々が嘘だったかのように、あの子は私の存在を無視した。

つまらない会話をするための話題も、うたた寝をする度に椅子を蹴って起こしていた無意味な行動も要らなくなってしまった。

私は一人だった。それはずっと望んでいたことのはずなのに、どうしてこんなにも悲しいいのだろう。

私を無視するのはあの子だけじゃなかった。周りの席にいた子や、同じ掃除の班の子まで段々と私を無視し始めた。

すぐに察しはついた。私が無視される時は必ず教室の反対側で相本樹里があの厭らしい笑顔を浮かべていたから。

どうにも私は女王様に嫌われたらしい。


 だけど、それがどうしたというの。だから何だというの。一人は望んでいた。ならば私はこの孤独を謳歌すればいいじゃないか。

 私はすぐさまに何でもないような顔をして毎日を過ごし始めた。弱気になった顔を見せるつもりなど毛頭なかったが、思えばこれが相本樹里には愚かな抵抗に見えたらしい。

 無視だけでは飽き足らなくなった女王様は、ある日手下に命じて私を攻撃した。

 確か九月の終わりだったと思う。秋の気配を感じる中で、わが校は義務と言わんばかりにプールの授業を続けていた。相本樹里は一か月続く生理を理由にプールサイドでサボっている。見学をしている一群の中にはあの子もいた。

 授業が終わってプールサイドへあがると、相本樹里はジャージの裾に隠したスマートフォンを見てにやついていた。ふとあげられた視線と私の視線がかち合う。相本は何を思ったのか、厭らしい笑みを私へ向けた。不快に思いながら私はさっさとタオルを被った。

 更衣室で着替えようとして、私は異変に気が付いた。制服がない。それだけじゃない。下着までもが消えていた。脳裏を相本のにやついた顔がよぎる。私は絶望しながら、体育の先生のところへよろよろと近づいた。

「先生……私の制服がありません」

 その後は、大騒ぎになった。盗まれた制服の行方を追って、監視カメラを徹底的に調べて学校の周辺を男の先生たちが見回ったが、怪しい人物は見つからなかったという。

どういうわけか、置きっぱなしにしていたジャージさえ盗まれていて、私は水着とタオルと上履き以外のすべてを失ってしまっていた。ひとまず親の迎えが来るまで保健室での待機を命じられ、私は学校のジャージと、保健室にあった下着を着させられた。ブラジャーだけは代わりのものが無くて、何にも守られていない胸元が酷く心許なくて仕方なかった。気分が悪くなって、カーテンで仕切られたベッドの上で横になっているとしばらくして誰かがやってきた。

「せんせー、ゆたんぽちょーだい」

 あの女の声だ今一番聞きたいくない声に、私は布団を頭まで被った。

「あんたまたお腹痛いの?」

「私じゃなくてこの子だよ。生理痛酷いんだって」

「あら、本当に顔色よくないわねえ。ちょっと休んでいく?」

「いえ……大丈夫です」

 あの子の声がした。私は被っていた布団を少し捲って、カーテンの隙間から外の様子を伺う。青白い顔をしたあの子が、相本と一緒にいるのが見えた。

「本当に?無理しなくていいわよ。今日はあんな事件もあったから精神的に不安定だろうし」

「本当に、ちょっと樹里が大げさなだけです」

「大げさじゃないよー。制服盗まれたって聞いてからずっと調子悪そうだし」

「それは……」

「あんたたちも気をつけなさいよ。また最近不審者が多いんだから」

「大丈夫だよ。てかさ、制服盗まれた子、ジャージもなかったんでしょ?まじ帰りどうすんだろうね。裸で帰るしかなくない?」

「こら!品のないことを言わない!」

 嘲笑するような相本の言葉を、保険医が窘める。私はその言葉で、もしやと思っていたことが確信に変わったような気がした。

 私の制服を盗んだのは相本樹里だ。プールの授業を休んでいたんだから、先生の目を盗んで更衣室へ行くことくらい、容易なはずだ。本人でなくとも、誰かに盗ませたに違いない。ぎゅうっと布団を握る手に力がこもる。悔しくて悔しくて涙が出そうだった。

「ほら、休み時間終わるわよ。早く戻りなさい」

「はーい」

 相本たちが外へ出ていく気配がした。ふと目線をあげると、あの子と目があった。貧血というには白すぎる顔は、私を見るなり怯えたように目を逸らす。

 その途端に嫌な直感が私の中に渦巻いた。

 もしかして、もしかしてもしかしてもしかして。私の制服を盗んだ実行犯は、あの子なのか?夏休みが明けて以来、あの子はやけに相本に対して献身的だった。思えば今日のプールの授業でだって、あの子は相本と一緒に休んでいた。あの子にだって、私の制服は盗めたはずだ。

 体の温度が急速に下がって指先の感覚が薄れていく気がした。気持ち悪くて、最悪の気分だ。

 あの子が私から離れたことは知っていた。それでも、こんな仕打ちをされるほどのことを、私はあの子にしただろうか?


 後日、私の制服は学校の外の河に捨てられているのが見つかった。気持ちが悪くて、私は親に新しい制服を買ってくれるように頼んだ。

 制服を取り戻したものの、私の学校生活が元に戻ることはなかった。孤独に加えて『制服を盗まれた哀れな生徒』という好奇の視線が絡み付くようになった。

 先生に相本が私の制服を盗んだというべきだろうか。しかし一体どこに証拠が残っているのだ。何よりも厄介事を嫌がる人たちだ。訴えたところで、聞き入れてもらえるとは思えなかった。

同級生の憐憫と嘲笑の目に耐えられなくて、休み時間になる度私は一人になれる場所を探した。屋上へ続く階段の踊り場や、図書室の隅なんかを試した末、私は教会の懺悔室を見つけた。

懺悔室は、信者が神父に罪を告白して許しを得るための部屋だ。罪を告白しやすいように信者と神父の間には仕切りがあって、お互いの顔が分からないような作りになっている。

ミッション校であるものの、生徒全員が献身的な信者であるわけではない。もはや教会はお飾りだけで、常駐するシスターはたまにお説教をするだけのお婆ちゃんだ。そんな教会に足を運ぶ生徒がいるわけもなく。シスターもほとんど奥の控室でテレビを見ているだけだ。

 だだっ広い聖堂の中で懺悔室はいい隠れ家になった。なにより人が来ないのがいい。

 大人はどうだか知らないが、華の女子高校生に懺悔することなどありはしないのだから。

 しばらくは、そこが私の安住の地となった。ここでなら誰の視線もなく、ゆっくりと読書に打ち込めた。

 一か月、二か月と、私はどうにか平穏な日々を過ごした。

 十二月のある日のことだった。私がいつものように懺悔室で本を読んでいると、コンコンと懺悔室の向こう側のドアが叩かれた。突然のことに驚いて、固まっていると「入ります」という声と共に誰かが入ってくる気配がした。

 いいや、誰か。なんかじゃない。この声を私は聞き間違えない。あの子が、懺悔室に入ってきた!でも、どうしてこんな場所へ?

 向こう側であの子が跪く気配がする。

「シスター、ゆるしてください。ゆるしてください。私は罪を犯しました。ゆるされない罪を犯しました」

 その言葉を聞いて、私ははたと気が付いた。懺悔室に来る理由なんて、私をのぞいたら一つしかない。この子は、罪を懺悔しに来ている。そしてどんな偶然だか、私が知らずに使っていた席は罪を聞く神父の席だったのだ。

 このままこの子の懺悔を聞いてはバツが悪い。早くここから出ていかなければと思う反面、興味が湧いた。私を裏切って平気な顔で相本の隣でへらへらと笑うこの子に、一体どんな罪の意識がるのだろう。

 好奇と善意を天秤にかけると、あっさりと好奇の方へと傾いた。私は居住まいをただし、彼女の懺悔に耳を傾けることにした。

「悔いています。やらなければよかったと、今もなお思っています。お願いです。どうか教えてください。どうしたら私の罪はゆるされますか?」

「………………すべてを、ここで話しなさい。すべて告白すれば神はお許しになるでしょう」

 できるだけお婆ちゃんのシスターらしい声になるよう誤魔化しながら、私は続きを促した。

「シスター、シスター……!私、友達を裏切ってしまったんです。大好きだったはずの友達を、別の友達と仲良くなるために裏切りました。無視をして、いじめてしまいました。本意ではなかったんです!でも……別の友達がそれをしないと小突いて、私を無視しはじめようとするんです。……私は、それが怖くてその子に従ってしまいました………。いけないことだと思います。でも、その子にいじめられることが怖くて、私はやめることができません。本当は友達と仲良くしたいのに、それができないんです。シスター、私は悪い子でしょうか?どうやったら私は許されますか?」

 耳に入っている言葉が、信じられなかった。涙声に震えるあの子の声を聞いているだけで耳殻が熱く火照って脳髄にまで伝播していく。今この子は、なんて言ったの?

 私を裏切ってしまったことを悔いて、許されたいと思っているの?

 目の前で起きていることなのに、何もかもが信じがたかった。まるで夢でも見ているようだ。何をいまさらと、冷めた私が思う。だけどそれよりも、あの子がまだ私を想ってくれていることへの歓喜が上回ってしまう。

 この子は裏切ってなんかいなかった。ずっとずっと、私を想って苦しんでいる!

 途端に相本の手中にあるこの子が哀れで仕方なくなった。制服を盗んだ時だけじゃない。この子はずっと、相本のやつに苦しめられて、こうして罪の意識をため込んでしまうほどに悩んでいた。

 嗚呼、嗚呼!なんて愛しいの!なんていじらしいの!

 私の中に、この子を助けてあげたいという感情が生まれる。この子に慈悲を与えたい。すべてを許して救済してあげたい。

 けれど、今はだめだ。今この子は「私」にでなく、「シスター」に懺悔しているのだから。

 平静を取り繕い、私は必死にシスターを演じる。

「あなたのしたことは、とても罪深いことです。ですが、そのお友達を今も大切に思っているなら、その子はきっとあなたを許してくれるでしょう。そして時間がかかっても、その子とまたお話できる日を待つのです」

 そうだ。今から例え時間がかかっても構わない。私は貴女を、相本から救って見せる。

 あの子は吐き出せただけでも、落ち着いたのか小さく「はい」と答えた。

「今は共に神に祈りましょう。目を閉じて、祈りの言葉を述べなさい」

 私たちは一緒に目を閉じて祈りの言葉をそっと口にした。その時間はこの数か月の中で、なによりも尊いものに思えた。



 あの子を相本から奪還すると決めたものの、私には対抗手段はなかった。今や相本はスクールカーストの頂点に座して自由気ままに生きている。私は陰に潜むようにして無視以上のいじめを受けないように、慎重に相本の目を逃れながら日々考えていた。私と同じように、相本にいびられている生徒は他にもいる。彼女たちと手を組んで仕返しをすることはできないか?いいや、だめだ。徒党を組むには、私は愛想がなさすぎる。ならばどうしたものかと頭を悩ませながら歴史の授業に耳を傾けていると、森川先生が授業の寄り道を始めた。

「みんなは戦時中にいろんな実験施設があったのを知っているかな?」

 それはおよそ授業には関係のない、先生の趣味の話だった。森川先生の授業は分かりやすかったが戦争史に情熱を燃やしすぎるため、たまにこうして無駄話が始まってしまう。こうなると他の生徒は耳を傾ける振りをして居眠りをしたり、机の下でスマートフォンをいじり始めるのが常だった。私も話半分に聞きながら、相本への逆襲計画でも立てようかと思案する。

「この学校の近くのT山にも昔、実験施設というのがあったそうだ。山の中に隠れるようにして存在したその施設には巨大な地下実験場があったそうで、今も残っているらしい」

 巡らせていた思考がぴたりと止まり、耳の全神経が森川先生の声へと注がれる。今日の話はなんだか面白そうだった。

「その施設は主に敵に精神攻撃を行うための実験を行っていたそうでね。様々な幻覚を見せる薬品を試したり、鏡の部屋に人を閉じ込めておくとどうなるのかって実験をしていたらしい。あまりに過酷な実験だったもんで、発狂する被検体が後を絶たなくてな。戦後はほとんど隠されるようにして閉鎖したそうだ。」

 T山……学校からなら、一時間とかからない場所だ。人知れず放置された廃墟。もしもその廃墟に相本を閉じ込めることができたら、どんなにいいだろう。誰にも助けられない場所で、かつての被検体たちと同じように鏡の部屋で狂人になり果てる相本を夢想して、私はなんだか胸のすくような気持ちがした。

 家に帰ってからもその夢想に憑りつかれて、私はT山にある実験施設についてネットで調べた。地域で絞れたせいか、すぐに何件かのブログがヒットする。廃墟マニアたちにとってそこは憧れの地であるらしく、場所の情報を求める声が多く上がっていた。そんな中で数年前のあるブログが写真を載せいていた。

『ケルたんの廃墟探索』

『T山からJ山に向かう途中の516号線から獣道に入ったとこで見つけました。掠れてるけど看板に(第八×××験場)って書いてある。ちょっと怖いところですね(笑)』

 これだ。名前のいくつかは伏せられているものの、大体の場所は把握できた。なんだか気分が逸ってきて、次の休みに私は自転車を持ち出してT山へと赴いた。

 一月の冷たい風が頬を刺すのも構わず、私は自転車を漕いだ。冬とはいえ、低地にあるここらへんの山に雪がつもることはあまりない。入山規制もされていないから、上るのは簡単だ。うねる山道を進みながらだんだんとコートの下に汗をかくのを感じる。休み休みで上り続けて、気が付けば四時間も経っていた。スマートフォンの地図を確認しながら516号線を進む。寂しい道のためか、ほとんど車通りがない。

 ブログによれば、どこかに獣道があるはずだ…………。目を凝らしながら進んで、それは見つかった。人や獣が踏み入って固まったような道だ。ここから先は自転車では進めなさそうだ。

 冬枯れの植物たちをかき分けて、道なりに進んでいく。山の中だから不安だったが、杉並木に従って歩けばそこに道があることに気が付いた。車一台なら、通ることができそうな道だ。

三十分くらいかけて登っただろうか。坂が突然平坦になると、目の前に開けた場所が現れて一軒の建物が現れた。学校の校舎ほどもない、苔むしたコンクリートでできた平屋建てがそこにあった。

入り口には掠れた文字で「第八×××験場」と書かれており、錆びた門扉がおどろおどろしく見える。雰囲気にのまれて思わず足がすくむが、どうにか勇気を振り絞って建物の中へと入る。入り口の鍵は開いていた。

建物中にはわずか六部屋しかなかった。ほとんどの部屋はもぬけの殻で、期待していたほどのものもない。がっかりしながら最後の部屋を探索すると、そこで私は妙なものを見つけた。錠前の付いた金属製の箱だ。錠前は簡単なつくりで、ヘアピンで簡単に開いてしまう。恐る恐る箱を開けてみると、その中には見取り図らしきものと鍵束が出てきた。鍵束にはざっと見て三十本の鍵が付いており、どう見ても六部屋しかないこの建物にはそぐわなかった。もう片方の見取り図を確認すると、そこには信じがたいことが書かれていた。

この施設には地下がある。


 地下室への扉を見つけて、そっと潜り込む。スマートフォンの灯りを照らしながら進んでいくと最初に五角形の部屋へとたどり着く。見取り図の通りだと思いながら、ゆっくりと私は地下を探索した。期待したような実験部屋や薬剤はほとんど残っていなかったが、迷宮のように入り組んだこの地下施設に私の心は踊った。

 ここに相本を閉じ込めてしまおう。いいや、相本だけじゃない。あいつの取り巻きたちを閉じ込めて、罰を与えて、改心させてあげるんだ。

 まるで宝の地図を見つけたみたいだ。浮かれた心で私は恐るべき計画を夢想し始めた。



 とはいえ、夢想は夢想に留まるばかりで、私の計画は結局春になっても実行に移されなかった。その間に色々な本を読んだ。人体実験の本を中心に私の夢想は練り上げられていく。

 ある本によれば、人間は見たものや聞いたものによって錯覚を起こすそうだ。ある目隠しをされた被験者が「今から熱した鉄を当てる」と言われて信じてしまったところ、冷たい鉄を当てたにも関わらず、火傷を負ったそうだ。

 加えて最近公開された悪魔もののホラー映画を見たことが、私の夢想に影響を与えていた。精神的な実験には、ストーリー性が重要だ。例えば被検体に「今自分は悪魔に追われている」と思い込ませることができれば、恐怖は加速していくはずだ。

 私の立てたシナリオはこうだ。まずは相本たちに睡眠薬を飲ませてから地下施設に閉じ込める。そこへ一頭のヤギを放って、悪魔の役をさせるのだ。スピーカーを喉元に着ければ、ヤギがしゃべっているように見せかけられるだろう。悪魔は私がやっても良かったが、あの子にやらせてもいいと思う。誰よりも相本に苦しめられているあの子だ。きっとあの子だって、相本を罰したいに違いない。

 だが相本たちを閉じ込めるにはどうしたらいい?彼女たちを全員自転車に乗せて四時間かけて山を登るわけにはいかない。車で連れ去るのが現実的だが、免許なんてものは持っていなかった。それでももし車で連れていくことができるなら……。きっと実現できるだろう。

 私は溢れる妄想を頭にとどめておくことができなくなって、最近では適当なノートに書き連ねていた。学校では書けないから、家の中でしか開かないノートだった。そのノートを開く場所も限られている。自分の部屋と、それから寝たきりになっているお婆ちゃんの部屋でだけだ。

 お婆ちゃんは起きているときははっきり喋るものの、ほとんどの時間を寝て過ごしていた。お婆ちゃんが起きた時にだれかいてあげられるよう、共働きの両親に変わって私がいつもそばにいた。お婆ちゃんの体を起こしてお風呂に入れてあげることはできなかったから、そこらへんはデイサービスの人に任せていたけど。

 その日は休みだったけど、両親は仕事で出ていた。私は眠っているお婆ちゃんの側でノートに夢想を書き連ねていた。計画はどんどん綿密になり、ヤギ役にはVRカメラを被せるなどディテールの追求にまで至っている。

 ピンポーンと、玄関の呼び鈴が鳴る。デイサービスふらわーの人だ。普通デイサービスっていうと、こっちから赴いて老人ホームに一日お世話になるものだけど、うちが頼んでいる会社は訪問介護も行ってくれていた。

「はーい」

 声をあげて私は玄関へ走る。

「今日もよろしくお願いしま………」

 ドアを開けて、思わず言葉を失う。いつものデイサービスの人は長い黒髪の女の人だ。しかし今目の前に立っているのは、マゼンダ色の奇抜な髪をした男だった。

「あー、ども。デイサービスふらわーの司波でーす」

 畏まらないような態度で笑いながら男が言う。名乗っている社名は確かにうちでいつもお願いしているデイサービスの名前だった。

「えっと………堀田さんはどうしたんですか?」

 恐る恐るいつもの担当者はどうしたのかと訊ねる。私は人見知りではないが、目の前にいる男にはなんだか威圧感を感じてしまっている。

「堀田ちゃんねー、今日息子君が熱出して来れなくなっちゃったんだって。んで、俺が代打できました」

 へらりと笑いながら男が言う。私が子供だから砕けた口調なのかもしれないが、あまりに失礼でなんだか腹が立った。

「あ、もしかして俺疑われてる?大丈夫ちゃんと会社の証書とかあるし、こう見えて堀田ちゃんよりベテランだし。だからとりま中に入れてくれない?

私は少し躊躇ったが、着ている制服が堀田さんのものと同じだったので渋々中へと招き入れた。

 お婆ちゃんのいる部屋まで案内すると、タイミングよくお婆ちゃんは起きていた。

「こんにちは~。お婆ちゃん今日は俺がお世話させてもらうからね~」

「あんただあれ?」

「俺はヒカル。お婆ちゃんは?」

 少しだけ様子を見ていたが、お婆ちゃんが嫌がる様子もなかったので「あとはよろしく」と言って私は自分の部屋へと戻った。ずっと見張っている義理もないし、なによりあのピンク頭とあまりいっしょにいたくなかった。

 部屋に戻って手つかずだった宿題を開く。しばらくすると下からシャワーの音が聞こえてくる。介護が順調に行われているようで、少しホッとする。

 小一時間ほど時間をかけて数学の問題を解き終わるとやることがなくなってしまった。また夢想のつづきでもしようかと考えながらノートを手に取ろうとして、それが手元にないことに気が付く。

 しまった。お婆ちゃんのところだ。

 まだあの男はいるだろうが、仕方ない。家族に見られでもしたら問題だ。

 私はいやいやながらも自分の部屋を出てお婆ちゃんの部屋へと向かった。

 部屋を覗き込むとお風呂を終えたお婆ちゃんがベッドの上ですやすやと眠っている。その側であの男が手にしているものを見て、私は寒気が走った。

 男は、私のノートを読んでいる。

「ちょっと勝手に見ないで!」

 大声をあげながら部屋に入ってきた私を見て男はびくりと肩を震わせ、次にしーっと人差し指を唇に当てた。はっとして、私はお婆ちゃんの方を振り返る。幸いなことにお婆ちゃんは深く寝入っているようで、穏やかな寝息を立て続けていた。

「……ごめんね。これ、君の?」

 そういいながら男は私のノートを差し出した。私はそれをひったくるように奪って男を睨みつけた。

「中身、見たの?」

「あー、その。ごめん。お婆ちゃんの近くにあったから堀田ちゃんの報告用のノートかと思って…………」

 罰が悪そうに頬をかきながら男はぺこりと頭を下げる。あまりにしょんぼりした様子に、こちらの怒る気が失せてしまった。

 私の夢想を書き連ねた計画書を読んで、この男は何を思っただろう。危ない女だとでも思うだろうか。変な親切心で、両親になにか言ったりしないだろうか?

「それ、小説か何かの設定?」

「え?」

「読んだ感じ、ミステリっぽかったからさ。君、小説とか書くの?」

 思わぬ問いに、なんと返答したらいいかわからずに曖昧に頷く。

「へえ、すごいね!ネットとかあげたりしないん?」

「えっと……あなたは、ここに書いてあることが本当の犯罪計画だと思ったりしない?」

 我ながら素っ頓狂な問いかけをしてしまったと、顔が一気に熱くなる。何を分けの分からないことを聞いてしまったんだ。

 男はきょとんとした顔をした後に何かを勘違いして納得したように「ああ」と言う。

「確かにリアリティはあるけど、誰もこれを本当の犯罪計画なんて思わないよ」

「ど、どうして?」

 だってさ、と男は笑う。

「誰も、君みたいな子がこんなことをするなんて思わないよ」

 なんてことなくそう言うと、男はそろそろ時間だからと帰ってしまった。

 取り戻したノートを抱えながら、私は自分のベッドの上に横たわる。男の最後の言葉がなんだかひどく耳に残っていた。

 誰も、私がこんなことをするとは思わない。

 そうか。そうなのか。

 誰も私がやると思わないなら、私がやっても知られないのではないか?

 ただのその一言で、私の夢想を夢想に圧しとどめていた見えない殻が割れた音がした。


 夢想から現実へ実行するため、私はまずため込んでいたお年玉貯金を崩して準備を始めた。悪魔役のヤギにリンクさせるカメラやマイク、スピーカー。それらを映し出すVRゴーグルからヘッドホンに至るまで、全部がネット通販で取りそろえられてしまった。『それらしさ』を演出するために、あの地下施設に適当な魔方陣も書いた。なんだか本当に何かを召喚できそうな気がする。

 ヤギに困ることもない。T山の近くには、ヤギによる農地除草を行っている場所が何個かあった。その中から一番警備の薄い場所を選んで、黒いヤギも盗むことができる。

 睡眠薬は不眠症の母のものから、少しずつくすねた。

 一番問題と思われた車は、一番簡単に手に入ってしまった。体育教師の田中先生がとてもずぼらな人で、いつも車の鍵を体育教員室に置きっぱなしにしているので有名なのだ。

 少しずつ確実な準備を進めて、七月。私は全部を実行に移した。

 直前の休みに機材を全部地下施設へ運び込んで、盗んできたヤギもそこへ押し込んだ。ここまでは簡単だ。

 本番実行日の金曜日。

 六時間目の体育の水泳授業の前に腹痛を理由に抜け出してまず、教室へ戻る。そこで相本と、取り巻きの二人と、それから少し心苦しかったけど、あの子の水筒に溶かした睡眠薬を入れ込んだ。夏の体育の授業は酷くのどが渇くから、みんなこれを飲むはずだ。

 人の目を盗みながら次は体育教員室へ移動して、田中先生の車のカギを盗む。警備なんて無いに等しいから、これも楽だった。

 ホームルームが終わり、相本たちがいつものように談笑を始めるのを横目に、私は小説を読むふりをして観察していた。相変わらず相本達は私をいないように扱うが、今はそれがちょうどよかった。

 しばらくすると、相本たちの言葉が「眠い」「なんかだるい」というものに変わってくる。

 そろそろだ。

 誰が最初に眠ったかなんてわからないほど、四人は一斉に意識を手放して眠りについた。念のため十分ほど様子を観察するが、目覚める様子もなく眠り続ける。

 そろそろ運び出すか、と席を立とうしたその時。教室のドアががらりと開いた。

「ん?まだいたんかお前たち………って、全員寝てるじゃないか」

 見回りにきた教師が呆れたように四人を見る。教師が四人を起こそうと近づくのを見て、私は慌てて声をかける。

「あー、みんなプールの授業で疲れたみたいです。もう少ししたら私が起こしますよ」

「ん?そうか。まあまだ下校時間ってわけでもないからな。吾田が帰るときにまだ寝てたらたたき起こしてやれ」

 そういうと教師は教室を出ていった。遠ざかる足音を聞きながら、私はほっと息をついた。

 慎重に事を運ばなければ。

 廊下に誰もいないのを確認して、四人を運び出す。同年代の少女四人を一人一人担ぐのは骨が折れだが、幸いなことに教室から教員用の駐車場まではそんなに距離がなかった。睡眠薬がよく効いていてぐっすりと眠っているのも救いだ。

 四人を田中先生のワゴン車に乗せ、一息ついて時計を確認する。この時間帯だとほとんどの教員は職員室や部活に出ているはず。この半端な時間に帰る生徒もほとんどいないだろうから、行くならば今がチャンスだ。

 運転席に乗り込み、深呼吸を整える。念のため制服を隠せるように黒いジャンパーを着て頭にはキャップを被った。

この数か月間、イメージトレーニングはしたが実際に運転するのは今日が初めてだ。逸る心臓を抑え、てブレーキを踏む。車のキーを回してエンジンをかけると車内に駆動音が鳴り響いた。

音に呼応して心臓が高鳴る。次にはえっと何をするんだっけ。ああそうだ。ギアをDに変えてハンドブレーキを解除。ブレーキペダルを踏む足を少しずつ離しながら、今度はアクセルをゆっくり踏み込んでいく。

 想像以上に重いハンドルに手を持っていかれないように必死にしがみつきながら、私はアクセルを踏んでゆっくりと発進させる。カメのような遅さで右へ左へとハンドルを回して進み方をチェックする。動かし方は、なんとかなりそうだ。

 冷や汗をぬぐって私はフロントガラスの向こう側を睨みつける。

 校門を出て右に曲がる。その先を左に曲がれば、もう山道に入る。そこから516号線へは右の角を曲がれば出れるからそこから先はもう道なりに行けばいい。

 よし。意を決して私はアクセルを一段強く踏み込んだ。滑らかに車が前へ出て、まっすぐに校門を飛び出していく。ハンドルを右に気って右へ曲がる。少し行った先を左へ行くと登坂が現れた。アクセルを強くふかしながらギアをセカンドレンジに入れる。坂を上りきると右の方に大きな道が見えた。516号線だ。ブレーキを踏みつつ合流地点を見るが、516号線を走る車の気配はない。念のため速度を落としつつ516号線に入ると、なんだか急になにもかもから自由になれた気がした。ブレーキを外して、アクセルを強く踏み込む。田中先生のワゴン車はこの世のなによりも暗闇の中を走っている気がする。暗闇?ああ、だめだ!ライトをつけないと!

 慌ててヘッドライトをいじり、車の前方を明るく照らす。

 なんだか急に私はおかしくなって笑いが抑えきれなくなってしまった。

「ふふ………………あは!あははははは!」

 誰も君みたいな子がこんなことをするなんて思わないって?

 でも現に私はやってのけてしまった!!ずっと夢想してきた復讐を実現させようとしている!世界の誰にも気づかれないまま、私は完全犯罪を成しえるんだ!

 きっとハイになっていた。だけど、だからなんだ。今くらいはそれくらい、いいじゃないか。誰もいない516号線を私はわが物顔でかっ飛ばした。

 今や勝手知ったるあの実験施設へは、自転車でいくよりもずっと楽にたどり着いた。一時間もかからないことに驚きだ。獣道を車で進めたのがなによりも大きいだろう。車を停めて、四人をまた地下の中へと運び込むと、私は田中の車を学校の近くまで運転してそのまま放置した。心の中で田中先生に謝りながら、私はハンドルについた指紋や落ちた髪の毛を拾っておいたから、多分これでばれることはないはず。それから学校近くに隠しておいた自転車に飛び乗ると、私はあの施設めがけて走り出した。学校からだと施設までは二時間ほどかかるが、あそこに車を置いておくよりはずっといい。

 実験施設に戻ったころには日付が変わりそうになっていた。地下施設へ入り込み、地上への出口を閉じる。

 あとはVRなんかの機材を置いた部屋へ行ってヤギを喋らせるだけ。それだけのはずだったが、誤算が起きた。

 私があの子や相本たちのいるところにたどり着いたタイミングで、相本たちが起き始めたのだ。睡眠薬がこんなに早く切れるとは思わなくて、私は焦る。どうすればいい?自分も被害者のふりをしておくか。ああでも鍵は私が持っている。私が持っていると知られてはいけない!

 どうするべきかと必死に思考を巡らせていると、どこからかカツ、カツと蹄の鳴り響く音が聞こえた。

 前方を見ると、そこには私が連れ込んだあのヤギがいた。

 最悪だ。始める前から、何もかもがここに揃ってしまっている。

「は?なんで山羊?てかめっちゃ獣臭いんだけど」

「起きたら山羊小屋の中とか……まじ笑う」

 取り巻きたちが退屈そうな声でヤギに冷めた目を向ける。それはそうだ。起きていきなりヤギがいるだけなんて、ドッキリにもならない。私は羞恥で顔が真っ赤になりそうだった。

ぱしゃり、という撮影音とともにフラッシュの光が焚かれた。

誰かがヤギの写真を撮ったのだ。

その光に驚いたのか、ヤギは甲高い鳴き声を上げながら前足を振り上げた。

「エエエエェェェェェェェェェエェエェエエエエエエ!!」

想像を絶する大きな鳴き声が轟いて、私は思わず耳をふさいだ。カツカツと高らかに蹄がコンクリートにたたきつけられて、ヤギがこちらへと走ってきた。

 ヤギが怒ったのだ。

「ちょ、嘘でしょ?こっち来ないで!」

「やだ怖い怖い怖い!」

悲鳴を上げながら相本たちが逃げ出す。

「待って!置いていかないで!」

 足がうまく動かなかったのか、あの子が悲鳴をあげながら遅れぎみに相本たちを追おうとする。彼女を見ていたせいか、目が合ってしまう。あの子は一瞬何かを迷うような表情を見せたが、しっかと私の手を掴んで叫んだ。

「逃げよう吾田さん!」

 あの子に助け起こされ、私はされるがままに共に走り出す。

 信じられなかった。あの子が私の手を握っている。逃げ出すのに、私を見捨てなかった。

 今度は、嬉しさで頬が火照りそうだった。私は手を離されないように、あの子の手を強く握り返した。

 走って走って、後ろからヤギが付いてきていないことを確認すると、ようやくあの子は手を放してくれた。

 ぜえぜえと息を吐いて、あの子は必死に息を落ち着けようとする。窓から漏れる光があの子の顔を照らした。こうしてちゃんと顔を見合わせるのは随分と久しぶりな気がした。ついでに言えば、私の鼓動が止まらないのは、走ったせいだけではない気がする。

「吾田さん、大丈夫?」

「うん……ごめんね、体力なくて……」

「気にしないでいいよ。今それどころじゃないし」

 会話が途切れて、少しの沈黙が流れる。ふと、私は思い切ってある提案をした。

「ねえ」

「なあに?」

 あの子が振り返る。なんだか少し緊張したような顔で、少しそれがおかしかった。

「こんな時に言うのもなんだけどさ、莉緒ちゃんって呼んで良い?」

「へ?」

 虚を突かれたようなあの子の顔に、しまったと少し思う。ちょっとだけ、浮かれ過ぎていた。もうあの子と友達に戻ったようなきでいたのだ。風船のように膨らんだ感情が一気にしぼんでいくような気がした。

「あ、ごめん。嫌だよね……」

「ううん!違うよ!」

 間髪入れずに訂正されて、私は顔上げる。あの子はわたわたと慌てたような顔で私のことを見返していた。

「ちょっとびっくりしただけっていうか……全然名前で呼んで良いし!むしろ私も、晶子ちゃんって呼びたいし……!」

 ああ、また信じがたいことが起きている。あの子が、また名前で呼んでくれた。

 嬉しくってはにかみそうになるのをなんとかこらえながら、私は平気なそぶりを演じた。

「よかった……。じゃあ今から名前呼びね」

「うん……」

 一瞬落ち込んだ気分はあっという間に明るくなった。今なら窓の隙間から見えるあの月にだって行けそうなくらいに浮かれている。

「……ここどこだろうね。莉緒ちゃんは分かる?」

「ううん。見たこともないとこだし全然わかんない。私たち、誘拐されたのかな」

「多分……だれか助けに来るかな」

「五人もいなくなったんだからきっと探してくれてるよ」

「そうだよね……」

とりとめない会話をしながら少し休んで、私たちはまだ歩き出した。

月明かりだけの実験施設はなんだかいつもより綺麗で、二人のための世界な気がしてくる。

「ここって何の廃墟なんだろうね」

歩いているうちにあの子が訊ねてきた。

「さあ……」

 実験施設だと、山川先生は言っていた。だけど私からすれば、ここは

「でもなんだか病院みたい」

「病院?」

「うん。だってほら、上のところに『13号室』って書いてあったりするし、さっきあったのって手術台や診察台みたいに見えない?」

「え、じゃあここ廃病院ってこと……?ちょっとやだあ……」

少し大げさなくらいに怖がるあの子が可愛くて、私は少し揶揄いたくなる。

「莉緒ちゃん、こういうのは怖いの?」

茶化すように尋ねると、あの子はむっとしたような表情で私を睨んだ。

「怖い、とかじゃないけどさ!不気味というか?いいイメージはないっていうか……」

「ふうん」

「晶子ちゃんも、本当は怖いんじゃないの?」

 仕返しのつもりだろうが、もはや私にとってこの場所は庭のようなものだ。しかし正直にそう返すのも不自然で、少し私は怖がるふりをしてやる。

「うーん。確かに怖いけど、一人じゃないし。莉緒ちゃんがいるからまだ平気かな。さすがに一人でこんなところにいたら泣いちゃうかもだけどさ」

 自然と足取りが軽くなっていて、気が付けばあの子よりも前に進んでいた。振り返ってあの子の顔を見ると、なぜだか泣きそうな顔をしていた。どうしたのだろうか。そんなにもここは、恐ろしいだろうか。

「ねえ、晶子ちゃん」

 あの子が震えた声を出す。

「どうしたの?」

 目と目が合う。あの子の子猫みたいな目が、何かにすがるように私のことを見つめている。

 しばらくの沈黙の後で、あの子から吐き出された言葉は思いもよらないものだった。

「…………許して」

 思わず、目を見開く。呼吸をすることさえ、一瞬忘れてしまった。

 嗚呼、なんてことだ。この子はまだ、あの十二月の懺悔室からまったく救われていないんだ!

 こんな苦しそうに私に許しを乞うほどに思い悩んで、ずっと抱え込んで。嗚呼、なんて愛しい子!

 あまりに嬉しくて、私が反応できないでいると、あの子は罰が悪そうに顔を背けてしまう。

 それさえなんだかいじらしくて私は胸がいっぱいになりそうだ。

 そんなことで、もう悩まなくてもいいのにといたずらにあの子の頬をつつく。

「へあ?」

 驚いて振り返ったあの子の柔らかい頬の感触が私の指に伝わる。なんだか赤ちゃんみたいで、自然と笑みがこぼれてしまう。

「まぬけづら」

「ちょ、なに!?なんで!?」

 慌てふためく姿がなおのこと可愛くて私は更に笑ってしまう。嗚呼、私。あなたがこんなに可愛いなんて知らなかった。

「なんのことかわかんないけど、いいよ」 

 だから何も知らないふりをして私は言う。

「え?」

「許してあげるって言ってんの」

 本当は許しなんてとっくのとうに与えているのだけど、貴女が望むならいくらでも与えよう。

 途端にあの子の顔が輝く。この世の苦難全てから解放されたような顔をしているあの子を見て、私はこのためにこの実験施設を見つけたのだと思えた。

「ありがとう」

 涙声で呟くあの子に言葉を返す代わりに、私はあの子の手を握る。それだけであの子に私の気持ちは伝わったのか、あの子は私の手を強く握り返してくれた。

 この手さえ握っていれば、この闇の中の世界も怖くない気がした。

 

 あの子とまた話せただけで、私は十分に幸せだった。だけど、私の復讐はまだ終わっていない。このまま相本たちを返せば、またすぐにあの日々に戻ることは明白だった。だから私はこの子を守るためにも、この計画を完遂しなければいけない。

念のためにと作っておいた睡眠薬入りのお菓子をあの子に与えてもう一度眠らせて、私は当初の目的を果たすために機材を置いた部屋へと赴いた。入ってすぐに鍵をかける。眠っているあの子をこの部屋に残されていた診察台の上に横たえてから、私は準備に取り掛かった。

VRのゴーグルとヘッドセットを装備して、私はヤギの居所を探る。VR越しに見える景色を確認しながら、大体の場所を割り出すと、ヤギはこの部屋から一番遠い廊下を歩いていた。牧場にいたヤギの中でも一番人懐っこい子を選んだから、人を見つけたらそちらの方へ進んでいくはずだ。

この作業は、思ったよりも長期戦になりそうだ。なにせヤギが人を見つけるまで待たなければならないのだから。

一時間ほど映像を睨みつけているうちに、ようやく相本たちを見つけた。はぐれたあの子を探しもせず、あいつらは廊下に座り込んでいた。

ヤギは相本を見つけるなり、相本に懐きに行った。

先ほどと打って変わって大人しいヤギを見て、相本は油断したようにヤギへと手を伸ばす。

『……ほら、やっぱただのヤギじゃん…………ほんとビビらせないでよ……』

 どうやらヤギが攻撃してこないとわかって、撫で始めたようだ。

『なんだよ。意外と可愛いじゃん』

 ああ、と私は思う。牧場のヤギたちを観察していて分かったのだが、ヤギたちにも個性がある。特にこの子は女の子に撫でられるのは好きだが、撫でられているうちに興奮してしまうタイプだ。今もほらこうしているうちにだんだんと前足が上がってしまっている———。

 次の瞬間、カメラがぶれるのを見て、私はヤギが相本に突進したことを悟った。

 はは、ざまあみろだ。

 再び攻撃的になったヤギを見て恐れをなしたのか、取り巻きの二人が慌てふためいて逃げ出す。所詮相本の人望もその程度だということか。

 私は口元にマイクを持って行って、用意していたセリフを言う。

『罰だ!罰だ!罰だ!』

ヘッドホン越しに聞こえる声は思ったよりもひび割れていた。少しボリュームが大きかっただろうか。だがまあボイスチェンジのアプリがしっかりと動いているようだからよしとしよう。

「ヒッ……!」

『哀れな罪人よ。己の罪を悔やむがいい!』

「ひっ……ひぐっ……うぅ……うええええええええええん……!」

 まだパフォーマンスを始めたばかりなのに、相本はべそべそと情けなく泣き始めた。なんだ。意気地のない。

「あたっ、あたし、が……!なにしたって、いうのぉ!!」

 相本の濃いだけの化粧が涙でどろどろに解けていく。まじかで見られないのが残念なくらいだ。宿敵がこうも簡単に醜態を晒すなんて。

 どうしたものか。ここから先はアドリブだが、仕方ない。

『何をしたが、わからぬというか』

「わっかんねえよ!くそ、ヤギのくせに喋るんじゃねえよぉ!!」

『ならば我が命令にひとつだけ従え。さすれば汝をここから出そう』

 本当はまだ出してやる気などなかったけど、まあいい。ヤギの言葉に相本が一瞬の希望を得たような顔で見上げた。ああ、なんて哀れな人。今から言うのはあなたへの意趣返しだけど、きっとそれにも気づかないんだろうな。

『服を、脱げ。それは汝の纏う罪の象徴である。それらすべてを脱ぎ、原初の姿となってここから出ていけ』

 それは、いつだったか制服を盗まれたことへの仕返しだった。あの日のことを、私はずっとずっと許していない。

「は、はあ…………?そんなの、聞くわけないだろ?馬鹿じゃねえの…………」

相本が震える声で拒絶する。そうだろうなとは思った。プライドの高い相本が、簡単に服を脱ぐとは思えない。これは自分の中の小さな仕返しでしかなかった。

『ならば、ここで永遠に罪を悔いるがいい』

 私がそう告げると、タイミングを合わせたようにヤギがその場を後にした。どうやら相本が構ってくれないと思ったらしい。

 マイクのスイッチを一旦切って、私は一息つく。

 相本の泣き顔の一つでも見れば少しは気が晴れると思ったが、そんなものでは足りないと分かった。

 あいつにはもっともっと苦しんでもらわなきゃ。

「…………よし」

 一息ついて、私はもう一度VRのカメラを覗き込む。獲物探しを続行しなければ。

 数時間後にショートヘアーの取り巻きを捕まえて、相本と同じように脅した。しかし彼女はすべてを聞き終わるよりも早く逃げ出してしまった。なんといじめがいのないことか。

 その数時間後に、もう一人のいつもしたったらずなほうの取り巻きを見つける。演出のために用意した魔方陣の部屋で捕まえることができたせいか、うまいこと雰囲気にのまれてくれた。こちらは私のいう言葉をすべて聞いたばかりか、実行にまで移した。まさか本当に服を脱ぐとは思っていなかった。しかし神秘的なヤギを演じる以上、言うことを聞いた者は本当に外へ出してやらねば。私は地上までの出口を遠回りで教えてから大急ぎで出口を開けに走った。運よく間に合ってはち合うことなくそいつだけを外に出すことに成功した。

 時刻は明け方をさしていた。朝日を前にして私の疲労がピークへと達し始めているのを感じる。

 舌ったらずが外に出る気配を確認して、私は機械室へと戻る。もう少ししてから、あのドアをまた閉めなければ。

 部屋に戻ってドアを閉じる。まったくやることが多すぎた。息をついて一休みしよう。ほんの少し。ほんの十分でいいから仮眠を……。


 目を覚ましたのは、部屋の暑さのせいだった。まるで蒸し風呂のように、部屋の中が暑い。同時に、自分が寝すぎたことにも気がついてしまった。

 時計を確認すると、時刻は三時を指している。

 まずい。状況はどうなっているんだ。あのドアは開けっぱなしのはずだ。早く閉めなければ……!

 焦ったせいで私はバランスを崩し、近くに置いておいた機材にぶつかってガタンと大きな音を立ててしまった。

「ん……ううーん……」

「!?」

 その時、診察台で寝ているあの子が身じろいだ。あの子が目を覚まそうとしている。

 はたと私は気が付いた。この状況を、あの子になんて説明するんだ?

 この計画はあの子のためにしたことだ。だけど、この計画を知ったら、あの子はなんて思うだろう。途端に恐怖が襲う。あの子に嫌われるかもしれないという恐怖が。

 すべてがばれる前になんとかしなければ。

 部屋の中を見渡して、どうにかできないかと数秒の内に思考を巡らす。機材の上に乗せたVRゴーグルとヘッドセットが目に入るとともに、以前に読んだ本の内容が蘇る。

人間は見たものや聞いたものによって錯覚を起こす。

「ごめんね」

 今だけだから、と言い訳して私はあの子の頭にVRゴーグルとヘッドセットを被せた。これでうまいこと行くとは思えない。それでも、この子が今見ているものをせめて夢と思ってくれれば…………。

 現実的に考えて、稼げるのは数分だ。その間にここを離れて、素知らぬふりをしなければ。

 部屋を出て、鍵をかける。ついでに開けっぱなしにしていた地上への出口も確認して鍵を閉めた。あとここに残っているのは何人いる?ヤギはおそらくいるだろう。相本と短髪の取り巻きはまだいるだろうか。確認しようにも、監視用も兼ねていたVRゴーグルはあの子につけたままだ。

 こうなったら、自分の足で確認するしかない。私は頭に叩き込んだ見取り図を思い出しながら、この施設に誰か残っていないか確認し始めた。

 この施設は一見複雑だが、見取り図を見えしまえば簡単に歩ける。五角形の空間を中心としてそれぞれの辺を延長するように伸びている。当然、五角形の辺の延長線上は交わることになるがそのあたりで廊下は曲がり角になっている。そしてそれぞれの角を取り囲むようにして外周にまた五角形の廊下があるのだ。図形で言うならば、五芒星を五角形で取り囲んだような形だろうか。

 なんでそんな不可思議な間取りにしたのかさっぱりだが、この間取りのいい点は、外周ではない長い廊下を進み続ければ出入り口にたどり着けるということだ。

一つ一つの部屋を見回り、誰もいないことを確認する。やはり、誰もいないのだろうか。

 勝手が分かっていても広すぎる施設の中を捜索するのには時間がかかる。気がつけば私は一時間も施設の中をさまよっていた。いい加減に水が飲みたくて仕方がない。いっそ、外に出てしまうべきか?いいや。私は安全がわかるまで、ここから出ることは……。

 鏡のある部屋の近くまで来て、私は誰かの話し声が聞こえることに気がついた。その音に私は背筋に寒気を感じる。

 ここは来てから一度も聞いていない声……男の声だ。

「もしもし?大丈夫ですか?」

 誰かに話しかけるような声だ。もしかして、相本たちの誰かが危ない目にあっているのかもしれない。

 私はとっさに部屋の前へ飛び出して、そして後悔した。

 そこにはぐったりと横たわる相本と、白髪混じりの神父服の男。そして、見覚えのあるマゼンダの髪をした男がいた。

 

#


 ヒカルと新たに現れた少女が顔を見合わせている理由が茜には分からなかった。ただ奇妙な空間に口出しできないでいると、抱えている少女が身じろぎをした。

「!……大丈夫ですか?私の声は、聞こえますか?」

「…………めっちゃ頭痛い……」

 ウェーブ髪の少女は顔をしかめながらそう呟いた。

「どこかを打ったのかもしれない。ひとまず横になって……水は、飲めそうかい」

 ひとまず目の前の怪我人を介護しながら、茜はちらちらとヒカルの方を見やった。

 ヒカルは悲しそうな、それでいて罰の悪そうな顔で入り口に立ちすくむ少女に声をかけた。

「久しぶりだね。ええと……確か名前を聞いていなかったな」

「……吾田晶子です。その節は祖母がお世話になりました」

 ひどく平坦な声で晶子は答える。顔色からは全く表情が伺えない。まるで人形のように感情が見えなかった。

「晶子ちゃんか。いい名前だね……。でもどうして、こんなところに?」

「知らないふりはやめてください……。あなたは全部わかってるんでしょう?」

「落ち着いて話をしようよ。俺はまだ何もわかってない」

 なにやら不穏な雰囲気に、茜はどうしたものかとうろたえて、ひとまず目の前の少女に声をかける。

「名前は言えますか?」

「相本……樹里っす……。お兄さんら、話しかける相手間違ってんよ?その子に聞いてもなにもわからない……」

「大丈夫です。それよりもあなたはまだ休んでいてください。頃合いになったら起こして差し上げます」

 茜の落ち着いた口調に安堵したのか、樹里は水を飲むとまた横になって休む体制に入る。疲労がひどいのだろうか。すぐに寝息が聞こえてきた。

「……ヒカル、その人と知り合いなのかい?」

 沈黙したまま睨み合う二人の間に茜が割って入った。

「まあ一回会ったくらいだけどね」

 へらりとヒカルは晶子に笑いかけるが、晶子はにこりともしなかった。その表情はヒカル嫌悪を示しているというよりも、どこか力が抜けて諦めているようにも見える。

「……初めまして。私は星宮茜と言います。今朝のニュースを見て、あなたたちを助けに来ました」

「ニュース?」

 「はい」と答えて茜はさらに続けた。

「あなたの同級生と思われる方が、ここから逃げ出して近所の方に保護されています。私たちも先程もう一人と会うことができました。あとはあなたたちだけです」

「……………………」

 元気づけるために言った言葉だったが、途端に晶子の顔は青ざめ、たちまちその場にへたり込んでしまった。

「だ、大丈夫…………ッ!!」

 駆け寄ろうとした茜を振り払うように、晶子は手にした何かを振り回す。わずかな光を受けて輝くそれは、この部屋に落ちていた、細長い鏡の破片だった。

「もう、死んでやる!!」

 劈くような悲鳴をあげて、晶子は手にした破片を喉元へ突きつけようとする。茜が声を上げて止めようとするが、それよりも早くヒカルが動いた。ヒカルは晶子の細い手首を叩いて硝子の破片を落とさせる、あっという間に両手を絡め取って晶子の頭の上で纏めた。

「あっ……ぶねえ……。ダメだよ晶子ちゃん。せっかく助けようとしたのに、死なれたらやだよ〜」

 冷や汗を垂らしながら、ヒカルは暴れる晶子を拘束する。茜も安堵して大きなため息をついた。

「うう…………ううう……」

 晶子は泣きながらずるずると地面に倒れこんでそのまま動かなくなってしまう。

「……晶子ちゃん。何があったのかわかんないけど、とにかくここから出よう。他に、誰かいるかわかる?」

「…………入り口の、右後ろの廊下に出て左に曲がって二番の目の部屋に……あと一人……上八木莉緒って子がいて……鍵かかってるから……これ……」

 晶子はポケットから鍵束を差し出してみせた。なぜこの子が鍵を持っているのだろうかと不思議に思ったが、聞いている場合ではないようだ。

「……神父サマ、ちょっと俺この子と話したいからいいかな?」

「わかった」

 茜は頷いて、鍵を受け取った。


 晶子の言う通りに進むと、確かに鍵のかかった部屋があった。鍵を差し込んで、開く。中では寝台の上に横たえられた少女がゴーグルらしきものをつけて暴れていた。咄嗟に良くない状況だと判断して茜はゴーグルやヘッドセットに繋がっている機材の線を全て抜いた。

「大丈夫ですか!?」

 声をかけながら、ゴーグルを外してやって、まだ暴れている少女に声をかける。

「大丈夫ですか?私の声は聞こえますか?」

「え?なに………?」

 ゴーグルを外した少女はぼんやりと自分の手を掲げて、それからまじまじとあたりを見回した。ひとまず意識はあるようで安心する。

「上八木莉緒さんですか?私たちはあなたを助けに来ました」

「え……まってよ」

 少女は頭がいたいような顔をして、小さな声で呟いた。

「私は、ヤギじゃなかったの………?」

 思わぬ言葉に、茜はなんと返していいかわからなかった。ヤギ?一体何のことだ。

 莉緒が付けていたゴーグルの中を覗き込んでみると、そこには茜と晶子が映っている。しかし、やけに視点が低いみたいだ。

 もしやと思って茜はヘッドセットを付けて声をかけてみる。

「もしもしヒカル?聞こえる?」

『うわ!?なんでヤギから神父サマの声すんの?』

 やはりか、と思いながらヘッドセットを外す。どうやらこの子はずっとヤギの視点を見せられて、どういうわけかそれを現実と思っているらしかった。

「今までの、なんだったの?だって、私はヤギで……樹里に酷いことを言って……樹里を殺してしまって…………」

 莉緒は動揺したように息を荒げている。まだ強い混乱状態にあるようだ。

「大丈夫です。まずは深呼吸をして、落ち着いてください」

 莉緒としっかり向き合って、茜は怯えているその目をしっかりと見つめた。

「上八木さん。今までのことは、すべて現実ではありません。あなたはこのゴーグル越しに夢を見ていただけです」

「ゆめ?」

「はい」

 まだ混乱しているならば、ひとまず現実ではないと認識させた方がいいだろう。

「お友達の樹里さんは生きています。あなたはヤギじゃないし、誰も傷つけていない。暴言を吐いてしまったり、殺してしまったというのは夢です。悪い夢だったんです」

 そうだとも。すべては夢だ。こんな地下施設での出来事なんて、すべて悪夢にした方がいい。この事件の真相なんか知る由もなかったが、目の前の少女の疵にしてはならない。

「目が覚めたばかりで混乱しているんでしょうが、もう大丈夫。あなたはここから出られます。あなたは、助かったんですよ」

 その言葉に莉緒は安堵したように息を付き、箍が外れたように泣き始めてしまった。茜は少し躊躇ったのち、目の前で泣く少女の背を摩りながらヒカルたちがここへ追いついてくれることを祈っていた。


 四人の少女とヤギを乗せて定員オーバーのジープが向かったのは、手近な大病院だった。蒸し暑い地下室に一日中閉じ込められていた少女たちは酷い熱中症になっていた。

 まだ症状の軽い菜穂美に連絡を取ってもらい、それぞれの保護者と学校へと連絡すると、警察まで付いてくる大騒ぎとなった。当然と言えば当然だ。お嬢様学校の生徒五人が行方不明になっているのだ。捜査網が貼られていない方がおかしい。

 見てくれや立場の怪しさから、茜たちは犯人と疑われかけたが菜穂美がネット上の友人だったので助けてもらったと誤魔化し、どうにか事なきを得た。まさかSNSの投稿を見て半ば野次馬根性で助けに来たとは言えまい。

 疑いは晴れたものの連絡先の交換や取り調べで、結局茜たちが家路についたのは夜中だった。

 少し混んでいる高速を走る。窓の向こう側を夜の光が飛び去っていく。疲れ切って会話もなく、二人はカーステレオから流れる耳障りなラジオに耳を傾けていた。

「…………神父サマ、警察に誰が犯人か言わなかったの?」

「ん?ああ……私は誰が犯人か知らなかったしな」 

 嘘だな、とヒカルは思う。晶子が鍵を出した時点で、茜は誰がこの事件の首謀者か気づいていたはずだ。けれど別段追求することもなく、ヒカルはまた目の前の高速道路に視線を集中させた。

「ヒカルは、吾田さんと知り合いだったのか?」

「ん?あー、まあね。前にちょっと仕事で合っただけだけど」

 適当に誤魔化しながら、ヒカルは今朝のことを思い返す。T山で発狂した女性がヤギが喋ったというあのニュースを見た時、ヒカルはある家で読んだあまりに綿密に書かれていた計画書の一部を、どういうわけか思い出してしまったのだ。

 ただの予感であれと思った。ただの勘違いや思い込みだと言い聞かせたかった。あの日あった少女がこの悍ましい計画を実行したというのなら、その一端を自分が担っているような気がしてしまったのだ。

 結果として予感は当たって、吾田晶子はあの悍ましい計画を実現させてしまっていた。狂気に飲まれた少女たちが互いを傷つけあう地獄が、そこには生み出されてしまっていた。助けに行ってよかった。誰かが止めに行かなければ、それこそ死人が出ていたかもしれない。

 なぜ、晶子があの計画を実行してしまったのか、ヒカルはなんとなくわかっていた。それらしい言葉もあのノートに書かれていたから。

 あれは晶子の復讐であり、救済だった。己を救うための救済だったのだ。

 ヒカルには、それを罪と言って断罪する勇気はない気がした。

「……もしもの話なんだけどさあ、神父サマは目の前に罪を犯している人がいて、でもその罪を犯さないとその人が救われないって状況だったらどうする」

「なんの質問だ?急に」

「いいから、答えてよ。やっぱ悪いことだからやめさせる?それとも見逃す?」

 正義感にあふれる神父様のことだ。茜であれば、それは悪いことだと言ってくれるような気がした。しかしヒカルの考えに反して、茜は随分と言葉選びに悩んでいるようだった。

「そうだな……」

 少し考え込んで、ようやく茜は口を開く。

「それによってその人が救われるなら、私は見逃すかな」

 想像していたものと違う答えにヒカルは一瞬道路から視線を外してしまい、慌てて元に戻す。

「なんで?」

「まず、神父っていうのは裁判官でも警察でもない。私に罪を決める権利はないし、何よりそれが本当に悪いことなら、神がお裁きになる」

 清廉潔白な聖人らしい答えだ。ヒカルは思わず苦笑した。お優しい神父様だ。知らないうちに、俺の心まで救いやがる。

「そっか。神か。神様ね。たまには信じてやりますか」

「やっと信者になる気になったか?教会の門はいつでも開いているぞ」

 突然調子を取り戻したように茜がそわそわとしだす。信者得とくにどれだけ必死なんだか。

「そうね。気が向いたら入信するわ」

 ヒカルは笑いながら少しブレーキを踏んで車のスピードを落とす。高速を降りれば、電飾の光であふれる我が家が出迎えてくれた。




 あの男たちに見つかった時、すべてが終わったと思った。悪事のすべてを暴かれて、私は死ぬしかないのだと絶望した。

 だというのに、どういうわけかあのピンク頭の男は私を犯人と断罪することなく、それどころか警察にさえ事実を伝えなかった。

 二人っきりになった時、あの人は私にこう言った。

「俺も、共犯みたいなものだから」

 と、あの人はそう言ったのだ。たった一度、私の妄想を肯定しただけで、あの人は私の共犯者になったという。

 あの子といい、あの人といい。なんでもないようなことを罪と思って苛まれているだなんて、とんでもなく優しい人だ。いいや、違う。あの人は、悪魔だ。私をそそのかして、こんな悪いことを良いことだと思い込ませてくるんだもの。

 見逃されて、私の犯罪は完遂されてしまった。車の件も、ヤギの件も、それ以上だれも追求してこなかった。警察も両親も、私を哀れな被害者と思っている。

 こんなにうまくいって本当にいいのかしら。ううん。いいんだ。だって、私のしたことは、きっと間違っていない。

 相本はあれから入院している。熱中症の後遺症が出ているらしくて、しばらくは入院が続くそうだ、取り巻きの一人は夏休みが始まる前に転校して、残った一人は大人しくしている。

 脅威はなくなった。私とあの子は救われたのだ。

 警察のごたごたが続いて、あれから話すこと夏休みに入ってしまったけれど、連絡先は変わっていないはずだ。

 そうだ。あの子を花火大会に誘おう。どこかに遊びに出かけるのもいいかもしれない。

 浮かれた気持ちで、私はあの子にテキストを送る。

 送ってから、スマートフォンが鳴り響くのがとても待ち遠しい。

 まだかな。まだかな。ああ、愛しい莉緒。早く早く、私に返事を返して———————。




 締め切った診察室には空調がよく効いている。

 診察室の中には医者と少女が向き合っていた。少女は明るくはっきりとした声で受け答えをしていた。


 こんにちは先生。はい。はい。あれからずっと、体も元気です。怖い夢も、最近は見なくなりました。だけど、一つだけ困りごとがあって。

 たまに鏡を覗き込むと私、今でも鏡の中に変なものが見えるんです。先生。見えないはずのものなんです。そこには私の顔が映るはずなのに。私、鏡の中にヤギが見えるんです。




診察結果:上八木莉緒

 心的外傷後ストレス障害の傾向。現在快方へ向かうものの、未だヤギの幻覚を見ると証言。通院により経過観察を必要とする。本人の精神状態は安定しているものの、環境によってパニックを起こす傾向がある。保護者の要求である通学許可は保留とする。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ