ココア
2016/9/12投稿
秋風が凍みる。アルコールで火照った身体は、あっという間に冷めていく。
酔ってはいなかった。酔いたかったが、酔えなかったのだ。
みゆきは、自分でも驚くほどしっかりした足取りで、友人のマンションの階段を昇っていった。冷たいコンクリートが、ブーツの音を響かせる。
連絡はしてあったので、深夜だったが躊躇なく、インターホンを押すと、待ち構えていたかのように、扉が開いた。
「思ったより、早かったのね」
安心したような笑顔に迎えられ、みゆきは思わずうつむいた。
「ごめんね、突然、無理を言って。」
遅くまで飲んで電車に間に合わないから泊めてほしい、と電話したとき、優子は迷いもなく了解した。今、迎える表情にもなんのためらいもないように見える。
――私は、また、彼女に甘えている。
一見、頼りなさそうな優子だが、いつもひとをふんわりと包み込む優しさと強さを持っている。学生の頃から、みゆきは心が折れそうなとき、つい優子を頼る。
もっとも優子が何かをしてくれるわけではない。厳しくもなく、無条件に同情することもない。たぶん、揺らがないその優子の姿勢が、みゆきを冷静にしてくれるのだろう。
「寒かったでしょ、奥、座りなよ」
促され、みゆきはテレビの前の柔らかいソファに腰をおろした。
「ココアでいい?」
みゆきが頷くのを確認すると、優子はマグカップにポットのお湯を注いだ。ふんわりとした湯気とともに、カカオの香りが部屋に広がる。
「私、ふっちゃった。」
ぼうっと、テレビを眺めながら、みゆきはそれだけ言った。
「白川さん?」
「うん」
「そう……」
優子は、ほんの少しだけうつむいた。みゆきの恋愛が上手くいっていないことは、うすうす感じていたに違いない。気がついていなかったのは、みゆき本人だけなのかもしれなかった。ほんの少しのすれ違いで、男の心は別の女性に移っていった。誰が悪いわけでもないが、みゆきも、男も、もうひとりの女も苦しんだ。
「これで、さっぱりしたわ」
みゆきは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「辛かったね。」
ぼそり、と、優子が言った。
「好きだったんでしょ、白川さんのこと」
振ったのは私、と言いかけて、みゆきはやめた。
確かに、辛かった。辛いのは、まだ、あの男のことが好きだからだ。
小さく頷くと、涙がこぼれた。
「幸せになるよ、白川さん」
慰めようともせず、優子はそう言いながら、暖かいマグカップをみゆきの前に置いた。
そんなに、きれいな話ではないと思う。別れ話に踏み切ったのは、恨みや嫉妬や憎しみが、これ以上に膨らむのが嫌だったからだ。
でも。それは、どうしようもなく好きだったから、なのかもしれない。
「飲みなよ、暖かいよ」
ふんわりとした甘い香り。みゆきは、そっとマグカップに口をつけた。
「美味しい」
暖かい甘い液体が、冷たい身体を解きほぐしていく。
「私、また、恋、できるかな」
心が冷えていたのは、自分を偽っていたからだと気づく。苦しみのもとが暴かれると、不思議と心がほぐれてきた。
「懲りたって、言わないの?」
言葉と裏腹に、優子は優しく微笑んだ。
「もちろんよ」
涙は、止まっていた。
「じゃあ、できるよ、きっと」
甘いカカオの香りに包まれて、二人は心から笑った。
〈了〉