【3】
悲鳴が上がった。キトリの一番近くにいたアンベールが悲鳴を上げて後ずさる。というか、その場で一番冷静だったのは短剣を突きつけられたキトリだった可能性がある。
「やっと出て来たな、ブレーズ・フィリドール」
「……すまない。誰だったか思い出せないが、引率の先生だな。彼女を離してもらえるか」
ラシュレー教師に、ブレーズは落ち着いた口調で言った。ブレーズが落ち着いているのは、人質にとられているはずのキトリが、命の危機にあるとは思えないぼんやり具合だからだろう。
落ち着いているブレーズに、ラシュレー教師はキトリをつかむ力が強くなった。さすがの彼女も少し顔をしかめる。
「そうだろうな。あんたは俺を覚えていないだろう。だけどな! 俺はお前のせいで戦場になんか行くことになったんだ! すべてお前のせいだ!」
「?」
ブレーズが『意味が分かりません』という表情をしたのは仕方がないだろう。耳元で叫ばれたキトリにも意味が分からなかった。
とりあえず、ラシュレー教師が兵役経験者であることはわかった。まあ、成人男性のほとんどが兵役の経験があるだろうけど。
今更であるが、この場所はホールである。もし、キトリがラシュレー教師の立場であるのなら、事を起こすのに絶対に選ばない場所だ。空間が広すぎるし、人が多くて退路が確保できない。
ブレーズの目が上方に動いた。キトリの向きでは確認できないが、準備ができたらしい。
「キトリ!」
呼ばれた瞬間、おっとりしていたキトリが動いた。肘を鳩尾にうちいれ、自分の首元の短剣をのけるように押し上げる。そのまま腕をつかみ、引き寄せる勢いもつけて腹に膝を叩き込んだ。腕をひねりあげ、短剣を取り上げる。膝を蹴って床に転がした。そのまま後ろに下がり、生徒やアンベールをかばうようにラシュレー教師から距離を取る。
ホールの上の方や柱の影に待機していた魔術師たちの魔法で、ラシュレー教師はあっけなく拘束された。あのままキトリが取り押さえていればよかったのでは? と思うかもしれないが、ラシュレー教師は軍務についていたことがあるのだ。と言うことは、対人戦闘を学んでいるはずで、だとしたら、体重の軽いキトリは不利だ。先ほどは不意打ちで成功したに過ぎない。
眼前の脅威を何とかしたキトリだが、脅威は背後からも迫っていた。
「せ、先生をいじめないで!」
見学者の女子生徒の一人が、キトリから短剣を奪って振り上げた。これはしっかりと短剣を確保していなかったキトリが悪い。
言われたとおりの動きはできるが、反射神経に難のあるキトリは、表情も変えずに振り下ろされる短剣を見ていた。肉体反応が内心の驚きに追いついていないのである。
しかし、短剣はキトリを傷つけなかった。女子生徒の腕を、金髪の青年がつかんだからだ。そこに来てようやっと、キトリは表情を変えた。
「……ああ、アレク。どうもありがとう」
「せめて避けるくらいはしてくれないか」
もっともなアレクシの言葉だが、キトリにも言い分がある。
「私、反射神経の鈍さには定評があって」
「そういうレベルの問題ではない気がするが」
六歳も年下の青年に冷静に指摘されるが、キトリはやはりおっとりと笑うだけだ。アレクシには、キトリには避ける気がないように見えたのだ。
「まあそうかもしれないけど……アレク、痛そうだから、少し手を緩めてあげて」
「……こんな時でも、自分を刺そうとした人間の心配をするのか」
と、やはりアレクシは呆れ口調だが力は緩めたようだ。
「おい、大丈夫か!」
「無事!? というか、僕出番なかったけど」
ブレーズとロジェが駆け寄ってきた。キトリは「大丈夫よ。アレクのおかげね」とやっぱり微笑む。先ほど自分より体格の良い男を叩きのめしたとは思えない態度だ。ちなみに、ロジェの方が銃を持っていて、援護してくれる気だったのだろう。
「お前は! もう少しあわてたらどうだ!」
「あたっ」
ブレーズに頭をはたかれて、キトリは反射的に声をあげた。
「いや、だって……あの状況でラシュレー先生が私を刺すとは思えませんでしたし……」
刺すか刺さないかで言えば、女子生徒の方が本気で刺してきただろうと思う。
「このホールで、私を人質にとった時点で、彼に退路はありませんでした」
「お前、あの状況でそんなことを考えていたのか……」
ブレーズは呆れたようだった。とっさに体が動かないので、考えるしかないのである。
「あのー、彼らをどうしましょうか」
声をかけてきたのは魔法研究所警備員の青年である。所長のブレーズは「そうだな」と眉を顰め、それからキトリを見た。
「どうすべきだと思う」
「それ、私に聞きます?」
「忌憚ない意見を頼む」
キトリは顔をしかめたが、しばらく沈黙を守った後に答えた。
「……ひとまず、それぞれ空いている部屋に軟禁し、事情を聞きましょう。私たちは当事者ですので、知る権利があります。同時に街の憲兵に通報し、彼らを引き取ってもらいましょう。我らには知る権利はあっても、裁く権利はありません」
「お前にはあるんじゃないのか?」
ブレーズが尋ねるが、キトリは首を左右に振る。
「ありませんよ。私は当事者ですが、同時に軍人でもあります。軍人の命は、一般市民より軽いのですよ。それに、軍人としての階級を言っているのであれば、私は大佐ですので、裁判長の権限はありません。それが発生するのは将校からです」
「なんだ、つまらん」
「何を期待したんですか」
キトリは呆れて苦笑を浮かべた。
「ラシュレーは、魔法大学を受験していたらしいよ」
「ふうん?」
研究所見学の騒動のあった夕食時、キトリは弟のロジェからそんなことを言われた。すでにラシュレーと女生徒から事情を聞き終わり、二人は憲兵に引き渡されていた。残った生徒たちは、別の先生が引率して今日中に首都に戻るとのこと。
キトリは二人の事情聴収に付き合わなかったので、こうしてロジェから話を聞くにとどまっている。当事者のキトリが参加しなかったので、代わりに弟のロジェが聞いてきたのだ。
「でも、首都で先生をしてるってことは、受からなかったってこと?」
「ご明察。ほら、魔法学校や研究所の魔術師は兵役がないだろ」
「うん。訓練された魔術師は、準戦闘員とみなされるものね」
つまり、戦争が激化すれば訓練もないまま戦場に放り出されるのが魔術師なのだが、それは今は置こう。
「誰でもそうだろうけど、彼は戦争に行きたくなかった。でも、大学に落ちたせいで行く羽目になった。それを恨んでの犯行らしい」
「つまり、逆恨みと言うことね。それ、所長は関係あるの?」
きっぱりと言い切る彼女だが、相変わらずおっとりした表情なのであまり緊迫感はない。
「彼が受験したときの試験官が、所長だったんだと」
「はあ……」
キトリには理解できない世界だった。ロジェも訳が分からん、と言う表情をしている。
「ちなみに、女生徒の方は」
「ラシュレー先生が好きだったんでしょう? それくらいは見ていればわかるわ」
キトリに対して、「先生をいじめないで!」ときたものだ。これで好意を抱いていない方がびっくりする。
「……一応、姉さんには二人を責める権利があるけど……」
「ないわよ。言ったでしょう。軍人の命は、一般市民のものより軽いのよ」
「……」
ロジェとしては、姉のこの物言いが面白くない。キトリは軍人であろうが、ロジェにとっては、たった一人の家族なのだ。彼にとっては、キトリの命こそ重い。
「姉さんがいいと言うなら、これ以上は言わない。僕としては、もう少し自分の身を大切にしてほしいけど」
クールな外見の青年の、どこかふてくされたような言葉に、キトリはいつも通りおっとりと笑った。
「本当にいい子ね、あなたは」
「いい子とか言われる年じゃないんだけど……」
ロジェが十四歳の時に姉は軍にその身を招聘され、以降、ほとんど会えなかった。姉にとっては、ロジェはまだ十四歳の少年なのかもしれない。
「じゃあ、僕は先に行くよ。姉さんもあんまりのんびりしてたら、みんなが探しに来るよ」
「そうねぇ」
万事、のんびり構えているキトリだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
キトリさんはおっとり系軍人(現役)です。