1,目覚めよ
ゆるしてください。ゆるしてください。
私は罪を犯しました。ゆるされない罪を犯しました。
悔いています。やらなければよかったと、今もなお思っています。
お願いです。どうか教えてください。どうしたら私の罪はゆるされますか?
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目を開いても真っ暗だったので、私は自分がまだ眠っているような気がした。しかし冷たい空気が眼球の表面を乾かしていくのを感じて自分は今起きているのだと気がつく。
身を起こしてもまだふわふわとした感覚に襲われて心もとない。少なくともここは自分の知る布団の上とかではなさそうだ。地面を触るとなんだかぬらついたコンクリートのようで気持ちが悪い。作り物の石床からはひんやりとした冷たさを感じるのに、体にまとわりつく空気は湿り気を帯びた熱気を孕んでいてじっとしていても肌の上に汗が滲み出す。そこへ随分と長く寝ていたのか、体のあちこちが痛かった。背骨の関節がまるで石のように固まってしまっているようで真っ直ぐ伸びることも辛い。
なんだか頭まで痛い。というか、重い。頭の上に何かが乗っているようだ。まるで鉛のような頭をもたげながら、なんでここにいるんだっけ?と記憶を辿る。確か私は樹里たちと一緒に放課後の教室でだべっていたはずだ。菜穂美とかのんを含んだいつものメンバーで、いつもみたいにお菓子を食べて、くだらない話をして、帰りに最近できたタピオカ屋に寄るか寄らないかの話をしていたあたりから記憶が薄らいでいる。
ああ、なんでこんなに頭がぼんやりするんだろう……視界もなんだか端のほうが暗くてはっきりと見えない。というよりも、まるで暗い場所にいるようだ。上の方からわずかに差し込む青白いだけを頼りにあたりを見回すと、聞き慣れた少女の声がした。
「莉緒?莉緒いる!?」
少しだけ高圧さを含んだこの声は樹里のものだ。そこで音だけははっきりと聞こえることに気がついた。
「ここにいるよ」
答えながら這いずって前を向くと樹里のほかに、かのんや菜穂美らしき人影と、あと一つ見覚えのない影が見えた。ぼんやりとした視界が樹里の校則違反の巻いた髪を捉えて少しほっとする。しかし樹里の方は私の頭の上あたりを見つめて引きつった顔をしていた。何を見ているのだろうと樹里の視線の先を振り返ると、そこには山羊がいた。
まるで絵本に出てきそうな黒山羊。灰色の角は流線形を描きながら後方へと伸びている。黒い毛皮はゴワゴワとしていそうな手触りで、映画で見た海賊のように伸び放題だ。金色の目の真ん中にある細く黒い瞳孔で私たちを見つめながら、山羊は一言「メエ」と鳴いた。
「は?なんで山羊?てかめっちゃ獣臭いんだけど」
かのんが舌ったらずな声で疑問を呈する。
「起きたら山羊小屋の中とか……まじ笑う」
菜穂美は元から細い目をさらに不機嫌そうに細めて悪態をつきながらスマホのカメラで山羊の写真を取る。
ぱしゃり、という撮影音とともにフラッシュの光が焚かれた。その光に焼かれた山羊の目が細まり、甲高い鳴き声を上げながら前足を振り上げる。
「エエエエェェェェェェェェェエェエェエエエエエエ!!」
コンクリートの壁に反響した喚声が耳を劈き、山羊がこちらへと走ってきた。蹄がコンクリートを蹴りつけ、がりがりと厭な音がする。
「ちょ、嘘でしょ?こっち来ないで!」
「やだ怖い怖い怖い!」
悲鳴を上げながら樹里たちが逃げ出す。
「待って!置いていかないで!」
慌てて起き上がり、樹里たちを追いかけようとするが、体が粘土のようにぼんやりとしてままならない。それでもどうにか立てたようで視界は真っ直ぐになった。視界の端っこに奥でうずくまっていた見知らぬおかっぱの黒髪を捉えて、私は胃の奥が冷たくなる気がした。
吾田さんだ。
なぜ彼女までここにいるんだろう。
私は吾田さんをどうするべきか、少し悩んだが、高らかな蹄の音が迫っていることに気がついて叫んだ。
「逃げよう吾田さん!」
吾田さんは虫眼鏡みたいな眼鏡の奥にあるまん丸の目を見開いて驚いたような顔をしたが、すぐに立ち上がって一緒に逃げてくれた。
あの山羊のことも、この場所のこともなにも分からない。それでもあの山羊に追いつかれてはいけない気がした。
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この世に神はいるのだろうか?という問いは世界の各所であらゆる時代で問われてきた疑問だ。その疑問に対して星宮茜が答えを出すとしたら、答えはイエスだ。もしもいないのであれば、茜の仕事は意味のないものになってしまうのだから。
新宿三丁目の末広通り。飲み屋の立ち並ぶ区域の中にビルとビルの隙間に建てたような細い四階建ての雑居ビルがある。地下を含めて五つのフロアがあるビルの二階で黒いカソックを着た白髪混じりの黒髪の男が床に伸びていた。
日曜日の午前十時半。コンクリート打ちっ放しの壁に、卒業式のように規則正しく並べられたパイプ椅子。リサイクルショップで手に入れた三段ボックスを改造した説教台。それらと不釣り合いな大理石でできた豪奢な祭壇の後ろには象徴的な十字架が掛けられていた。
ここはコンセプトバーでもなければ、コスプレスタジオでもない。きちんと共同体に登録されたれっきとした教会だ。ただし、信者の数はゼロだった。
「なぜだ……。日々頑張っているのになぜ信者が集まらないんだ……」
カソックに埃が付くのを気にかける力さえなく転がりながら茜は神に嘆きを訴える。
「主よ……私は努力しています。ですが街灯でビラを配り、若者に説教をすれば勧誘は条例違反だと警察に怒られました。せめてと思いインターネットを使ってあなたの教えを説こうとしましたが、炎上しました……。せっかく司祭になれたというのに、これではあんまりです神よ……。それともこれは試練なのでしょうか。あなた様は私にこの苦しみを乗り越えよと言うのですか……」
頭をもたげ、十字架を臨む。その横顔は心労による隈と伸び放題な白髪のせいで老けて見えるものの、世間一般でいえば端正と呼ばれる部類のものだった。細長い体躯の見せ方さえ気を使えば哀愁めいた印象に虜になる者もいるかもしれない。しかしその憂いが信者不足から来るものと知れば、世間は冷たく彼を突き放すだろう。
茜が絶望に苛まれていると、入り口でもあるエレベータの滅多に光らない停車ランプが点灯した。もしや信者の来訪ではないか?と茜は起き上がり、入り口を注視する。しかし開いた扉の向こうから現れた顔を見て茜はすぐに顔をしかめた。
「はよーっす!朝っぱらからひどい顔だね神父サマ!」
「帰れ。今すぐ帰れ。神の家に入ってくるな!」
「ちょっと酷いなあ。教会ってのは誰にでも開かれているんじゃん?」
片眉をあげて唇を尖らせながらマゼンダ色の髪をした若者は肩を竦めて言い返すと遠慮なく教会の中に上がり込み、近くのパイプ椅子に勝手知ったる顔で腰掛けた。青年はくたびれたジーンズにマイナーなバンドTシャツを着た上に『デイサービスふらわー』のロゴが入った緑のエプロンを着ている。青年は茜よりも歳下に見えるが、年功序列などまるで気にかける様子がない。
「何をしに来たんだヒカル」
不機嫌そうな茜に対し、司波ヒカルは楽しそうに泣きぼくろのある目を細めて口の端を吊り上げてみせた。
「別に?神父サマの顔が見たかっただけ」
その顔を見て茜はいよいよ顔を覆って深いため息をついた。
神父といえど博愛ではない。はっきり言ってしまえば茜はヒカルのことが嫌いだった。ヒカルは信者ではない。それにも関わらず茜に懐き、事あるごとに教会を訪ねては厄介ごとへ巻き込んでくる。さらに言えばヒカルは茜を困らせるのが大好きだった。だからこうしてヒカルが教会へくるのは茜を茶化すためではなく何らかのトラブルを持ち込もうとしているのだとすぐに分かる。そしてそれを断れたことはただの一度もない。
茜は諦めたようにヒカルの一個空いた隣のパイプ椅子にぶすくれた顔で座った。それを同意とみなしたようにスマホをいじりながらヒカルは話し始める。
「神父サマ、今朝のニュースは見た?」
「見てない」
「だよな。ここテレビも無いし。クーラーがあるのがマジ奇跡」
「悪かったな」
馬鹿にされたのを流したつもりだが、少しだけ声を強く張ってしまう。年代物のクーラーが呼応するようにボコボコと音を立てた。
「そんな怒らないでよ。まあトップニュースにもならなかったんだけどさ、T山の山中で全裸の女の子が見つかったんだよ。熱中症を起こして道路に倒れていたのをバスの運転手が見つけたんだって」
状況を想像しただけで茜は顔を顰めた。山中で倒れていた女性はただ裸で倒れていた訳ではないことくらい、聖職者でも分かる。
「酷い話だな……命があるだけ救いがあるが、被害者の女性はさぞ辛いだろう」
「だよな。それでニュースでは熱中症による精神錯乱状態に陥っているってことで終わったんだけどさ、ネットではもっと詳しく話されてんだよね」
「……ふうん」
「ちょっと、急に興味なくすのやめて」
注意するヒカルを茶化すように肩を竦めて返事をする。茜はネットの情報というものにあまり信頼を置いていないタイプの人間だった。ヒカルは時代遅れのラジカセでも見るような呆れた視線を送ると再びスマホに向き直る。
「とにかくネットではさ、女の子が見つかった時に話していた妄言の情報が出てるんだよね」
「妄言?」
「そ。なんでも『ヤギに襲われた』『喋るヤギが追ってくる』って叫んでたらしい」
「山羊、ね……」
茜は祭壇の後ろに掲げられている十字架をなんとなしに見上げた。その視線を遮るようにしてヒカルがスマホを突き出しでくる。
「それでさ、この投稿見てよ」
見せられた画面にはSNSの投稿が映し出されていた。加工をした女子高生のアイコンで「OMI」という投稿者の文章で昨晩から今朝にかけて投稿されている。
OMI:なんか起きたら暗いとこにいたんだけどヤバイ。誘拐された?
OMI:ドッキリだったらやめてほしー
OMI:暗い。何もみえん なんか廃墟っぽい
OMI:いつメンが近くにいるのがほんと救い。誰かたすけにきて
OMI:ヤギ?みたいのがいた 怖い
OMI:いつめんとバラバラになった。最悪。暑いしまじ無理
OMI:なんかずっと同じ道ばっか続いてる気がする。ドア見つけても行き止まりか開かないとかほんと勘弁してほしい
OMI:かのんが罰なんじゃないかとか言い出した。そんなことないし。大体罰って何の罰?
OMI:泣き出してうざいからもう置いてくかもしんない。
OMI:また同じ道。同じ行き止まり。どっかでヤギの声が聞こえる。まじ無理
OMI:まじふざけんな。犯人出てこいぜってーゆるさない
OMI:ごめんなさい。ごめんなさいもう許して
投稿の中には苔むして古びたコンクリートの廊下が続く写真と同じような場所を背景にフラッシュが焚かれて赤目になっているヤギの写真も載せられている。それが真実味を帯びさせているせいか、シェア数は数千を超えていた。投稿にはいくつかの反応も寄せられているが、ほとんどが恐怖に共感するだけのものやヤラセでは無いかと煽るものばかりだ。
SDo:怖!新しい脱出ゲームですか?
あみ太:ガチ誘拐案件?警察に連絡した方がよくない?
KT6:コラ画像乙。加工を練習してから出直してください。
ミカル:落ち着いて知っている人に電話してください。そして助けを求めてください。
ゆえ4:やばい……めっちゃ悪い気が漂ってる。霊も怒ってるから早く出た方がいいよ!
その中である投稿をヒカルが指差した。
茄子美:これT山にある廃墟っぽい。戦時中の実験施設で地下にあるとこ。たしか何年か前に写真家が立ち入り禁止なのに入り込んで問題になっていなかった?
「……これがどうかしたのか?」
「だからさあ、わかるっしょ?全裸の女の子が見つかったのはT山。そんでこの投稿の場所もT山!んでどっちもヤギが関わってんじゃん!これはもう関連性があって間違いないでしょ!」
世紀の大発見と言わんばかりに鼻息を荒くするヒカルに対し、茜は冷ややかだ。
「よく見つけたな。早速警察に相談するといい。もしそれで捜査に進展があったら金一封はもらえるかもしれないし、貰えなくてもその善行によって天国の門は近づいてくる」
幼稚園生の自慢を褒めるかのようにおざなりに賞賛すればヒカルは違うそうではないと抗議する。
「そうじゃなくてさあ、ここは神父サマの出番だって言いたいの!」
「なんで?」
「だって悪魔かもしんないじゃん!」
その言葉にひくり、と茜の頬が引きつった。 まるで地雷の単語であるかのように。
しかしヒカルは気にかける様子もなく話を続けようとする。
「神父サマはエクソシストだろ?」
「エクソシストじゃない。私はただの神父だ」
「でも、今までに何度も悪魔を退治してるじゃん。でしょ?」
パイプ椅子の背もたれにもたれて小首を傾げるようにして肯定を待つヒカルから視線をそらして、茜はもう一度十字架を仰ぎ見た。
茜は神父だ。唯一神を信仰し、救世主を奉る司祭。故に悩める人々を悪から救済し、天国へ導く救世主の敵対者として、悪魔が存在することも知っている。悪魔は人を誘惑し悪に貶めて地獄へ落とす悪しき存在だ。人々の堕落のため、悪魔は時代によって様々な姿形を得る。その化身の一つにヤギがいた。だからヤギと聞いた時に茜の脳裏にその存在がよぎらなかったと言えば嘘になる。
茜は確かに神父だ。そしれ極稀にだが、神父の中には悪魔を退けることを生業とする者もいた。中世の欧州においては珍しいことではなかったが、現代ではほぼオカルト扱いされており、こと日本においては恐山のイタコや除霊の高僧ほど認知されていない。それでも茜は過去に幾度か悪魔の悪行を暴いてきた。そのせいで一部の界隈ではエクソシスト–悪魔祓師として知られるようになってしまった。
本人にそのつもりは無いというに周囲にもてはやされ、ついには教団の上層部にも「星宮司祭は悪魔祓いでお忙しいでしょうから」と遠回しな厄介払いを含んだ気遣いをされて信者の少ないこの教区を与えられたことを茜は大変に気にしている。
その誤解を生む過程にはヒカルも関わっているのだが、本人はいつも「何のことかわかりません」ととぼけた顔をして茜を悪魔絡みの事件に巻き込んでくる。だから茜はヒカルのことが嫌いなのだ。
「悪魔の仕業じゃない」
きっとそうだと茜は自分に思い込ませながら言う。これはもっと人為的な、人の悪意に満ちた事件だ。そしてこういった事件は警察が処理し司法が裁くべき事柄だ。
いい子ぶって世間に任せるべきだと背筋を伸ばす神父の方を向いてヒカルはつまらなそうな顔でパイプ椅子の背もたれに頬杖をつく。
「ふーん。じゃあ神父サマはこれは人の事件だからって言って無視決め込んでいいーんだ」
ぎいぎいと体重をかけて揺らす。その度に視界の端をマゼンダの髪が行き来して鬱陶しい。
「投稿を読むと被害者はまだいるっぽいのに?それを放ってさらに可哀想な女の子が出てくるのを待つの?だーれも来ない教会で?助けに行けるかもしれないのに?」
ヒカルの言い方はわざとらしい煽りを含んでいるが、それでも純粋すぎる茜の正義心をつつくのには十分だった。少しずつ茜の視線は十字架から逸れていく。
「聖書でも言ってんっじゃん。ええーと、良いことするのに飽きちゃダメでそのうちいいことあるよみたいなやつ」
「『善を行うのに飽いてはならない。失望せずにいれば時期が来て刈り取ることになる』だ」
思わず聖書の一節を諳んじてヒカルに向き直ってから「あ」と茜は思ってしまう。今の返事ではその通りだと言ったにも等しいのではないか。嫌な予感は的中し、ヒカルがにんまりと意地悪い笑みを浮かべる。
「それで?神父サマは聖書の教えに背いてしまうの?」
「…………」
気まずそうに唇を一文字に結びながら茜は言い訳の言葉を探したが部屋のどこにも適切な返事は転がっていなかった。あるいは茜は助けに行かなくて良い言い訳を見つけたくなかっただけかもしれなかったが。
結局のところ、星宮茜は人助けをせずにはいられない性分があるのだ。その性分故に悪魔祓師などという副業が舞い込んでくることからもついでに目を背けた。
「……でも、この女性がT山のどこにいるかもわからないのにどうやって助けに行くんだ?」
「それならわかるよ」
あっけらかんとしてヒカルが言う。スマホの液晶を何度かタップして出したのはある写真家のアカウントだ。
「さっきの場所を写真に撮っている人がいるって言ってたでしょ?似た画像がないか検索したら五年前のブログサイトが出て来たんだよ」
表示されたページには『ケルたんの廃墟探索』と題されたブログが出ている。問題になったためか投稿は五年前で止まっているが確かにOMIの投稿した写真とよく似た場所が映されている。
『T山からJ山に向かう途中の516号線から獣道に入ったとこで見つけました。掠れてるけど看板に(第八×××験場)って書いてある。ちょっと怖いところですね(笑)』
「これ見てネットの衛星写真見たら、少し分かりにくいけど確かにそれっぽい場所が出て来たんだよね」
画面を切り替えて、ヒカルがスクリーンショットで撮った画像を見せてくる。少し分かりづらいが、確かに道路から少し山側に入ったところに人工的な施設が見て取れた。
「よく見つけたな」
「褒めてもいいんだぜ」
ふふんと得意げに両手を広げてヒカルが賞賛の言葉を待ち受ける。
「いや、本当にすごいよ。きっと人のためにここまで探せる人間はなかなかいない」
茜はこう言った細かな情報の扱いに不得手なので素直に褒めた。すると求めたくせにそんな言葉を期待していなかったのか、不意を突かれて照れたヒカルの頰がわずかに赤く染まる。
「あー、ドウモ……。とにかく場所も分かったんだ!早速行こうよ」
パイプ椅子から思い切り立ち上がり、ヒカルが急かす。茜は苦笑いしながら立ち上がり十字架を一瞥する。
主よ。これは人の為なのです。きっと与えられた試練なのです。決して少しだけワクワクなどしていないのです。なのでどうか礼拝時間中に誰もいない教会を離れることをお許しください。
心の中で小さく懺悔をして茜は古いクーラーの電源を切った。
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山羊の気配がなくなるまで走って、ようやく私たちは腰を落ち着けた。走っているうちにほかの三人とはぐれてしまったけど無事だろうかと思いながら隣にいる吾田さんを見る。走るのが得意じゃないのか、吾田さんの呼吸は落ち着く気配がない。
「吾田さん、大丈夫?」
「うん……ごめんね、体力なくて……」
「気にしないでいいよ。今それどころじゃないし」
吾田さんの呼吸が正常に戻るまで待つ。その間に私が考えていたのは次の話題についてだった。ここから出なきゃとか、なんで私たちはここにいるんだろうとか、話すべきことはたくさんあるはずだ。なのに吾田さんを前にするとなんだか話しづらくて、沈黙だけが私たちの間に横たわる。
私は天井と壁の間の細い窓から漏れて来る光を見つめてぼんやりと考え事をしていた。あの光源はどこから漏れて来るのだろう。電灯の明かりにしては弱く青白い。もしかしたらあの光は月明かりなのかもしれない。だとしたらここは余程閉鎖された空間なのだろう。空気が溜まり込んでいるようで息がしづらいのも、そのせいかもしれない。ここから出て新鮮な空気が吸いたい。でも、どうしたらここから出られるのだろう。
「ねえ」
吾田さんに声を掛けられて、かなり長い時間黙り込んでいたことに気がついた。
「なあに?」
平静を取り繕って返事をする。なぜか私は緊張して吾田さんの方を向くことさえできない。
「こんな時に言うのもなんだけどさ、莉緒ちゃんって呼んで良い?」
「へ?」
場に不釣り合いな問いかけに、思わず私は間抜けな返事を返す。見上げた先で吾田さんは少しだけ傷ついたような顔をしていた。
「あ、ごめん。嫌だよね……」
「ううん!違うよ。ちょっとびっくりしただけっていうか……全然名前で呼んで良いし!むしろ私も、晶子ちゃんって呼びたいし……!」
口走ってからしまったと思った。だが時は既に遅く、吾田さんは嬉しそうに頰を紅潮させながら微笑んでくれる。
「よかった……。じゃあ今から名前呼びね」
「うん……」
「……ここどこだろうね。莉緒ちゃんは分かる?」
「ううん。見たこともないとこだし全然わかんない。私たち、誘拐されたのかな」
「多分……だれか助けに来るかな」
「五人もいなくなったんだからきっと探してくれてるよ」
「そうだよね……」
最初はぎこちなかったが、だんだんと言葉がほぐれて普通に言葉を交わせるようになって来る。学校ではまともに話したこのない彼女の声はまるで音を出すことに慣れていないかのように細く、注意しなければ聞き取れない小さな鈴の音みたいだ。
横目に見る晶子ちゃんの表情は穏やかでまるで私たちの関係が嘘のように思える。さっきまで私は晶子ちゃんに声を掛けて良いかどうかさえ悩んでいた。
だって、私は。私たちは晶子ちゃんのことをほんの数時間前まで居ないように扱っていたというのに。今更仲のいい友人のような会話をしているなど、まるで夢のようだった。