【10】
「アレク。久しぶりだな」
人を避けてつかつかと歩いてきたその男性は、アレクシと似たような顔立ちをしていたが、いくらか年上に見える。当然だ。彼はアレクシの兄、エヴラールだった。くすんだ金髪に切れ長気味の青い瞳をした、まじめそうな男性だ。同じ理知的な顔立ちのロジェを知っているが、何故彼とこんなにも雰囲気が違うのだろう。ロジェがシスコンだからだろうか。
顔をしかめるアレクシを、キトリがちょいちょいとつついた。大人な彼女は、子供っぽいアレクシのそぶりを咎めたのである。
「……久しぶり、兄さん」
「奇遇だな……と思ったが、お前は応用魔法の研究をしているんだったな」
「ああ」
事実なので短くうなずいておく。と言うか、兄はなぜここにいるのだろうか。聞くのを少しためらった間に、エヴラールがキトリに視線を向ける。
「彼女は? 同僚か?」
おっとりと微笑むキトリが、自分より年上だと思えないのだろうな、とアレクシは現実逃避気味に考えた。エヴラールは二十三歳なので、キトリより三歳年下である。無視するわけにもいかず、アレクシはそれぞれを紹介する。
「同僚のキトリだ。キトリ、兄のエヴラール」
「キトリと言います。アレクシにはいつもお世話になっております」
「これはご丁寧に。アレクの兄のエヴラールです」
互いに自己紹介した後、キトリがエヴラールに微笑む。いつも通りの笑みだが、エヴラールは軽く目を見張って機能停止した。
「エヴラール、何を……アレク?」
げ、という声が漏れたかもしれない、と思ったが、キトリから忠告が入らなかったので、大丈夫だったようだ。今度は父セルジュの登場である。年齢からみるとこんなものだろうな、という中年男性である。ちなみに政治家だ。アレクシは、政治家の父がいる家が嫌で、魔法研究所に入った面がある。
「……父さん、久しぶり」
今度はキトリの指導が入る前に言った。スマートに近づいてきたエヴラールとは違い、セルジュはのそのそと近づいてきた。
「ああ、久しぶりだな。たまには帰ってこい……そちらのお嬢さんは?」
やはり、キトリに目を止めるようだ。今度は兄が「アレクの同僚で、キトリさん」と紹介する。セルジュがなるほど、とうなずいた。
「アレクの父のセルジュだ。倅が世話になっている」
「初めまして。キトリと言います。アレクシには私の方がお世話になっています」
キトリはセルジュが差し出した手を握った。
「セルジュさんのお名前は以前からお聞きしております」
そりゃあそうだろう。セルジュは帝国との戦争に力を入れている戦争推進派だから。メディアでは急進派と呼ばれているが、急進派とはちょっと違う気がする。
キトリはこれでも軍人だ。セルジュの名を聞いたことがなかったら、逆に問題がある。
「それは光栄だ。あなたのような可愛らしい女性に知っていていただけるとは」
「ええ、まあ。私は応用魔法戦術論を専門としていますから」
お前魔法理論が専門じゃなかったか? と思わないでもないが、確かに、応用魔法戦術論の方がキトリの論文は評価が高い。
「戦術論……マドモアゼル。大変失礼ですが、ファミリーネームをお聞きしても?」
「シャルロワです。キトリ・シャルロワと言います」
その瞬間、セルジュの顔が笑みを浮かべた。
「なるほど! あなたが智将と名高いキトリ・シャルロワ大佐ですか! はじめてお目にかかりますな」
何となく、父のキトリに対する態度が丁重になった。軍事関係に介入しているからだろうか。父はキトリのことを知っているようだった。
「……キトリ、有名人なのか?」
思わず、尋ねてしまった。肩をすくめたキトリに対し、父セルジュは「謙遜だな」と笑う。
「七年の間に二十一度の戦いに参加し、未だ一度も負けたことがない。ファルギエールの女神、アルトーの英雄、フィリドール女公爵の再来。一年ほど前から話を聞かなくなったが、魔法研究所にいらっしゃったか」
「……そんなたいそうな人間ではありません。一度も負けたことがないって……少なくとも四回、敗戦しているんですが……」
アレクシもそう聞いている。聞いているが、キトリ本人から聞いたので、もしかしたら周囲と彼女の認識で齟齬があるのかもしれない。
「何をおっしゃる。確かに大局で見れば負けているかもしれない。しかし、あなた自身は勝っている」
「私が戦っているわけではないんですけどね……」
持ち上げられてキトリは苦笑気味だ。戦場で心をすり減らし、戦地から遠ざかるを得なかった彼女にとって戦上手であることをほめられるのは居心地悪いことだろう。そもそも、彼女は基本的に心優しい善良な女性だ。
助け舟を出すべきだろうか。しかし、口のはさみ方がわからない……。ちらっと兄を見ると、エヴラールも困惑気味だった。
「大佐。もしよければ、今度、私が主催する交流会に参加いただけませんか。若い官僚や政治家たちを集めたものなんですがね。聡明なあなただ。きっと、話も弾みますよ」
キトリを引き込もうとしているのが、アレクシにもわかった。しかも、エヴラールが「いいかもしれませんね……」と期待した視線をキトリに向ける。彼女は平時と変わらずおっとりを小首をかしげた。
「私、これでも軍人ですから、政治にはかかわらないようにしているんですけど……」
文民統制と言うやつか。提唱したのは誰だったか。この国に導入したのは、キトリたちの曾祖母シャルロット・エメ・フィリドールである。
政治を行うのは文民。軍人は文民の統制下に置かれる。大まかに言うと、そう言うことだ。だから、軍人の枠組みにあるキトリは政治に関わることは出来ない、そう言いたいのだろう。
彼女がそう言っていても、全ての軍人が護っているかと言うと、そんなこともない。何しろ、この国は三十年前まで王制であったし、その時の体制が未だ残っているのだ。
もう十年、シャルロット・エメ・フィリドールが長く生きていれば。もう少し清廉な民主主義政治が行われただろうと、アレクシは推察するしだいである。
「そうですか。それは残念」
さすがに政治家であるセルジュは引き際をわきまえていた。アレクシは、キトリの目が少し細められたのに気付いた。
「せっかくお会いできましたが、私は他の参加者にも挨拶に行かねばなりませんので失礼いたします。アレク、大佐をちゃんとエスコートしろ」
最後に思い出したように言われて、アレクシは反抗的にセルジュを睨んだが、「わかっている」とだけ答えた。キトリはそんな彼を見てくすくす笑う。
「反抗期?」
「うるさい」
「いいじゃないの。可愛いわねぇ」
ふふっと笑ってキトリが微笑ましげにアレクシを見上げた。完全に弟扱いなのが気にくわず、アレクシはむすっとした。
「……仲がいいですね」
そう言えば、エヴラールがまだ残っていた。一瞬気まずくなったアレクシであるが、こういう時はキトリの方が肝が据わっている。
「私には弟がいるので、もう一人の弟のような感じでしょうか」
「……そうですか」
明らかにほっとした様子を見せるエヴラールは、実は政治家には向いていないと思うのだ。一応、父の後を継ぐつもりではあるようだが。
アレクシはと言うと、兄がキトリに気があるようでそわそわする。兄弟で好みが似るのだろうか……。一応、キトリは兄よりも年上であるが。
離れたところから父が兄を呼んだ。エヴラールはあわててキトリに礼をした。
「キトリさん、弟をよろしくお願いします」
「はい」
おっとりと微笑んだキトリに見送られ、兄は父の元へ向かう。兄は誰かに紹介されているようだ。
「お兄さん、政治家になるの?」
「……父と本人はそのつもりのようだが」
「そうなの……たぶん、あなたの方が向いてるわね」
「冗談でもやめてくれ。むしろ、キトリの方がうまくやりそうだが」
「それこそ、やめてくれー、だわ」
冗談めかしてキトリは言ったが、本気なのだろう。ロジェのために軍に身を投じた彼女だが、たくらみ事は嫌なのだろう。なのに、彼女自身は得意であると言うこの矛盾。
さて。ちょっとくらいどこかの研究討論にでも混じってみようか、と二人が思ったとき、その騒ぎが起こった。
「あなた! そのネックレスは私のものよ! 返しなさい!」
どこかのご婦人の叫びに、アレクシはキトリと目を見合わせた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。