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屋上の重い鉄扉を開けた先、そこにいたのはひとりの女の子だった。
「…………」
フェンスの向こうを見つめているせいで、彼女が一体誰なのかは伺えない。だけど相手が女の子というだけで不覚にも心臓が高鳴ってしまうあたり、なんだかんだ言って僕もこの榊山高校での青い春への期待を捨てきれていないのかもしれないなあ、なんて他人事みたいに思いながら、後ろ手にゆっくりと扉を閉める。
がちゃりという重厚な音に、少女がぴくりとその薄い肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
ぶわりと広がる長い髪。
沈みかけの西日に照らされて、彼女の白い肌頬が黄昏にきらめく。
「あ」
口元に柔らかな微笑みをたたえて僕を見つめる少女の顔には見覚えがあった。クラスメイトの下枝はぐみだ。席が離れているし話したことはおそらく一度もないけれど、存在くらいは知っている。なんせ美人だし。
そんな彼女が僕に一体なんの用だろう。疑念と不安とほんのちょっとの期待を抱きつつゆっくりと近づいてくる彼女をぼんやりと見つめている、と。
なんとなく違和感を覚えた。心なしか周囲の空気がひりひりと震えているような気がする。
……殺気?
眉をひそめたところで下枝がぴたりと立ち止まった。僕と彼女の距離はそれでもまだ十メートルほど離れていて、いつの間にか下枝の右手に握られているのは明らかに銃刀法に抵触しているそれはそれは大ぶりのダガーナイフ。その尖った刃先が、太陽の光にきらきらときらめきながらゆっくりと僕に向けられる。
「……は?」
いや、え、ナイフ?
突如具現化した非日常に息が詰まる。下枝の手元に目がひきつけられて離せない。乾く眼球に瞬きすら供給できないまま、彼女の口端からちろりと覗いた犬歯をとらえ、
「っ、」
直後には押し倒されていた。距離を詰められたことに気付かないほどのスピードにろくな抵抗もできず、無様に屋上の防水用ゴムシートの地面に倒れこんだ僕は後頭部を派手にぶつけ、頭蓋に響く鈍痛に顔をしかめる。
僕の上に馬乗りになった下枝はぐみの長い髪がふわりと垂れ、僕の頬を柔らかくくすぐった。
ナイフの刃先は的確に僕の頸動脈を捉えていて、今更全身にじわりと嫌な汗が噴き出てくる。
静寂。
膠着状態。
聞こえてくるのは互いの息遣いと、場違いにもほどがある小鳥たちの呑気な囀り。
至近距離にある下枝の整った顔に表情は一切ない。沈黙を保ったままの彼女の色素の薄い大きな双眸が、なにかを吟味するようにすっと眇められていく。
あ、もしかして僕今ここで死ぬのか、とようやく現状を理解する僕。だけど死という現実がもう目の前まで迫っているというのになぜか恐怖心は一切湧いてこない。そのかわりに覚えるのは、やっぱりこんな高校入らなきゃよかったという後悔で。ふわふわとした意識の中、ぼんやりと今朝の春川さんの言葉を思い出す。
すべての失敗は誤算から生まれるんだよ。
……まったく、その通りだ。
僕は、誤算に殺される。
――そして、ナイフを握る下枝の手に力がこもるのが見て取れて。
「……ちがう」
そこで初めて、下枝はぐみが口を開いた。
「えっ?」
「いやー、うん、間違えた」
とかなんとか言いながら首元からナイフを離し、僕の上から退く下枝。なにがなんだかわからずに仰向けのまま呆然とする僕。
……間違えたって、なにを?
屋上の生ぬるい地面にぺたりと座り込んだ下枝は、疑問符を飛ばしている僕を見下ろして、ちょっぴり照れくさそうにがしがしと後頭部をかいた。
「ごめんごめん、人違いだわ」
「はい?」
「うわーよく見るとぜんっぜん顔違うじゃん、どこをどう見間違えたんだろあたし」
「ちょ、ちょっと待て」
え、なに言ってんのこの人? 戸惑いと混乱を覚えながら、力の入っていない体を無理やり起こす。胡坐をかいて下枝はぐみと向き合った。
「どういうことか一からはっきり丁寧に教えてほしいんだけど」
「いやあ人違いよ人違い。今日コンタクト入れてないから全然見えてなくてさー視界ぼやぼやでさー、きみあたしの標的にちょっと造形似てたもんだからうっかり刺し殺しちゃうところだったよ、よかったねーほんと、あたしに気付かれなかったらきみ死んでたよ今ここで。九死に一生をなんちゃらみたいなやつ?」
僕を殺そうとした張本人のくせにまったく悪びれる様子なくべらべら偉そうにまくしたてて、下枝はぐみは持っているナイフを手の中でくるくるともてあそぶ。
「……人違い」
なんとなく彼女の言葉を復唱して、ぼんやりふわふわした思考でその意味を考える。
うーん、人違い。
人違いで、殺されかけたのか、僕。
「え、怖」
「ねー怖いね」
僕を殺そうとした張本人のくせにまったく悪びれる様子もなく同意してくる下枝はぐみに、僕はなぜだか大した怒りの感情も覚えずにほんと良かったなあうっかり死ななくて、なんて安堵する。
深いため息をつきながら全身に襲いくる倦怠感と虚脱感に身を委ねていると「……あ」ふと、スルーし難い疑問に気付いてしまう。
「え、ていうか、じゃあ下枝は誰を殺」
ひゅん、という微かな風切り音がした。直後、僕の首筋にひんやり冷たいなにかが当たる。再び僕の頸動脈を狙う下枝の表情のこもらない大きな瞳に射抜かれて固まる僕。
「なんであたしの名前知ってんの?」
「え」
まったくもって想定外の質問だった。しどろもどろになりながらもなんとか声を絞り出す。
「いやほら、だって一応クラスメイトだし」
「クラスメイトぉ?」
風でぼさぼさになった長い髪をかきあげながら、下枝はぐみは僕の首からナイフを離して気だるげな声で言う。
「あーごめんあたしクラスメイトの顔全然知らないんだわ」
クラスメイトかどうかなんて下駄箱に手紙を入れた時点でわかるだろうに、とは思ったもののそれを口にしたら今度こそなにをされるかわかったもんじゃないので黙っておいた。
「で、少年、名前は?」
同級生に少年なんて呼称で呼ばれることに多少の違和感と不快感を覚えながら、個人的にはあまり気に入っていない自分の名前を口にする。
「瀬野さつき」
「せのさつき」
語感を確かめるみたいに数回つぶやいて、うんうん頷く下枝はぐみ。
「仕事は?」
さらりと尋ねられて僕はげんなりする。生徒みんながなんらかの仕事をしているのが当たり前という考え方はやめてほしい。
「なにもしてないよ。生憎僕は一般人なんでね」
「つまり無職」
「その言い方には悪意を感じるな」
「ふうん」
更にうんうん頷きながら今度はぐいっと顔を近づけてきた。突然眼前いっぱいに広がる端整な顔に、先ほどとは違った意味でどきりとしてしまう。
だけど下枝はそんな僕に気付いた様子もなく「んー?」とか言いながらぶしつけにじろじろ見つめてくる。うーん居心地が悪い。もしかして顔になにかついてるのかと不安を覚え始めたころ、
「わかった」
満足げににやりと笑ってようやく顔を離した。うーんなにがわかったんだろう。
「じゃああたし帰る。仕事溜まってるし」
かったるそうに下枝がそう言って、夜を帯び始めた空に腕を伸ばして伸びをしながら、屋上の出口に向かって歩きはじめた。
と思ったら突然回れ右をして再び僕のもとに歩いてくる。なにがしたいんだこいつは。下枝はポケットをごそごそ漁りはじめる。
またナイフでも飛び出すんじゃないかと構える僕の予想に反して、そこから出てきたのは手のひらサイズの小さな紙だった。
「はいこれ」と渡されたそれを受け取る。
どうやら彼女の名刺らしいその紙に書かれていたのは、下枝はぐみという彼女の名前と、
「……なんでも屋?」
「そーなんでも屋。なんでもするのがあたしの仕事」
ちょっぴり得意げに胸をそらしながら説明してくれる下枝。
うーん殺すだのなんだの言ってたし実際殺されかけたわけだから、てっきり殺し屋かなんかだと思っていたのに。なんでも屋だから殺しもするってことか?
「んじゃ、ばいばいさつきちゃん。うっかり人違いで殺されかけないようにね」
「あ、うん」
物騒な忠告に頷くと、下枝はひらりと手を振って今度こそ扉の奥へと消えていく。
呆然と立ち尽くしながらその背中を見送ったあと、答えを訊けずじまいだった疑問をいまさらになって思い出した。
で、結局、下枝は誰を殺そうとしてたんだ?