Fly high!!
「できるさ。僕にだって飛べるんだ」
小刻みに震える右手には、若い男女が幸せそうに顔を寄せ合い笑っている写真が一枚。
十四歳の少年はゆっくりと歩き出したかと思うと、そのまま走りだし、全力で十五階建てマンションの屋上を駆け抜ける。
そして、漆黒の闇に浮かぶ赤みがかった満月に向かって――
――飛んだ。
◆
『……昨日の空間転移失敗による死者は三名でした。我々報道関係者は繰り返し申し上げます。決して無暗に空間転移を試みてはなりません。ご自分の命を……』
くだらない。そう心の中で呟きながら秋名はテレビの電源を落とした。
六畳半の和室には、円卓とブラウン管テレビ、そして壁の隅に固定された本棚以外に目立つものはない。円卓の前に座る秋名は、静まり返る部屋で落ち着きを失っている。
秋名には、十一も歳の離れた春という名の兄がいた。どんな状況にあろうと、まるでヒーローのようにかけつけて秋名を守ってくれる。そんな兄の迫力のある声が今日は聞こえない。それもそのはず、春はフィアンセと共にイギリスで幸せ旅行の真っ最中だった。
静けさに耐えられず、秋名は仕方なくもう一度リモコンに手を伸ばす。テレビ画面の中では、先ほどの司会者がいまだに空間転移の危険さを訴えている。秋名はそのバカな試みにうんざりしていた。無駄に死の危険を冒す必要がどこにあるのか、と。
空間転移という能力を人々が認識したのは、今から三ヶ月ほど前にアメリカで全世界同時放映された生放送番組でのことだ。サンタクロースみたいな真っ白な髭をなびかせた老人が、六十階建てのオフィスビルの屋上を全力疾走し、飛び降りた。
落ちる、いや、死ぬ――視聴者の誰もが目を覆い隠そうとしたであろうその瞬間。
老人は消えた。
誰もが硬直し、まさに時が止まったように静まる中、老人はメインスタジオのカメラの前に忽然と姿を現してこう言った。
「If it is man, everyone is possible. (人間なら誰だって可能だよ)」
そしてその時、全世界数十億の人々は人間の未知の能力に畏れ、震えた。
それからというもの、条件さえクリアすれば誰にでも空間転移が可能だと理解した人々は、様々な場面でそれを実行した。しかし、条件をクリアしている、と勘違いした一部の人々は、一瞬で命を失った。
飲み物を取りに台所を訪れた秋名は、冷蔵庫に磁石で固定してあるいくつかの紙切れを見て、ため息を漏らしていた。
『食事のあとは歯磨きを忘れずに!』
『夜十時には布団に入ること!』etc……
(僕は小学生かよ……ウザすぎ)
紙切れに書かれた言葉をひとしきり読み終えると、そのすべてを剥ぎ取ってゴミ箱へ勢いよく投げ込んだ。
円卓の前に戻った秋名は壁に掛けられた時計に目を移す。夜九時を回っていた。またも大きなため息が漏れる。春が旅行に出発した一昨日から、毎日この時間に電話がかかってきていた。そして、携帯の電源を切ろうとした直後、聞き慣れたメロディが静まる部屋に響き渡る。
「おう、今日も生きてるか? なんてな」
携帯から聞こえてくる、耳ざわりなほどに無駄に明るい声が秋名の気分を害す。
「……もう電話いいから。春は気にしないで旅行楽しみなよ」
「おま……兄ちゃんのことを想ってそんなこと……」
携帯を通して伝わってくるのは、春の嘘泣きの演技。
(なんなんだよ一体……)
秋名の落ちた気分は、急降下したジェットコースターが余力で傾斜を上るように、別の感情へと変わり始めた。
「そういえばさ、僕、熱あるみたい」
「……!」
携帯の向こう側の雰囲気が変わるのを感じて、秋名はニヤリと口元をつり上げる。
「何度あるんだ?」
「さっき計った時は三十八度くらいだったかな」
兄が自分を心配することが分かっているからこそ効果的な嘘になる。秋名はそれを十分に理解していた。
しかし秋名の嘘は、想定していた範囲外の結果を招くことになる。
「今から行くから、すぐに布団敷いて寝ろ」
え? 秋名の目が若干大きめに開く。
「な、何バカなこと言ってんのさ。気にしないで旅行続けなって」
「いいから寝てろ!!」
兄の怒声に驚き、秋名の右手はあやうく携帯を離しそうになる。
携帯を耳に強く押し当てることで震える右手を制御しながら、秋名は口調を速める。
「春、僕なら大丈夫だか……ら……」
言い終わる前に通話は切られた。
携帯の画面を見つめつつ、秋名は金縛りにあったように静止する。そして次第に大きくなる心臓の鼓動を感じていた。
そのあと何度か、かけ直しを試みたものの、繋がらない。海外ということもあり電波の状態がおかしいのか、それとも単に充電が切れたのか。
秋名の焦りは身体の異常に現れる。心臓の鼓動はますます速くなり、呼吸の乱れを助長する。秋名は呼吸を整えながら、空間転移を行うための条件を頭の中で再生した。
条件一『今いる位置より低いところへジャンプすること』
条件二『ジャンプにより、確実な死の恐怖を感じること』
条件三『転移する距離に応じた明確な理由が存在すること』
条件四『転移する場所、もしくは人物を思い浮かべられること』
春は何度か空間転移を行ったことがあり、普段であれば条件を誤認するはずがないと確信できた。しかし、今回は違う。春に、イギリスから日本までの超長距離を飛べる理由がない。
秋名の熱は嘘なのだから。
――したがって、条件三を満たすことができない。
転移する距離に応じた理由をいったい誰がジャッジするのかは定かではない。ただ、ジャッジする何かは確実に存在する。秋名は、兄が飛ぶたびにそう口にしていたのを思い出す。
自分のささいな嫌がらせが兄の命を奪うかもしれない。背後に死神が姿を現したかのように、秋名の心に不安と恐怖という名の闇が堕ちる。
洗面台には、夕食をとった後に歯磨きをした形跡。寝室には夜九時前に敷いた布団。春の言いつけをきっちり守る秋名がそこにいた。
秋名は、本棚の上の写真立てから一枚の写真を抜き取り、玄関の下駄箱の中に隠してある頑丈な針金を乱暴に掴む。そして靴もはかずに外へ飛び出した。
普段使われない階段を二段飛ばしで駆け上がり、マンションの屋上へと続く扉の前にたどりつく。小さい頃にいたずらで、このカギのかかった扉を何度か開けたことがある秋名は、持っていた針金でカギ穴をガチャガチャといじる。
しかし、開かない。
「……なんでだよ。開けよ、開いてくれ!」
焦りは言葉として表面に現れた。両目に涙を溜めこみながら、震える手でカギ穴をいじくる。
カチッ。
秋名は安堵する気持ちを瞬時に抑えて扉を開け、冷たいコンクリートの上で足を止める。
息が切れている。
心臓の鼓動が身体の芯を揺るがす。
右手には力が入り、掴んでいる写真が歪む。
足元のコンクリートから伝えられる冷たさが、沸騰する秋名の身体をこころもち冷やしてくれる。
秋名の目の前には、死を暗示するような緋色の満月が浮かんでいた。
持っていた写真を数秒見つめて、自分が飛ぶ相手の顔を頭に刻み込む。当然、兄の顔を分からないわけがなかったが、空間転移の経験がない秋名は、少しでも不安を拭おうと必死だった。
「できるさ……僕にだって飛べるんだ」
秋名はゆっくりと歩き出したかと思うと、そのまま走りだし、全力で十五階建てマンションの屋上を駆け抜ける。
そして、漆黒の闇に浮かぶ赤みがかった満月に向かって――
――飛んだ。
◆
「本当に……大丈夫なの?」
春の傍らにいる夏美は、込み上げる不安を隠せない。
「大丈夫。日本までの距離だと『人の死を助ける』くらいの理由が必要だけど、必ず成功する」
「でも秋名君、ただの風邪かもしれないじゃない」
「秋名は免疫力が特別弱いんだ。三十八度以上が出たら完全に赤信号、でも秋名はそれを自覚していない。最後に発熱したのが四歳のときだからな」
そわそわする夏美の前で屈伸運動をする春は、いつも通りの空間転移を思い描く。
二人がいる場所は、観光地として有名なタワーブリッジの上にかかる歩行者通路。そこから、川ではなく、橋の途中にある柱の低い部分――コンクリートに向かって飛ぶことで死の恐怖を確実に感じようという試みだ。
準備運動を終えた春は、今にも泣き出しそうな夏美の両腕に軽く手を添える。
「大丈夫。夏美を独りにはしない。すぐに戻ってくるからさ」
「すぐに戻ってなんてこれないくせに……死んだら私も死ぬからね……」
「だーいじょうぶだって! 俺は死なないよ」
そう言いながら春は、泣きじゃくる夏美を抱きしめて背中をポンポンと叩く。
「……?」
夏美はふと、視線の先の空間が歪んでいることに気づく。
「春、後ろ、なんか変……」
「え?」
春が振り向くと同時に、空間に完全な円形の穴が開く。
「……ぅぁあああぁああああ!!」
「あ……秋名!」
春は胸に思いっきりダイブしてきた秋名を受け止めようとするが、勢いに勝てず後ろに倒れこむ。
「いてて……って、何してんだおまえ! どっから飛んできた!?」
秋名は震える両手を見て、生きていることに心から安堵した。安心感で意識を失いそうになるが、顔を上げるとそこには大好きな兄がいた。
「……兄ちゃん……僕、飛べたよ……。嘘ついてごめん、兄ちゃん……」
秋名は兄の胸に顔をかぶせ、小さく声を上げて泣いた。
「え、どういうこと……だ?」
春は弟が飛んできた理由、飛べた理由が全く分からなかったが、すぐに心をシフトする。
昔のように『兄ちゃん』と呼んでくれた秋名をやさしく包み込む。胸にうずくまって泣く秋名を見て、理由なんてどうでもよくなったらしい。
「ありがとうな。秋名」
秋名の右手には、くしゃくしゃになった写真が力強く握られていた。
本作はつくりあげてから3年が経とうとしています。
三歩進んで二歩下がる、ならいいのです。
でも最近は、二歩進んで三歩下がっている気がするのです……orz