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誰が為の勇者か

作者: you
掲載日:2026/09/22

 勇者とは、どういう人間を指すのか。


 物語の中で語られる、あの存在か。


 誰かを救い、誰かに称えられ、どれだけ傷ついても立ち上がる。そして最後には、笑って終わる。


 そんな都合のいい存在のことを言うのだろうか。


 それとも――。


 ◇


 今日は、みんな黒い服を着ていた。


 八月の終わり。空はやけに晴れていて、朝から気温は高かった。外へ出れば湿った空気が肌にまとわりつき、道路の向こうでは稲穂が風に揺れている。遠くの山は薄く霞み、どこかでは蝉が鳴いていた。


 うるさいくらいに。


 世界は何一つ変わっていないみたいだった。


 その下で、俺たちだけが昨日までとは違う世界にいた。


「なんで死んじゃったの……」


 母さんの声がした。


「母さんを置いて死ぬなんて……」


 言葉の最後は声にならなかった。口元を押さえ、肩を震わせる。


 父さんは隣に立ったまま何も言わず、ただ母さんの背中に手を置いていた。


 父さんが泣いているところなんて、ほとんど見たことがない。でも今日だけは、何度拭っても目元が濡れていた。


「まさか自殺だなんてな……」


 少し離れたところから、誰かの声が聞こえた。


「そんなに色々抱えてたなんて……」


 同情なのか。後悔なのか。ただ、言葉が見つからないだけなのか。


 俺には分からなかった。


「悠介君は、優しくて……本当に人一倍真面目な子でしたからね」


 聞き覚えのある声だった。兄貴の高校時代の担任。


 胸の奥が、ざらついた。


 ――優しい。


 ――真面目。


 間違ってはいない。確かに兄貴はそういう人だった。


 だけど、それだけで片付けられている気がした。


 兄貴は、そんな簡単な人間じゃなかった。


 もっと馬鹿で、もっと適当で、くだらないことで笑って、たまに機嫌が悪くなって。面倒くさがりなのに、困っている人間を見ると放っておけなくて。


 それで。


 ――俺が一番、好きだった人だった。


 母さんが棺の前にしゃがみ込んだ。


 手には、小さな箱を持っている。


「あの子が好きだった煙草……」


 震える指で箱を撫でる。


「一本もないと、寂しいものね」


 白い布の中へ、そっと置いた。


 見慣れた銘柄だった。


 俺は煙草が嫌いだった。臭いし、服に匂いがつくし、煙を吸えば喉が痛い。兄貴が車庫で吸うたびに文句を言っていた。


『また吸ってんの?』


『んー』


『臭いんだけど』


『じゃあ来んなよ』


『呼んだのお前だろ』


『それもそうだな』


 思い出した。あの、どうでもよさそうな返事。


 壁にもたれて煙を吐き、少しだけ目を細めて笑う。


 兄貴はよく、


『落ち着くんだよ』


 と言っていた。


 あの頃の俺は、それを聞くたびに呆れていた。


 今になって思う。


 ――本当に、落ち着いてたのかよ。


 棺の中を見る。


 兄貴は眠っていた。目を閉じて、白い顔で、綺麗な服を着せられて。


 まるで、本当に眠っているみたいだった。


 起きろよ。


 声には出さなかった。出したら、たぶん駄目になる。


 だから唇だけ動かした。


 ――起きろよ。


 いつもみたいに。


 視界が滲んだ。慌てて俯く。


 駄目だ。泣くな。


 ――もし兄貴が化けて出てきたら、


「お前、何泣いてんの?」


 って、笑われそうだ。


 小さい頃から、俺が泣くたびに兄貴はそう言った。


『蓮、お前泣き虫だな』


 からかうくせに、本当に俺が辛い時だけは最後まで隣にいてくれた。


 周囲を見渡す。


 人が多かった。思っていたより、ずっと多い。


 小学校の友達、中学でつるんでいた人たち、高校の同級生、バスケをしていた頃の仲間。社会人になってから知り合ったらしい人までいる。


 名前も知らない顔が、いくつもあった。


 みんな口を揃えて言う。


「いいやつだった」


「悠介には世話になった」


「本当に優しいやつだった」


「何かあったら、いつも助けてくれた」


 ――じゃあ、なんで死んだんだよ。


 これだけ人がいるのに。これだけ、兄貴のことを好きだった人がいるのに。


 なんで一人で死んだんだよ。


 俺には兄が二人いる。


 一番上が、れい。


 そして二番目が、今日棺の中にいる悠介。


 れい兄と悠介は、何年か前から家の仕事を一緒にやっていた。兄弟ではあるけれど、仕事ではれい兄が上に立つ。朝は一緒に出て、夜になれば同じ車で帰ってくることも多かった。


 俺とれい兄は、昔からよくぶつかった。


 性格も考え方も違うし、どっちも意地っ張りで、一度喧嘩を始めればどちらも引かない。


 そんな俺たちの間に入るのが、いつも悠介だった。


『はいはい、そこまでな』


 笑いながら、でも少し面倒くさそうに。


『蓮も落ち着け。れい兄も言い過ぎ』


 俺の愚痴も、れい兄の文句も、いつも悠介が聞いていた。


 小さい頃、兄貴が何かを始めると、俺も真似をした。


 兄貴がバスケを始めれば俺もボールを欲しがり、ゲームにハマれば同じゲームを欲しがった。兄貴が音楽を聴けば、その曲を覚えた。


 逆に、俺が見つけた曲を兄貴に教えることもあった。


『この曲めっちゃいいから聴いてみ』


『知らねぇよ、こんなの』


 そう言いながら、一週間後には兄貴の方が詳しくなっていた。


 休みの日にはよく二人で出かけた。


 俺が行きたいと言えば、


『暇だしな』


 なんて言いながら、結局ついてきた。


 どこへ行っても、何をしても、兄貴がいればそれで楽しかった。


 だから俺はずっと、この人を信用していた。


 この人がいれば、大丈夫だと思っていた。


「……蓮」


 れい兄の声で、我に返った。


「そろそろだって」


「……うん」


 顔を上げる。


 れい兄の目も赤かった。


 俺たちは視線を合わせたけれど、何も言わなかった。


 ◇


 葬儀が終わったのは、夕方だった。


 家へ帰ってからも人の出入りは続いた。線香の匂い、誰かのすすり泣く声、何度も聞こえる「この度は」という言葉。


 俺は途中から、自分の部屋へ逃げた。


 黒い服を脱いで適当なTシャツに着替え、鏡を見ると目が真っ赤だった。


「……ひでぇ顔」


 身体も頭も疲れていた。何も考えたくなくて、電気を消して布団へ入った。


 でも眠れない。


 何度寝返りを打っても駄目で、スマホを見ると午前零時を過ぎていた。


「……くそ」


 小さく吐き出した。


「こんな時に、思い出したくねぇんだよ……」


 口にした瞬間、もう遅かった。


 頭に浮かぶ。


 兄貴が死ぬ少し前のこと。


『兄貴』


『何?』


『今度、あのアイドルのLIVEあるんだけどさ。ドームで』


『へぇー』


『申し込んでいいかな?』


『いいべ。二枚頼む』


『マジ?』


『どうせ一人じゃ行かないんだろ』


『分かってんじゃん』


 それが、兄貴とまともに話した最後だった。


 ライブ。


 チケット。


 今度。


 全部、次がある前提の言葉だった。


「……ふざけんなよ」


 声が震えた。


「行く気だったんじゃねぇのかよ……」


 返事はない。


 部屋には俺しかいない。それなのに、兄貴の声だけは妙にはっきり思い出せた。


 窓の外を見る。


 家の脇に、車庫がある。


 兄貴がよく煙草を吸っていた場所。


『蓮。一服、付き合ってくんね?』


『俺吸わねぇって』


『知ってる』


『じゃあ一人で行けよ』


『暇なんだよ』


 そう言われて、結局俺はついていった。


 だったら今日は、俺から行ってやる。


 ◇


 車庫の明かりをつける。


 蛍光灯が何度か明滅し、白い光が広がった。車、工具、古いタイヤ、棚の上の灰皿。


 何も変わっていない。


 ただ、煙草の臭いだけがもう薄くなり始めていた。


 俺は壁にもたれ、兄貴がいつもいた場所を見る。


「……なあ」


 誰もいない。


「今日、めちゃくちゃ人来てたぞ。兄貴、友達多かったもんな」


 静寂。


「知らねぇ人まで泣いてた」


 喉が詰まった。


「……人気者じゃん」


 俯く。


「なのに、なんで死んじまったんだよ……兄貴」


 涙が落ちた。


「嫌なんだよ……兄貴いないの、嫌なんだよ」


 誰にも言えなかった。母さんにも、父さんにも、れい兄にも。


 みんな苦しんでいるから、俺まで泣いてちゃ駄目だと思っていた。


 でも、無理だった。


「……兄貴。なあ……一回でいいから」


 息を吸う。


「返事しろよ……」


 その時だった。


「お前」


 声がした。


 すぐ後ろから。


「泣いてんの?」


 時間が止まった。


 ゆっくり振り返る。


 そこに、兄貴が立っていた。


 Tシャツにジャージ。少し寝癖のついた髪。


 見慣れた顔。


 今日、棺の中でも見た顔。


「……兄貴?」


「何?」


「悠介?」


「だから何だよ」


 当たり前みたいに返事をする。


「お前……死んだよな?」


 兄貴が黙った。


「……は?」


「死んだんだよ」


「誰が」


「お前が」


「……俺?」


「うん」


「死んだの?」


「死んだ」


「いつ?」


「数日前。今日、葬式だった」


 兄貴は何かを思い出そうとするみたいに、しばらく黙った。


「……そっか」


 そして、その次に出た言葉は俺が想像していたものとはまるで違った。


「……やっとか」


「……え?」


「俺、やっと死ねたんだな」


 兄貴は、ほんの少しだけ安心したように笑った。


 ◇


「何だよ、それ」


 胸の奥に、急に怒りが湧いた。


「母さん、今日ずっと泣いてたんだぞ。父さんも、れい兄も、俺も」


「……悪い」


「謝んな」


 兄貴の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。


 手が、そのまま身体をすり抜けた。


「……え」


 肩も腕も、何の感触もない。


 兄貴自身も、自分の手を見つめていた。


「……マジで俺、死んでんだな」


「今さら実感すんなよ」


 兄貴は、自分が死んだ時のことを覚えていなかった。


 最後に覚えているのは、仕事を終えて家へ帰り、飯を食べ、車庫で煙草を吸ったところまで。


 その先がない。


「俺、どうやって死んだの」


「……自殺」


 兄貴は黙った。


「俺が?」


「うん」


「……そっか」


 その言い方がまた腹立たしかった。


 でも、兄貴自身にも何が起きたのか分からない。


 そして兄貴は、車庫から出られなかった。


 一歩外へ出ると、次の瞬間には決まって灰皿の横へ戻される。


「何なんだよ、これ」


「知らねぇよ」


 俺も車庫の外を見る。


 そこで、ふと思った。


「……四十九日まで彷徨ってるんだろ」


「は?」


「よく言うじゃん。死んだ人って、四十九日まではこっちにいるって」


 兄貴は少し考え、自分の身体を見下ろした。


「じゃあ俺、あと四十九日しかいねぇの?」


「知らねぇよ。適当に言っただけだし」


「縁起でもねぇな」


「もう死んでるだろ」


 言ってから、少しだけ後悔した。


 兄貴も何も言わなかった。


 その時はまだ、四十九日という言葉が本当に期限になるなんて思っていなかった。


「……明日」


 俺は言った。


「また来る」


「ここに?」


「うん」


 兄貴は少しだけ目を見開いた。


「そっか」


 その顔が、ほんの少しだけ安心しているように見えた。


「じゃあ、また明日な」


「……うん」


 今度こそ。


 明日が来る。


 そう思いたかった。


 ◇


 翌日、俺はコンビニで煙草を買った。


 嫌いなのに、自分でも馬鹿らしいと思った。


 でも、車庫へ行けば兄貴がいる。それだけで買う理由には十分だった。


 不思議なことに、兄貴は何にも触れないくせに、煙草だけは吸えた。


 食べ物も水も駄目なのに、煙草だけ。


 理由は分からない。


 でも妙に兄貴らしかった。


 それから俺は、毎日のように車庫へ通った。


 何も話したくない日は、ただ座った。


 俺がスマホを見る横で、兄貴が煙草を吸う。


 それだけの日もあった。


 日が経つにつれて、俺は錯覚するようになった。


 兄貴は死んでいないんじゃないか。


 ただ車庫にいるだけなんじゃないか。


 家に戻れば普通に飯を食って、明日はれい兄と仕事へ行くんじゃないか。


 そんなわけないのに。


 俺は、そう思いたかった。


 ◇


 ある日。


 母さんと兄貴の部屋を片付けていた。


 机の引き出しの奥に、白い紙袋があった。


 病院名。


 薬の名前。


 そして、精神科という文字。


「……母さん、これ何?」


 母さんの顔が固まった。


 兄貴は、鬱病だった。


 半年ほど前から通院していたらしい。


 知っていたのは両親だけ。


 俺も、れい兄も、何も知らなかった。


「何で俺には言わなかったんだよ」


「悠介が言わないでくれって」


「何で」


 母さんは少し迷ったあと、涙を拭った。


「蓮は自分のことを、かっこいい兄貴だと思ってるから。それを壊したくないって」


 何も言えなかった。


「……馬鹿じゃん」


 やっと出た言葉が、それだった。


 母さんはしばらく俯いていた。


「私たちにも、あまり話してくれなかったの」


「……え?」


「病院に行ってることは知ってたし、しんどそうなのも分かってた。でも、何が辛いのかまでは……」


 そこで一度、言葉を切った。


「大地君には、少し話してたみたい」


「大地さんに?」


「うん。どこまで話してたかは知らないけどね」


 兄貴の親友。


 家にも何度も来ていた。


 兄貴と車庫で煙草を吸いながら、くだらない話をしていた人。


 そういえば。


 死ぬ少し前。


 兄貴は大地さんと喧嘩したと言っていた。


 珍しく落ち込んでいた。


 でも数日後には、いつも通り笑っていたから。


 俺はもう仲直りしたんだと思っていた。


 ◇


 その日の夜。


「兄貴」


「ん?」


「鬱病だったの?」


 兄貴の顔から笑みが消えた。


「……母さんから聞いた?」


「うん」


「そっか」


「何で俺に言わなかったの」


 しばらく沈黙が続いた。


「……かっこいい兄貴でいたかったんだよ」


「は?」


「お前の前では」


「鬱病って知ったら、俺が嫌いになると思った?」


「そうじゃない」


「じゃあ何」


 兄貴は少し目を伏せた。


「お前、昔から俺の真似ばっかしてたべ。バスケも、ゲームも、音楽も」


「昔の話だろ」


「俺は嬉しかったんだよ」


 兄貴が小さく笑う。


「お前が俺のこと好きなの、分かりやすかったから」


「……」


「だから、お前の前ではちゃんとしてたかった。兄貴でいたかったんだよ」


「勝手すぎるだろ」


「うん」


「俺は別に、兄貴が鬱でも、泣いてても、弱くても嫌いになんかなってねぇよ」


「知ってるよ」


「じゃあ何で」


「言えなかったんだよ」


 兄貴の声が少しだけ震えた。


「弱いって思われるのが嫌だったのかもな」


「誰が思うんだよ」


「俺が」


 その一言で、何も言えなくなった。


「……大地さんには話してたんだって?」


 兄貴は少しだけ黙った。


「うん」


「俺には言えなくて、大地さんには言えたんだ」


「大地は……兄貴じゃなかったからな」


「何それ」


「お前の前では、俺は兄貴だったから」


 余計に腹が立った。


 でも、何となく分かってしまった自分にも腹が立った。


 ◇


 それから数日後。


 家族で墓参りに行った。


 墓の前に、一人の男がいた。


 大地さん。


 兄貴が一番仲の良かった友達。


 そして。


 兄貴が、自分の苦しさを話していた人。


「……何しに来たんですか」


 自分でも、声が冷たくなっているのが分かった。


「線香あげに」


「今さら?」


「蓮」


 れい兄の声がした。


 でも止まれなかった。


「兄貴、落ち込んでた」


「……知ってる」


 その言葉で頭が真っ白になった。


 気づいた時には、大地さんの胸ぐらを掴んでいた。


「知ってたなら、なんで何もしなかったんだよ!」


「蓮!」


 母さんの声が飛ぶ。


「兄貴、お前のこと一番信用してたんだぞ! 鬱のことだって、お前には話してたんだろ!」


 大地さんの顔が歪んだ。


 しばらく何も言わなかった。


 それから。


「……お前に何が分かんだよ」


「は?」


「俺だって助けたかったよ!」


 初めて、大地さんが声を荒らげた。


「夜中に電話来ても出た。何時間同じ話されても聞いた。死にたいって言われるたび、何とかしたかった」


 大学。


 公務員試験。


 就活。


 大地さん自身にも余裕がなくなっていた。


「でもある日から、電話鳴るのが怖くなったんだよ。また死にたいって言われるんじゃないかって。俺が何言っても変わらないんじゃないかって」


 目が赤くなっていた。


「それで、もう無理だって言った。少し距離置こうって。落ち着いたらまた話そうって」


 その一週間後。


 兄貴は死んだ。


「俺があんなこと言わなかったらって、毎日考えてるよ」


 大地さんは泣いていた。


 俺は何も言えなくなった。


 誰か一人を悪者にできれば楽だった。


 この人のせいだ。兄貴を追い詰めた。


 そう思えば、兄貴が死んだ理由に形ができる。


 でも、大地さんも俺と同じだった。


 兄貴が死んだ理由を、自分の中に探していた。


 ◇


 その夜。


 兄貴に全部話した。


「大地は悪くねぇよ」


 兄貴は少し強い声で言った。


「俺が寄りかかりすぎたんだよ」


「でも兄貴は辛かったんだろ」


「それとこれは別だよ」


 兄貴は煙草を見つめる。


「俺は助けてほしかった。でも、あいつにもあいつの人生あった。たぶん俺、それ忘れてた」


「じゃあ、大地さんと喧嘩したのが原因じゃないの?」


「それだけじゃねぇよ」


 兄貴は少し考えた。


「一個一個なら、大したことなかったのかもしれない。でも全部重なった」


 仕事も、人間関係も、将来も、自分自身のことも。


「仕事って」


 俺は兄貴を見る。


「れい兄との?」


「まあ、それも」


 兄貴は苦笑した。


「兄貴で、社長で、上司だからな。れい兄もやりづらかったと思うよ」


「兄貴は?」


「俺もやりづらかった」


 家では兄。


 仕事では上司。


 同じ人なのに、立場だけが変わる。


「別に、れい兄が嫌いだったわけじゃねぇよ」


「うん」


「むしろ、ちゃんとしなきゃって思ってた。弟だからって甘えてると思われたくなかったし」


 そこで少しだけ笑った。


「たぶん、れい兄も同じこと考えてたんだろうな」


 その言葉が、あとになって残った。


「昔からさ」


 兄貴が続ける。


「人っていつか死ぬのに、何で生きてんだろうって考えてた」


「そんな前から?」


「うん。でも普通だったよ。バスケも楽しかったし、友達と遊ぶのも、蓮と出かけるのも楽しかった」


「じゃあ」


「楽しいのと、生きるの面倒なのって両立すんだよ」


 その言葉は、妙に残った。


「今日は楽しい。でも、明日も生きなきゃいけないって考えると、しんどい」


 俺には、まだ全部は分からなかった。


 でも、兄貴が笑っていたからといって、苦しくなかったわけじゃない。


 それだけは分かった。


「今度、大地に会ったら」


「うん」


「俺が悪かったって言っといて」


「分かった」


「あと、ありがとうって」


「……うん」


 ◇


 九月に入った。


 蝉の声は少しずつ減り、夜風も涼しくなった。


 ある夜。


 父さんの口から、兄貴が見つかった場所を聞いた。


 山の中にあるダムだった。


 家から車で、それほど遠くない。


「……一人で?」


「ああ」


「夜?」


「そうだ」


 頭の中に、勝手に景色が浮かんだ。


 夜の山道。


 街灯は少なく、車のライトだけが前を照らす。


 運転席に兄貴がいる。


 一人で。


 ◇


 次の日。


 俺は一人で、そのダムへ行った。


 兄貴には言わなかった。


 山の中は、家の周りより少し涼しかった。


 風が吹く。


 水面は静かで、向こうには山が並んでいる。


 思っていたより、普通の場所だった。


 それが嫌だった。


 兄貴が死んだ場所なのに、何も変わっていない。


 鳥が鳴いて、水が揺れて、雲が流れている。


「……兄貴」


 声が漏れた。


 ここに、兄貴は来た。


 一人で。


「寒かったよな」


 喉が詰まる。


「苦しかったよな。怖かったよな……寂しかったよな」


 視界が滲んだ。


 俺いたじゃん。


 れい兄も、母さんも、父さんも、大地さんも、友達も。


 みんないたじゃん。


「なんで一人で来たんだよ……」


 答えはなかった。


 ただ、風だけが水面を揺らした。


 ◇


 その夜。


「行ってきた」


「どこ」


「お前が死んだとこ」


 兄貴の顔が止まった。


「……そっか」


「俺、お前のこと何でも知ってると思ってた」


 好きな食べ物。


 好きな曲。


 ゲーム。


 服。


 癖。


 何なら歩き方まで。


「でも、何も知らなかった。鬱病だったことも、大地さんに相談してたことも。最後、どんな気持ちだったのかも」


 兄貴はしばらく黙った。


「俺も分かんねぇんだよ」


「……」


「自分のことなのに。怖かったのか、泣いてたのか、何考えてたのか」


 兄貴は少し笑った。


「だから、蓮が俺のこと知らないんじゃなくて。俺も俺のこと、そんな分かってなかったんじゃねぇかな」


 ◇


 兄貴が死んでから。


 れい兄とは、前よりさらに話さなくなっていた。


 俺はどこかで、れい兄にも腹を立てていた。


 兄で。


 上司で。


 社長。


 仕事で兄貴に何を言っていたのか、どれだけ追い込んでいたのか。


 そんなことを考えてしまう。


 ある夜。


 れい兄が、居間で一人酒を飲んでいた。


「……蓮」


「何」


「ちょっと座れ」


 嫌だった。


 でも座った。


 先に口を開いたのは、れい兄だった。


「俺さ、最後に悠介と話した言葉、覚えてんだよ」


「……何」


 れい兄は缶を見つめた。


「“悠介、また明日もよろしくな”」


 胸が痛んだ。


「俺、明日も来ると思ってたんだよ。次の日も、来週も、来年も」


 れい兄は目元を押さえる。


「仕事で結構きついこと言ってた。弟だから甘やかしてるって思われたくなくて」


 兄として。


 上司として。


 どっちで接すればいいか分からなかった。


「俺のせいかな」


 少し前の俺なら、たぶんそうかもなって言っていた。


 でも今は、言えなかった。


「……兄貴言ってた」


「何を」


「れい兄もやりづらかっただろうって」


 れい兄が顔を上げた。


「弟だからって甘えてると思われたくなかったって。兄貴も同じこと考えてた」


 れい兄は黙った。


「それに、一個じゃないって。仕事も、人間関係も、将来も、自分のことも。全部重なったって」


 しばらくして。


 れい兄が小さく笑った。


「……ほんと、あいつらしいな」


「何が」


「俺のことまで気ぃ遣って」


 缶を置く。


「昔はさ、三人でくだらないことばっかしてたよな」


「してた」


「悠介、言ってたんだよ。俺ら三人が同じ方向向いてたら、なんかできそうだよなって」


「そんなこと言ってたの?」


「ああ」


 れい兄は少し笑った。


「馬鹿だよな」


「……うん」


 その夜。


 俺たちは久しぶりに、兄貴のこと以外の話も少しした。


 昔見ていたテレビのこととか。


 三人で行った場所のこととか。


 ほんの少しだけ。


 家に、昔の空気が戻った気がした。


 ◇


 四十九日が近づいた頃。


 母さんが兄貴の部屋から、三枚の紙を見つけた。


 一枚目。


 黄ばんだ便箋。


 表には、子どもの字で。


 ――二十歳の悠介へ。


『元気ですか?


 まだバスケ続けてますか?


 まぁ、きっとダラダラ生きてると思います。


 ちゃんと働いてますか?


 彼女とかできましたか?


 お母さんとお父さんに、あんまり心配かけんなよ。


 れい兄と蓮とも仲良くしてください。


 楽しく生きてたら、それでいいです。


 十二歳の悠介より』


 母さんが途中で笑って、途中から泣いた。


 二枚目。


 新しい紙。


 最初の一行を見た瞬間。


 誰も声を出さなくなった。


『家族へ。


 これを読んでいるということは、たぶん俺はもういないんだと思います。


 こんな形で残してしまって、本当にごめんなさい。


 何度も考えました。


 やめようとも思いました。


 明日になれば少し楽になるかもしれない。


 もう少し耐えれば何か変わるかもしれない。


 そう思って、ここまで来ました。


 でも、もう疲れました。


 朝、目が覚めるのが怖かった。


 身体が重くて、胸が苦しくて、今日を乗り越えてもまた明日が来ると思うと、怖くて仕方ありませんでした。


 本当は助けてほしかった。


 母さんにも、父さんにも。


 れい兄にも、蓮にも。


 でも言えませんでした。


 言えば心配をかける。


 迷惑をかける。


 そう考えているうちに、何も言えなくなりました。


 誰かが悪いわけじゃありません。


 どうか、誰かを責めないでください。


 母さん。


 父さん。


 今まで育ててくれてありがとう。


 れい兄。


 色々あったけど、兄貴が兄貴でよかったです。


 仕事でもたくさん迷惑かけました。


 ありがとう。


 蓮。


 お前には、最後まで格好いい兄貴でいたかった。


 たぶん、それで余計に何も言えなくなったんだと思います。


 でも、お前と出かけたり、くだらない話をしたり、一緒に笑ってた時間が、俺は本当に好きでした。


 俺みたいになろうとしなくていい。


 好きなことやって。


 好きなもの追いかけて。


 ちゃんと笑っててください。


 兄弟は、これからも兄弟でいてください。


 昔みたいに戻れなくてもいい。


 それでも、困った時くらいは話してください。


 今まで本当にありがとう。


 みんなのことが大好きでした。


 ごめんなさい。』


 読み終わった時。


 れい兄は声を出して泣いた。


 父さんも。


 母さんも。


 俺も。


 でも、まだ三枚目が残っていた。


 遺書より少し古い紙。


 表には。


 ――未来の俺へ。


『元気ですか?


 大事な人はできましたか?


 いつか言ってた夢は叶いましたか?


 やりたい仕事はできていますか?


 れい兄と蓮とは、まだくだらないことで笑ってますか?


 三人でいると、なんだか何でもできる気がします。


 たぶん大人になったら、今みたいにはいかないんだと思います。


 でも、たまには三人で集まってください。


 未来の俺は、幸せですか?


 もし夢が叶ってなくても、別にいいです。


 好きな人たちと笑ってられたら、それで十分だと思います。


 もし今、辛いことがあるなら。


 まぁ、なんとかなるべ。


 今までもなんとかなったんだから。


 だからあんまり考えすぎんな。


 未来の俺。


 ちゃんと幸せになってください。


 俺は今のところ、未来が結構楽しみです。』


 最後の一文を、俺は何度も読んだ。


 昔の兄貴は。


 未来を楽しみにしていた。


 ◇


 その夜。


 三枚の手紙を持って車庫へ行った。


 俺は、一枚ずつ読んで聞かせた。


 十二歳の兄貴から、二十歳の兄貴へ。


 兄貴は少し笑った。


「俺、字きたねぇな」


 遺書を読み始めると、途中から兄貴は何も言わなくなった。


 そして、三枚目。


 未来の自分へ。


『未来の俺。


 ちゃんと幸せになってください。


 俺は今のところ、未来が結構楽しみです』


 読み終わる。


 車庫は静かだった。


 兄貴は俯いていた。


「……俺、こんなん書いてたんだな」


「うん」


「覚えてねぇや」


「うん」


 しばらくして、兄貴が笑った。


 でも、その顔は泣いていた。


「未来、楽しみだったんだな」


 俺は何も言えなかった。


「……蓮」


「何」


「俺さ」


 声が震えている。


「生きたかったのかな」


 胸が締めつけられた。


 すぐに答えることはできなかった。


「……分かんねぇよ」


「そっか」


「でも、生きたかった時もあったんじゃねぇの」


 兄貴が顔を上げる。


「少なくとも、これ書いた時は未来楽しみにしてたじゃん」


 兄貴は何度か頷いた。


「……そっか」


 そのあと、しばらく二人とも何も話さなかった。


 煙草の先だけが、暗い車庫の中で小さく赤く光っていた。


 これまで何度も兄貴に助けられてきた。


 その夜だけは。


 ほんの少しだけ。


 俺が兄貴の隣にいられた気がした。


 ◇


 四十九日目。


 夏はもう終わっていた。


 蝉の声は聞こえず、田んぼでは稲刈りが進んでいる。夜の空気もだいぶ冷たくなっていて、車庫の隙間から入ってくる風には、もう秋の匂いが混じっていた。


 俺はいつも通り車庫へ行った。


 兄貴は、いつもの場所にいた。


「遅かったな」


「うん」


「煙草ある?」


「持ってきた」


 一本渡し、火をつける。


 兄貴はゆっくり煙を吸い込み、吐き出した。


 俺も兄貴も、しばらく何も言わなかった。


 今日で終わる。


 口には出さなくても、どっちも分かっていた。


「れい兄とは?」


 兄貴が聞いた。


「少し話すようになった」


「そっか」


「昔みたいには無理だけど」


「それでいいべ」


 兄貴は笑った。


「三人同じ方向向いてたら、何かできると思ってたんだって?」


「れい兄から聞いた?」


「うん」


「恥ずいな、それ」


「何で」


「若かったから」


「今も二十三だろ」


「……そうだったな」


 二人で少し笑った。


 こういうくだらない会話も、たぶんこれが最後なんだろうと思った。


 でも、それを口には出さなかった。


「兄貴」


「ん?」


「俺さ、兄貴みたいになりたかった」


 兄貴がこっちを見る。


「小さい頃から。バスケも、ゲームも、音楽も。何でも真似してた」


「知ってる」


「俺、兄貴が一番かっこいいと思ってた」


「買い被りすぎ」


「うるせぇ」


 兄貴は少し困ったように笑った。


「俺、こんなんだぞ」


「知ってるよ」


 鬱病だった。


 弱いところもあった。


 大地さんに頼っていた。


 未来が怖かった。


 生きることに疲れていた。


 それでも、兄貴が俺にくれたものまで消えるわけじゃない。


「兄貴は兄貴だろ」


 そう言うと、兄貴は何も返さなかった。


「だから俺、もう兄貴みたいにならなくていいや」


「……は?」


「俺は俺でいい」


 兄貴の目が少し見開かれる。


「周りが何言ってても」


 昔、仕事を辞めた時のことを思い出した。


 れい兄と喧嘩して、どうしていいか分からなくなって、兄貴の部屋へ行った夜。


『周りが言ってることだけが全てじゃないからな』


 そう言われて、俺は泣いた。


 顔を上げたら、兄貴まで泣いていた。


「あの時言ってくれたじゃん」


「……覚えてる」


「俺、あれずっと覚えてる」


 その時だった。


 兄貴の輪郭が、ほんの少しだけ薄くなった。


「兄貴?」


 兄貴も自分の手を見る。


「……時間かな」


「待てよ」


 胸の奥が急に締めつけられた。


「まだいいだろ。まだ話してぇよ」


 兄貴は何も言わず、ただこっちを見ていた。


「行くなよ」


 自分でも情けないくらい、声が震えた。


「もう少しいろよ。まだ兄貴と行きたいとこいっぱいあったし、ライブも、旅行も、飯も……全然足りねぇよ」


 兄貴の目から、静かに涙が落ちた。


「ごめんな」


「だから謝んなって」


「うん」


 兄貴は少し笑った。


「俺さ、お前が弟で良かったわ」


「……」


「ずっと可愛かった。俺が何かやるとすぐついてきて、逆にお前から教えてもらったもんに俺がハマって。ああいうの、好きだった」


「俺も」


 兄貴の姿が、また少し薄くなる。


「蓮」


「何」


 兄貴は少しだけ考えるように黙った。


 それから、いつもの顔で笑った。


「やっぱり蓮は、好きなことやって、好きなこと追いかけて、笑ってる顔が一番だ!」


 その声が消えるより少し早く、兄貴の輪郭が夜の車庫に溶けていった。


「兄貴」


 呼んだ。


 返事はなかった。


 ただ、最後に口元が少し動いたように見えた。


 またな。


 たぶん。


 そんなことを言ったんだと思う。


 次の瞬間には、いつも兄貴がいた灰皿の前に誰もいなくなっていた。


 車庫の中には、まだ煙草の煙が残っている。


 俺はその場に座ったまま、しばらく動かなかった。


 泣いた。


 声は出さなかった。


 ただ、頬を伝ったものを袖で拭って、それでもしばらく灰皿の前を見ていた。


 煙は少しずつ薄くなった。


 いつか。


 この車庫から兄貴の煙草の匂いも消えるんだろう。


 そう思った時。


 もう一度だけ、涙が落ちた。


 ◇


 それから少しして、例のライブの当落が来た。


 当選。


 二枚。


 画面を見た瞬間、笑った。


 少ししてから、目の奥が熱くなった。


 誰と行くか。


 そんなの、最初から決まっていたはずだった。


 でも、もう一枚の席だけが残っている。


 しばらく画面を見たあと、居間へ行った。


 れい兄はテレビを見ていた。


「なあ」


「何」


「ライブ」


「うん」


「二枚当たった」


「へぇ」


「……行く?」


 れい兄がこっちを見る。


「俺が?」


「嫌ならいいけど」


 しばらく沈黙があった。


 れい兄は少し考えてから、小さく笑った。


「行くべ」


 俺も笑った。


「んじゃ、二枚頼む」


「もう当たってんだろ」


「それもそうだな」


 その言い方が。


 少しだけ。


 兄貴に似ていた。


 窓の外では、稲刈りの終わった田んぼを風が渡っていた。


 もう蝉は鳴いていなかった。


 ◇


 勇者とは、どういう人間を指すのか。


 誰かを救える人間か。


 最後まで強くいられる人間か。


 どれだけ苦しくても、立ち上がり続けられる人間か。


 兄貴は、そんな人じゃなかった。


 怖がることもあった。


 人に頼ることもあった。


 自分では抱えきれなくなってしまったものもあった。


 それでも。


 俺が泣けば隣にいてくれた。


 俺が何かを諦めそうになれば、


『周りが言ってることだけが全てじゃないからな』


 そう言ってくれた。


 俺が喜べば、自分のことみたいに笑った。


 そして、俺が兄貴の背中を追い続けていたことを、兄貴はずっと嬉しいと思っていてくれた。


 それだけで十分だった。


 英雄じゃなくてもいい。


 何人もの人間を救えなくてもいい。


 最後まで強くなくてもいい。


 少なくとも。


 俺がどうしようもなく立ち止まった時。


 兄貴は、何度も俺の背中を押してくれた。


 だから。


 世界中の誰が違うと言っても。


 俺にとっては、あの人が勇者だった。


 誰が為の勇者か。


 今なら分かる。


 あの人は。


 俺のための勇者だった。

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