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初恋のひと

2014/8/28投稿

 草の上に舞い降りた霜が、キラキラと光を放っている。

 雲ひとつない、青い空に、冬の優しい太陽が輝いていた。

――今日こそは。

 その強い想いを胸に秘め、川村健吾はハンドルを握りしめた。

 松山優子は、健吾の高校時代のクラスメイトだ。電車の中で偶然に再会してから、メールや電話のやり取りを続け、二人きりで会うのは今日で三回目になる。三度目の今日は、思い切って隣県の水族館までドライブすることにした。車という密室の中で一時間以上はふたりきりで過ごす……そのことが楽しみでもあり、不安でもある。

 二十八歳にもなる男女が、二度もデートをしているにもかかわらず、未だに、手を握ってすらいない。

 ふたりの関係は、まだ友情の域を超えていないのだ。

――今度は、絶対に後悔しない。

 高校生の頃、ふたりはもう少しで触れ合うことが出来たのだと思う。

 同級生にはやし立てられ、思わず口走った「好きでもなんでもない」という言葉を境に、優子はあきらかに健吾と距離を置くようになった。その距離を縮めたくとも、受験という難物に翻弄され、ついに縮めることはかなわなかった。

 十年たてば、ヒトは変わる。

 恋もした。女の肌も知った。そして、愛欲から生まれる醜さも知った。

 健吾が変わった十年分、優子も変わっているのだろう。

 今更、高校時代の初恋を叶えたいわけではない。

 恋した相手が、たまたま初恋のヒトだっただけだ、と思う。

 駅のロータリーに車を滑らせていくと、暖かそうなベージュのロングコートに身を包んだ優子の姿が見えた。

 サラリーマン風の男に話しかけられ、困ったようにロータリーに入ってくる車に目をやっている。

――セールスかな?

 優子の前で車を止め、窓を開けて、健吾は声をかけた。

「おはよう。待った?」

 急に声をかけられてびっくりした顔をしてから、ほっとしたように優子は微笑んだ。

「それじゃあ、私、この辺で」

 優子が軽く会釈をすると、相手の男は愛想よく笑った。

「気をつけて」

 そして思いついたように、

「また、今度」

 そう付け足して、一瞬、優子が気がつかないような角度で、嫉妬のこもった視線を健吾に投げて、駅の改札へ消えていった。

「ごめん、セールスかと思って。知り合いだった?」

 コートを脱いで、助手席に乗り込んだ優子は、ふうっとため息をついた。

「助かったわ。会社の取引先のヒトなんだけど。苦手なの」

「かなりの二枚目だったね」

 それが問題なのよ、と優子は言った。

「私、担当だからよく話すのよ。そうするとね、同僚に睨まれるの」

 本当に面倒だ、という顔で優子は首を振った。

「松山に気があるんじゃないのか、あの二枚目」

 立ち去り際の自分に向けられた視線を思い出しながら、健吾は優子の顔を覗き込んだ。

「馬鹿言わないでよ。うちの会社にはもっと若くて可愛いコ、いっぱいいるのよ。何で好き好んで、私なんか……。」

 優子は迷惑そうに口を尖らせた。そんな表情までも可愛いと、健吾は思う。優子は自分が魅力的な女性だということに、気づいていない。

「もしそうだとしても、悪い人じゃないけど、ちょっと軽くてタイプじゃないわ」

 本当に心からそう思っているようだった。胸がほっとするのを感じながら、健吾はあわてて視線をそらし、車をスタートさせた。

「じゃあさ、参考までに、どんな男が好みなんだよ」

「……」

 沈黙してしまった優子をちらりと盗みみると、頬を染めてうつむいていた。

「……いっしょにいて楽しければいいな、って思うけど」

 やっと、それだけ言った。

 不安げな優子の視線が自分を見つめているのを感じて、健吾の胸が騒いだ。

 少なくとも今は、あの二枚目より健吾のほうがリードしているようだ。

――それにしても、奥手というか、鈍いというか……。

 あの様子と今の話では、あの男は、かなりアタックをかけてきているのだろう。それを優子は全く気がついていないようだ。

――まあ、だから俺にもチャンスがあるんだけど。

 女性の気は変わりやすい。風が吹いているうちに、捕まえなければ普通は、二度と捕まることはない。運よく巡ってきた二度目のチャンスを逃すようなへまは、絶対にしたくない、そう思いながら、健吾は車を走らせた。


「楽しかったね」

 水族館から、駐車場への道をたどりながら、弾むように歩く優子を、複雑な思いで健吾は見つめた。

 冬にしては暖かい日とはいえ、港のすぐそばだから、海からの風が強い。

 好感は持たれている自信がある。だが、それは男としてなのか、友人としてなのかが、いまひとつつかめないのだ。

 優子は「距離感」に敏感だ。肩や手が不意に触れることはあっても、ごく自然に身を引いて、「友達」としての距離に戻っていく。それが健吾を不安にさせていた。

――だからと言って、このままなら高校時代と変わらない。

 もっともあの頃は、ふたりきりでこうやって歩くことすらできなかった。放課後の教室で思いがけず二人きりになった日は、それだけで有頂天になれた。

「どうかしたの?」

 駐車場にたどり着いたのに、考えに沈みこんでしまった健吾を、不思議そうに、優子は覗き込むように見た。

「いや、別に。きれいだなって」

 長い睫。ふくよかな唇。すらりと伸びた手足。本人は気がついていないようだが、優子の姿はかなり人目を引く。特に、こういう不思議そうな表情をしたとき、健吾の胸は騒がずにいられない。

「ほら、海が、さ」

 冬のやさしい日差しに照らされて、海は青くきらきらしていた。

「本当ね。静かな冬の海もいいものね」

 優子は納得して、駐車場から見える青い海を見た。

「あ、そうだ。忘れないうちに」

 優子はかばんの中から小さな包みを出した。

「これ、今日のお礼。バレンタイン近いから、チョコレート。もらってくれる?」

 受け取ってよく見ると、ずいぶんと気合の入ったラッピングだった。

「ひょっとして、これって、手作り? 今、開けていい?」

 その言葉に、火が付いたかのように優子の顔が真っ赤になった。

「うまくできているかわからないから、家で食べてよ。不味かったら捨ててくれればいいから。」

「今、食べたら、駄目なの?」

 さりげなく、今開けないで、と、訴えるような優子の口調が気になった。

「……。だって、目の前で不味いって言われたら立ち直れないもの」

 蚊の鳴くような声で優子は呟く。

 何かがおかしい。

「変なこと言うなあ。最初から不味いって決まっているみたいじゃないか。」

「そんなことない。一応、味見はしたもの。ただ口に合うとは限らないじゃない。」

 むきになって、優子が叫ぶ。どうしても、ここで食べられては困るらしい。健吾は諦めて、もっと気になることを聞くことにした。

「ところで、これって、何チョコなの?」 

「トリュフだけど」

ほっとしたような顔で、優子は答える。健吾は思わず苦笑した。

「そうじゃなくて、本命とか、義理とか言う意味で」

「……」

 もう一度頬を染めて、優子はうつむいた。

「俺としては、本命だったらうれしいんだけど」

 健吾としても、ここまで口にしたからには後には引けなかった。今朝見かけた二枚目の顔が頭に浮かぶ。絶対に渡すものかと、思った。

「私を、からかっているの?」

 優子は泣き出しそうだった。

「まさか」

 健吾は優しく優子の髪をなでた。淡いシャンプーの香りが漂う。

「松山に再会したのは、本当に偶然だったけれど、声をかけたのは懐かしかったからだけじゃない」

 周りに人がいないのを確認すると、健吾は強引に優子を抱き寄せて、唇を奪った。

 突然の出来事を理解できないかのように、優子はさっと身を引いて、震えながら健吾を見つめていた。

「好きなんだ。友たちとしてじゃなく、恋人として付き合ってくれないか」

 その言葉をゆっくり飲み干すと、優子はうっすらと涙を浮かべて笑顔で「はい」と、答えた。

 今までに見た笑顔の中で、一番美しい笑顔だった。

「嬉しい……嘘じゃないよね。信じられないよ……。」

「俺もだ」

 健吾は優子の体を引き寄せるともう一度唇を重ねた。すぐ身を引くと思ったのに、優子は逃げなかった。柔らかい体を従順に健吾の胸に預けてきた。

 漂う女性の芳香に酔いそうになって、健吾はあわてて、身を離した。

「なんか、ほっとしたら腹減っちゃった。飯、食いにいこうぜ」

「もう。強引なくせに、野暮なんだから」

 優子はほんの少し口を尖らせながら、笑った。

――本当に食べたいのは、食い物じゃないんだけど。

 唇には優子の唇の感触が残っており、健吾は体中が熱くなるのを感じながら車に乗り込んだ。

 冬の太陽が優しく世界を包んでいた。


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