ダメになる
「先輩!9巻だけ抜けてます!」
後輩の須田姫子が紙袋をずいっと持ち上げて俺を睨んでいる、日曜の昼下がり玄関前。
「……ん?ちょっ……ちっと待て、待て待て……」
寝癖爆発頭の俺は上下スウェット姿にぼやけた視界と脳みその焦点を必死で合わそうとするが、まだ起きていない身体の機能を使いこなせない。
……確かに金曜の仕事終わり、須田が読みたがっていた漫画を俺は持っていたから貸した……ことは思い出したが……。
「……先輩!ちょっとお邪魔しますから!」
須田は紙袋を俺に押し付け無理矢理、俺と玄関の枠の間に入り込む。
その際、ふわりと香った須田のシャンプーに俺は少し目が覚めてしまった。
「お前なぁー、急に押しかけてくんなよなぁ……」
いい大人がアポ無し訪問とかありえんだろ。
俺は不機嫌を隠さず須田の背中に文句を浴びせた。
「先輩!」
「……っ!」
須田が狭い玄関で突然振り返ったのでお互いの顔が触れそうになった。
言っておくが、俺は須田より背は高い。
なのにこうして真ん前に須田の顔があるのは彼女がヒールの高い靴を履いているからだ。
「先輩が悪い!」
「はぁ?」
キッパリ言い切った須田に思わず凄む。
「こんなおもしろい漫画を貸しといて、一番山場の9巻がないなんて!私……私……ウー!ってなりますよ!アー!ってなりますよ!突然押しかけるあぶない奴になっちゃいますよ!」
「………」
須田よ……お前の歯磨き粉風味の唾が俺の顔にめちゃくちゃ散っておるのだが……。
「先輩が悪いんです、私は悪くない……これでも夜中は我慢したんだから……貸りといて買ったら負けなんだから……」
須田がブツブツと口の中で何やら言っている。
仕事でも自分が責められると独り言モードになって、どうして責められたのか納得するまで説明してやらないとこれは止まらない。
「はぁー……須田、とりあえず上がれ、ここは狭いし近い」
俺は顔をできるだけ背けて言い、須田を促す。
「……はい」
カコカコとヒールの靴を脱ぎ、須田が俺の足の踏み場もないワンルームへと入った。
「……先輩、なんですかこの部屋……汚い、くさい!」
須田が俺の万年床を踏みたくり部屋を横切って、カーテンと窓を開けた。
寒風が吹き抜け、俺の匂いがいくぶんか消え去る。
「……ちょっと顔洗うから待ってろ……」
紙袋をそこら辺へ置いて俺は須田の唾を洗い流すべく風呂場へ移動した。
顔を洗い、歯を磨き、寝癖も水で落ち着かせてから部屋へ戻ると俺の布団が消えていた。
「おい、須田、布団はどこだ!」
腕まくりをして散らかった物をゴミ袋へ入れている須田に怒鳴る。
「干しました」
当たり前のように窓を指さし須田がツンと顎を上げる。
狭い窓に俺の布団が敷いていたまんまの形で掛かっていた。
「勝手に俺の物を干したり捨てたりするな!」
後輩の高飛車な態度に負けるものかと、窓から吹き続ける寒風に震え上がりながら怒鳴る。
「……先輩、捨ててません。ゴミ袋に入れているだけですけど?」
「……こいつ!」
あまりの態度に俺はカッとし、須田の腕をつかむ。
職場でも上司からチクチク言われているのだ。
須田が俺をなめているんじゃないか、と。
うちの職場は大抵、先輩後輩ペアで仕事をこなす。
縦の関係がしっかりしていないと職場全体の雰囲気が崩れるのだ。
ただでさえ男先輩、女後輩のペアはやりにくいってのに……。
ここらで一発ガツンと言っておかないと、俺が腹立つってより須田がダメになってしまう。
「いい加減にしろ!私生活に土足で踏み込んできて、節度をわきまえないか!」
今度は俺の唾が須田の白い顔に散った。
須田はちゃんと目を閉じて少し顔を背けている。
俺はそんなことしなかったのに!コニョヤロー……。
「……先輩……土足じゃありません」
目を閉じ、顔を背けたまま須田は自分の足を指さした。
もこもこの靴下はあったかそうだな……ってちがーう!
「お前って奴は……」
俺は脱力感に襲われ、その場にへたりこんだ。
「先輩!大丈夫ですか!」
須田が驚いて俺の顔をしゃがんで覗き込む。
「……須田よ……」
「はい……」
「帰ってくれないか、休みの日まで職場の人間に会いたくないんだ」
「……」
「千円預けるから、あの漫画の9巻買っといてくれ……それでお前も読めるだろ」
「………」
疲れた。
起きて数分足らずで疲れたことが悲しい。
人間て、意外なことが悲しいもんなんだな……。
深い深いため息をつき、ガックリと肩を落とす。
「先輩、岡田先輩」
須田がしつこく俺に呼び掛ける。
「っだよ……帰ってくれよ……」
どうして俺は半泣きになりそうなのだろうか……。
震える声が若干、湿り気を帯びていることに情けなくなる。
「帰りません。とにかく掃除をちゃちゃっと終わらせて、ご飯食べましょう」
「はぁ?帰れって言ってんの!分からん奴だ……っ!」
言い終わる前に何か、柔らかくていい匂いに包まれた。
「先輩、これじゃあダメになりますよ、せめてきれいな部屋でご飯食べないと」
「………」
ど、どうやら、俺は須田の胸に抱かれている、ヨウダの模様だな……。
「私にお任せください!」
数十分後……。
俺と須田は久方ぶりに見えた床の上でメシを食っていた。
狭い部屋なので二人で掃除すればあっという間だった。
「本当は布団のシーツも洗濯したかったんですけど……」
うどんをすすりながら須田が悔しそうに言う。
「……もういいよ、充分だ」
俺もうどんをすすりながら答える。
冷えた身体に熱いつゆが染み渡ってうまい。
「先輩、私のこと迷惑だと思ってます?」
箸を置き、須田が悲しそうに呟いた。
いつも怒るか睨むか、勝ち気な表情が主な須田の初めて見る顔だった。
「……迷惑とは思ってない」
仕事だからな、とは付け加えない方がいい気がしてやめた。
「嘘、私のことを煙たそうにしてます」
「……してるつもりはない」
「……じゃあ、私のこと好き……ですか?」
須田が不安そうに瞳を揺らす。
やいやい、須田よ、なぜそうなる?それに、いつものキャラじゃねーぞ。
調子狂うから。
「その質問に俺は答える気はない。須田は俺の後輩、それが過不足ない事実だよ」
俺も箸を置いた。
須田は後輩だ。
初めて会った時から仕事場の人間で、男も女も好きも嫌いもない。
俺は須田を教育して使える人間に育てる。
そして、いつかは俺の下を卒業して、須田の下にも後輩がつくようになってもらう。
「……ダメになりますよ」
「……何が?」
「私をただの後輩のままにしていたら先輩はダメになりますよ!」
いつもの睨む表情が目の前に現れる。
「ならねーよ、早く帰れって」
もうさっさっとどっか行ってくれ、俺はキャバクラへ行ってストレス発散すんだからよ。
「先輩の人生、9巻抜けたままでいいの?!」
「はぁ?」
「……いえ、完璧に全巻揃えなくてもいいけど、同じダメなら私ありきでダメになってください!」
「………」
須田がコホンと一つ咳払いをして姿勢を正す。
「先輩、私でダメになって?」
「帰れー!」
なんとか須田を追い出して俺はキャバクラへゴールした。
……しかし、どうしたことだろうか。
楽しくない。
酒に酔えない。
ご指名のクルミちゃんのたわわな胸も、今日はまったくそそらない。
それどころか須田のほんのりと柔らかかった胸の感触が余計に思い出される。
月曜になり、仕事に忙殺されて須田との関わりもいつもとなんら変わりないのにどんどん物で埋め尽くされていく床が切ない。
ぺちゃんこになって湿気た布団が悲しい。
「………」
夜中に目覚めては、取れない疲れに頭は冴える。
須田は日曜日いつもと髪型が違っていた、とか、紙袋を持っていた手が微かに震えていた、とか、うどんに入っていたネギがつながっていた、とか、あの悲しそうな表情にドキッとした、とか。
あの時、見えていたのに見えていなかったことが、感じていたのに響かなかったことが、後から後から湧き出てきて俺は困ってしまう。
これは……ダメになり始めじゃないか?
だいたいダメってなんだ?
部屋が汚いとダメなのか?
社会人として。
須田を女として見たら俺はダメなのか?
先輩として。
冴えた頭で気がつけば、冷たい不安が心の裏側を撫でたことに途方に暮れるのだった。
「先輩」
浅い眠りの夢の中で須田が俺を呼ぶ。
嬉しそうに、偉そうに。
この声に答えたら俺は負けだ。
勝ち負けじゃないとしても、負けだ。
ダメになるのは俺の方になる。
答えなければ須田がダメになる。
しかし、俺がいつまでも黙っていると須田はどうするのだろう?
……あいつはダメになる前に呼ぶのを止めそうだな。
「先輩、9巻買ってきて読みました。これ、漫画とおつりとレシートです」
仕事終わり、須田が俺のデスクへ来て漫画と小銭を渡してきた。
「つりはやるよ、すまなかったな」
結局、9巻は掃除しても見つからず、須田に買っておいてもらったのだ。
「いりません。お疲れさまでした」
あっさりとそっけないくらいな態度に、事務的な声に、俺は少しびっくりしてしまう。
しかし、俺はすぐに納得して頭を切り替えた。
仕事用に。
「おう、お疲れさん……」
須田は俺を呼ぶのを止めたんだ……。
「……ふぅ」
短く息を吐き、残っていた打ち込み仕事に戻る。
タイピングのカチカチと鳴る音、電話が鳴る音、まだ数人残っているやつらのざわめき。
機械のように無心で数字や文字を打ち込む。
仕事だ、俺は仕事をしている。
ダメになんかならない。
汚い部屋も掃除すればいい。
須田に文句を言いながらした掃除はずいぶんと疲れた。
ちゃっかり言い返す須田に、俺も興奮して大人げなかったな。
「ふっ……」
生意気な須田の顔を思い出して、鼻で笑う。
……バカな奴。
俺なんかどこがいいんだよ。
口うるさい先輩を煙たく思っているのはそっちだろ?
仕事以外で一緒に居たら、俺で須田がダメになるよ。
須田を女として意識したっていつも通り先輩してたらいい。
そうすればお互いダメにならずにすむさ。
パソコンの電源をおとし、帰り支度をしているとスマホが短く震えた。
メールだ。
『先輩、まだですか?下でずっと待っているのですが。寒くて死にそうですが。』
「……こいつ」
スマホの画面を見下ろしながら知らず笑っている自分に気がつく。
やばい、俺の負けだ。
〈おわり〉
一日遅れましたが、いつも読んでくださっている皆様へ、一方的なクリスマスプレゼントです。
いつもありがとうございます。
これからもよろしくお願いいたします。