誰が為の勇者か
勇者とは、どういう人間を指すのか。
物語の中で語られる、あの存在か。
誰かを救い、誰かに称えられ、どれだけ傷ついても立ち上がる。そして最後には、笑って終わる。
そんな都合のいい存在のことを言うのだろうか。
それとも――。
◇
今日は、みんな黒い服を着ていた。
八月の終わり。空はやけに晴れていて、朝から気温は高かった。外へ出れば湿った空気が肌にまとわりつき、道路の向こうでは稲穂が風に揺れている。遠くの山は薄く霞み、どこかでは蝉が鳴いていた。
うるさいくらいに。
世界は何一つ変わっていないみたいだった。
その下で、俺たちだけが昨日までとは違う世界にいた。
「なんで死んじゃったの……」
母さんの声がした。
「母さんを置いて死ぬなんて……」
言葉の最後は声にならなかった。口元を押さえ、肩を震わせる。
父さんは隣に立ったまま何も言わず、ただ母さんの背中に手を置いていた。
父さんが泣いているところなんて、ほとんど見たことがない。でも今日だけは、何度拭っても目元が濡れていた。
「まさか自殺だなんてな……」
少し離れたところから、誰かの声が聞こえた。
「そんなに色々抱えてたなんて……」
同情なのか。後悔なのか。ただ、言葉が見つからないだけなのか。
俺には分からなかった。
「悠介君は、優しくて……本当に人一倍真面目な子でしたからね」
聞き覚えのある声だった。兄貴の高校時代の担任。
胸の奥が、ざらついた。
――優しい。
――真面目。
間違ってはいない。確かに兄貴はそういう人だった。
だけど、それだけで片付けられている気がした。
兄貴は、そんな簡単な人間じゃなかった。
もっと馬鹿で、もっと適当で、くだらないことで笑って、たまに機嫌が悪くなって。面倒くさがりなのに、困っている人間を見ると放っておけなくて。
それで。
――俺が一番、好きだった人だった。
母さんが棺の前にしゃがみ込んだ。
手には、小さな箱を持っている。
「あの子が好きだった煙草……」
震える指で箱を撫でる。
「一本もないと、寂しいものね」
白い布の中へ、そっと置いた。
見慣れた銘柄だった。
俺は煙草が嫌いだった。臭いし、服に匂いがつくし、煙を吸えば喉が痛い。兄貴が車庫で吸うたびに文句を言っていた。
『また吸ってんの?』
『んー』
『臭いんだけど』
『じゃあ来んなよ』
『呼んだのお前だろ』
『それもそうだな』
思い出した。あの、どうでもよさそうな返事。
壁にもたれて煙を吐き、少しだけ目を細めて笑う。
兄貴はよく、
『落ち着くんだよ』
と言っていた。
あの頃の俺は、それを聞くたびに呆れていた。
今になって思う。
――本当に、落ち着いてたのかよ。
棺の中を見る。
兄貴は眠っていた。目を閉じて、白い顔で、綺麗な服を着せられて。
まるで、本当に眠っているみたいだった。
起きろよ。
声には出さなかった。出したら、たぶん駄目になる。
だから唇だけ動かした。
――起きろよ。
いつもみたいに。
視界が滲んだ。慌てて俯く。
駄目だ。泣くな。
――もし兄貴が化けて出てきたら、
「お前、何泣いてんの?」
って、笑われそうだ。
小さい頃から、俺が泣くたびに兄貴はそう言った。
『蓮、お前泣き虫だな』
からかうくせに、本当に俺が辛い時だけは最後まで隣にいてくれた。
周囲を見渡す。
人が多かった。思っていたより、ずっと多い。
小学校の友達、中学でつるんでいた人たち、高校の同級生、バスケをしていた頃の仲間。社会人になってから知り合ったらしい人までいる。
名前も知らない顔が、いくつもあった。
みんな口を揃えて言う。
「いいやつだった」
「悠介には世話になった」
「本当に優しいやつだった」
「何かあったら、いつも助けてくれた」
――じゃあ、なんで死んだんだよ。
これだけ人がいるのに。これだけ、兄貴のことを好きだった人がいるのに。
なんで一人で死んだんだよ。
俺には兄が二人いる。
一番上が、れい。
そして二番目が、今日棺の中にいる悠介。
れい兄と悠介は、何年か前から家の仕事を一緒にやっていた。兄弟ではあるけれど、仕事ではれい兄が上に立つ。朝は一緒に出て、夜になれば同じ車で帰ってくることも多かった。
俺とれい兄は、昔からよくぶつかった。
性格も考え方も違うし、どっちも意地っ張りで、一度喧嘩を始めればどちらも引かない。
そんな俺たちの間に入るのが、いつも悠介だった。
『はいはい、そこまでな』
笑いながら、でも少し面倒くさそうに。
『蓮も落ち着け。れい兄も言い過ぎ』
俺の愚痴も、れい兄の文句も、いつも悠介が聞いていた。
小さい頃、兄貴が何かを始めると、俺も真似をした。
兄貴がバスケを始めれば俺もボールを欲しがり、ゲームにハマれば同じゲームを欲しがった。兄貴が音楽を聴けば、その曲を覚えた。
逆に、俺が見つけた曲を兄貴に教えることもあった。
『この曲めっちゃいいから聴いてみ』
『知らねぇよ、こんなの』
そう言いながら、一週間後には兄貴の方が詳しくなっていた。
休みの日にはよく二人で出かけた。
俺が行きたいと言えば、
『暇だしな』
なんて言いながら、結局ついてきた。
どこへ行っても、何をしても、兄貴がいればそれで楽しかった。
だから俺はずっと、この人を信用していた。
この人がいれば、大丈夫だと思っていた。
「……蓮」
れい兄の声で、我に返った。
「そろそろだって」
「……うん」
顔を上げる。
れい兄の目も赤かった。
俺たちは視線を合わせたけれど、何も言わなかった。
◇
葬儀が終わったのは、夕方だった。
家へ帰ってからも人の出入りは続いた。線香の匂い、誰かのすすり泣く声、何度も聞こえる「この度は」という言葉。
俺は途中から、自分の部屋へ逃げた。
黒い服を脱いで適当なTシャツに着替え、鏡を見ると目が真っ赤だった。
「……ひでぇ顔」
身体も頭も疲れていた。何も考えたくなくて、電気を消して布団へ入った。
でも眠れない。
何度寝返りを打っても駄目で、スマホを見ると午前零時を過ぎていた。
「……くそ」
小さく吐き出した。
「こんな時に、思い出したくねぇんだよ……」
口にした瞬間、もう遅かった。
頭に浮かぶ。
兄貴が死ぬ少し前のこと。
『兄貴』
『何?』
『今度、あのアイドルのLIVEあるんだけどさ。ドームで』
『へぇー』
『申し込んでいいかな?』
『いいべ。二枚頼む』
『マジ?』
『どうせ一人じゃ行かないんだろ』
『分かってんじゃん』
それが、兄貴とまともに話した最後だった。
ライブ。
チケット。
今度。
全部、次がある前提の言葉だった。
「……ふざけんなよ」
声が震えた。
「行く気だったんじゃねぇのかよ……」
返事はない。
部屋には俺しかいない。それなのに、兄貴の声だけは妙にはっきり思い出せた。
窓の外を見る。
家の脇に、車庫がある。
兄貴がよく煙草を吸っていた場所。
『蓮。一服、付き合ってくんね?』
『俺吸わねぇって』
『知ってる』
『じゃあ一人で行けよ』
『暇なんだよ』
そう言われて、結局俺はついていった。
だったら今日は、俺から行ってやる。
◇
車庫の明かりをつける。
蛍光灯が何度か明滅し、白い光が広がった。車、工具、古いタイヤ、棚の上の灰皿。
何も変わっていない。
ただ、煙草の臭いだけがもう薄くなり始めていた。
俺は壁にもたれ、兄貴がいつもいた場所を見る。
「……なあ」
誰もいない。
「今日、めちゃくちゃ人来てたぞ。兄貴、友達多かったもんな」
静寂。
「知らねぇ人まで泣いてた」
喉が詰まった。
「……人気者じゃん」
俯く。
「なのに、なんで死んじまったんだよ……兄貴」
涙が落ちた。
「嫌なんだよ……兄貴いないの、嫌なんだよ」
誰にも言えなかった。母さんにも、父さんにも、れい兄にも。
みんな苦しんでいるから、俺まで泣いてちゃ駄目だと思っていた。
でも、無理だった。
「……兄貴。なあ……一回でいいから」
息を吸う。
「返事しろよ……」
その時だった。
「お前」
声がした。
すぐ後ろから。
「泣いてんの?」
時間が止まった。
ゆっくり振り返る。
そこに、兄貴が立っていた。
Tシャツにジャージ。少し寝癖のついた髪。
見慣れた顔。
今日、棺の中でも見た顔。
「……兄貴?」
「何?」
「悠介?」
「だから何だよ」
当たり前みたいに返事をする。
「お前……死んだよな?」
兄貴が黙った。
「……は?」
「死んだんだよ」
「誰が」
「お前が」
「……俺?」
「うん」
「死んだの?」
「死んだ」
「いつ?」
「数日前。今日、葬式だった」
兄貴は何かを思い出そうとするみたいに、しばらく黙った。
「……そっか」
そして、その次に出た言葉は俺が想像していたものとはまるで違った。
「……やっとか」
「……え?」
「俺、やっと死ねたんだな」
兄貴は、ほんの少しだけ安心したように笑った。
◇
「何だよ、それ」
胸の奥に、急に怒りが湧いた。
「母さん、今日ずっと泣いてたんだぞ。父さんも、れい兄も、俺も」
「……悪い」
「謝んな」
兄貴の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
手が、そのまま身体をすり抜けた。
「……え」
肩も腕も、何の感触もない。
兄貴自身も、自分の手を見つめていた。
「……マジで俺、死んでんだな」
「今さら実感すんなよ」
兄貴は、自分が死んだ時のことを覚えていなかった。
最後に覚えているのは、仕事を終えて家へ帰り、飯を食べ、車庫で煙草を吸ったところまで。
その先がない。
「俺、どうやって死んだの」
「……自殺」
兄貴は黙った。
「俺が?」
「うん」
「……そっか」
その言い方がまた腹立たしかった。
でも、兄貴自身にも何が起きたのか分からない。
そして兄貴は、車庫から出られなかった。
一歩外へ出ると、次の瞬間には決まって灰皿の横へ戻される。
「何なんだよ、これ」
「知らねぇよ」
俺も車庫の外を見る。
そこで、ふと思った。
「……四十九日まで彷徨ってるんだろ」
「は?」
「よく言うじゃん。死んだ人って、四十九日まではこっちにいるって」
兄貴は少し考え、自分の身体を見下ろした。
「じゃあ俺、あと四十九日しかいねぇの?」
「知らねぇよ。適当に言っただけだし」
「縁起でもねぇな」
「もう死んでるだろ」
言ってから、少しだけ後悔した。
兄貴も何も言わなかった。
その時はまだ、四十九日という言葉が本当に期限になるなんて思っていなかった。
「……明日」
俺は言った。
「また来る」
「ここに?」
「うん」
兄貴は少しだけ目を見開いた。
「そっか」
その顔が、ほんの少しだけ安心しているように見えた。
「じゃあ、また明日な」
「……うん」
今度こそ。
明日が来る。
そう思いたかった。
◇
翌日、俺はコンビニで煙草を買った。
嫌いなのに、自分でも馬鹿らしいと思った。
でも、車庫へ行けば兄貴がいる。それだけで買う理由には十分だった。
不思議なことに、兄貴は何にも触れないくせに、煙草だけは吸えた。
食べ物も水も駄目なのに、煙草だけ。
理由は分からない。
でも妙に兄貴らしかった。
それから俺は、毎日のように車庫へ通った。
何も話したくない日は、ただ座った。
俺がスマホを見る横で、兄貴が煙草を吸う。
それだけの日もあった。
日が経つにつれて、俺は錯覚するようになった。
兄貴は死んでいないんじゃないか。
ただ車庫にいるだけなんじゃないか。
家に戻れば普通に飯を食って、明日はれい兄と仕事へ行くんじゃないか。
そんなわけないのに。
俺は、そう思いたかった。
◇
ある日。
母さんと兄貴の部屋を片付けていた。
机の引き出しの奥に、白い紙袋があった。
病院名。
薬の名前。
そして、精神科という文字。
「……母さん、これ何?」
母さんの顔が固まった。
兄貴は、鬱病だった。
半年ほど前から通院していたらしい。
知っていたのは両親だけ。
俺も、れい兄も、何も知らなかった。
「何で俺には言わなかったんだよ」
「悠介が言わないでくれって」
「何で」
母さんは少し迷ったあと、涙を拭った。
「蓮は自分のことを、かっこいい兄貴だと思ってるから。それを壊したくないって」
何も言えなかった。
「……馬鹿じゃん」
やっと出た言葉が、それだった。
母さんはしばらく俯いていた。
「私たちにも、あまり話してくれなかったの」
「……え?」
「病院に行ってることは知ってたし、しんどそうなのも分かってた。でも、何が辛いのかまでは……」
そこで一度、言葉を切った。
「大地君には、少し話してたみたい」
「大地さんに?」
「うん。どこまで話してたかは知らないけどね」
兄貴の親友。
家にも何度も来ていた。
兄貴と車庫で煙草を吸いながら、くだらない話をしていた人。
そういえば。
死ぬ少し前。
兄貴は大地さんと喧嘩したと言っていた。
珍しく落ち込んでいた。
でも数日後には、いつも通り笑っていたから。
俺はもう仲直りしたんだと思っていた。
◇
その日の夜。
「兄貴」
「ん?」
「鬱病だったの?」
兄貴の顔から笑みが消えた。
「……母さんから聞いた?」
「うん」
「そっか」
「何で俺に言わなかったの」
しばらく沈黙が続いた。
「……かっこいい兄貴でいたかったんだよ」
「は?」
「お前の前では」
「鬱病って知ったら、俺が嫌いになると思った?」
「そうじゃない」
「じゃあ何」
兄貴は少し目を伏せた。
「お前、昔から俺の真似ばっかしてたべ。バスケも、ゲームも、音楽も」
「昔の話だろ」
「俺は嬉しかったんだよ」
兄貴が小さく笑う。
「お前が俺のこと好きなの、分かりやすかったから」
「……」
「だから、お前の前ではちゃんとしてたかった。兄貴でいたかったんだよ」
「勝手すぎるだろ」
「うん」
「俺は別に、兄貴が鬱でも、泣いてても、弱くても嫌いになんかなってねぇよ」
「知ってるよ」
「じゃあ何で」
「言えなかったんだよ」
兄貴の声が少しだけ震えた。
「弱いって思われるのが嫌だったのかもな」
「誰が思うんだよ」
「俺が」
その一言で、何も言えなくなった。
「……大地さんには話してたんだって?」
兄貴は少しだけ黙った。
「うん」
「俺には言えなくて、大地さんには言えたんだ」
「大地は……兄貴じゃなかったからな」
「何それ」
「お前の前では、俺は兄貴だったから」
余計に腹が立った。
でも、何となく分かってしまった自分にも腹が立った。
◇
それから数日後。
家族で墓参りに行った。
墓の前に、一人の男がいた。
大地さん。
兄貴が一番仲の良かった友達。
そして。
兄貴が、自分の苦しさを話していた人。
「……何しに来たんですか」
自分でも、声が冷たくなっているのが分かった。
「線香あげに」
「今さら?」
「蓮」
れい兄の声がした。
でも止まれなかった。
「兄貴、落ち込んでた」
「……知ってる」
その言葉で頭が真っ白になった。
気づいた時には、大地さんの胸ぐらを掴んでいた。
「知ってたなら、なんで何もしなかったんだよ!」
「蓮!」
母さんの声が飛ぶ。
「兄貴、お前のこと一番信用してたんだぞ! 鬱のことだって、お前には話してたんだろ!」
大地さんの顔が歪んだ。
しばらく何も言わなかった。
それから。
「……お前に何が分かんだよ」
「は?」
「俺だって助けたかったよ!」
初めて、大地さんが声を荒らげた。
「夜中に電話来ても出た。何時間同じ話されても聞いた。死にたいって言われるたび、何とかしたかった」
大学。
公務員試験。
就活。
大地さん自身にも余裕がなくなっていた。
「でもある日から、電話鳴るのが怖くなったんだよ。また死にたいって言われるんじゃないかって。俺が何言っても変わらないんじゃないかって」
目が赤くなっていた。
「それで、もう無理だって言った。少し距離置こうって。落ち着いたらまた話そうって」
その一週間後。
兄貴は死んだ。
「俺があんなこと言わなかったらって、毎日考えてるよ」
大地さんは泣いていた。
俺は何も言えなくなった。
誰か一人を悪者にできれば楽だった。
この人のせいだ。兄貴を追い詰めた。
そう思えば、兄貴が死んだ理由に形ができる。
でも、大地さんも俺と同じだった。
兄貴が死んだ理由を、自分の中に探していた。
◇
その夜。
兄貴に全部話した。
「大地は悪くねぇよ」
兄貴は少し強い声で言った。
「俺が寄りかかりすぎたんだよ」
「でも兄貴は辛かったんだろ」
「それとこれは別だよ」
兄貴は煙草を見つめる。
「俺は助けてほしかった。でも、あいつにもあいつの人生あった。たぶん俺、それ忘れてた」
「じゃあ、大地さんと喧嘩したのが原因じゃないの?」
「それだけじゃねぇよ」
兄貴は少し考えた。
「一個一個なら、大したことなかったのかもしれない。でも全部重なった」
仕事も、人間関係も、将来も、自分自身のことも。
「仕事って」
俺は兄貴を見る。
「れい兄との?」
「まあ、それも」
兄貴は苦笑した。
「兄貴で、社長で、上司だからな。れい兄もやりづらかったと思うよ」
「兄貴は?」
「俺もやりづらかった」
家では兄。
仕事では上司。
同じ人なのに、立場だけが変わる。
「別に、れい兄が嫌いだったわけじゃねぇよ」
「うん」
「むしろ、ちゃんとしなきゃって思ってた。弟だからって甘えてると思われたくなかったし」
そこで少しだけ笑った。
「たぶん、れい兄も同じこと考えてたんだろうな」
その言葉が、あとになって残った。
「昔からさ」
兄貴が続ける。
「人っていつか死ぬのに、何で生きてんだろうって考えてた」
「そんな前から?」
「うん。でも普通だったよ。バスケも楽しかったし、友達と遊ぶのも、蓮と出かけるのも楽しかった」
「じゃあ」
「楽しいのと、生きるの面倒なのって両立すんだよ」
その言葉は、妙に残った。
「今日は楽しい。でも、明日も生きなきゃいけないって考えると、しんどい」
俺には、まだ全部は分からなかった。
でも、兄貴が笑っていたからといって、苦しくなかったわけじゃない。
それだけは分かった。
「今度、大地に会ったら」
「うん」
「俺が悪かったって言っといて」
「分かった」
「あと、ありがとうって」
「……うん」
◇
九月に入った。
蝉の声は少しずつ減り、夜風も涼しくなった。
ある夜。
父さんの口から、兄貴が見つかった場所を聞いた。
山の中にあるダムだった。
家から車で、それほど遠くない。
「……一人で?」
「ああ」
「夜?」
「そうだ」
頭の中に、勝手に景色が浮かんだ。
夜の山道。
街灯は少なく、車のライトだけが前を照らす。
運転席に兄貴がいる。
一人で。
◇
次の日。
俺は一人で、そのダムへ行った。
兄貴には言わなかった。
山の中は、家の周りより少し涼しかった。
風が吹く。
水面は静かで、向こうには山が並んでいる。
思っていたより、普通の場所だった。
それが嫌だった。
兄貴が死んだ場所なのに、何も変わっていない。
鳥が鳴いて、水が揺れて、雲が流れている。
「……兄貴」
声が漏れた。
ここに、兄貴は来た。
一人で。
「寒かったよな」
喉が詰まる。
「苦しかったよな。怖かったよな……寂しかったよな」
視界が滲んだ。
俺いたじゃん。
れい兄も、母さんも、父さんも、大地さんも、友達も。
みんないたじゃん。
「なんで一人で来たんだよ……」
答えはなかった。
ただ、風だけが水面を揺らした。
◇
その夜。
「行ってきた」
「どこ」
「お前が死んだとこ」
兄貴の顔が止まった。
「……そっか」
「俺、お前のこと何でも知ってると思ってた」
好きな食べ物。
好きな曲。
ゲーム。
服。
癖。
何なら歩き方まで。
「でも、何も知らなかった。鬱病だったことも、大地さんに相談してたことも。最後、どんな気持ちだったのかも」
兄貴はしばらく黙った。
「俺も分かんねぇんだよ」
「……」
「自分のことなのに。怖かったのか、泣いてたのか、何考えてたのか」
兄貴は少し笑った。
「だから、蓮が俺のこと知らないんじゃなくて。俺も俺のこと、そんな分かってなかったんじゃねぇかな」
◇
兄貴が死んでから。
れい兄とは、前よりさらに話さなくなっていた。
俺はどこかで、れい兄にも腹を立てていた。
兄で。
上司で。
社長。
仕事で兄貴に何を言っていたのか、どれだけ追い込んでいたのか。
そんなことを考えてしまう。
ある夜。
れい兄が、居間で一人酒を飲んでいた。
「……蓮」
「何」
「ちょっと座れ」
嫌だった。
でも座った。
先に口を開いたのは、れい兄だった。
「俺さ、最後に悠介と話した言葉、覚えてんだよ」
「……何」
れい兄は缶を見つめた。
「“悠介、また明日もよろしくな”」
胸が痛んだ。
「俺、明日も来ると思ってたんだよ。次の日も、来週も、来年も」
れい兄は目元を押さえる。
「仕事で結構きついこと言ってた。弟だから甘やかしてるって思われたくなくて」
兄として。
上司として。
どっちで接すればいいか分からなかった。
「俺のせいかな」
少し前の俺なら、たぶんそうかもなって言っていた。
でも今は、言えなかった。
「……兄貴言ってた」
「何を」
「れい兄もやりづらかっただろうって」
れい兄が顔を上げた。
「弟だからって甘えてると思われたくなかったって。兄貴も同じこと考えてた」
れい兄は黙った。
「それに、一個じゃないって。仕事も、人間関係も、将来も、自分のことも。全部重なったって」
しばらくして。
れい兄が小さく笑った。
「……ほんと、あいつらしいな」
「何が」
「俺のことまで気ぃ遣って」
缶を置く。
「昔はさ、三人でくだらないことばっかしてたよな」
「してた」
「悠介、言ってたんだよ。俺ら三人が同じ方向向いてたら、なんかできそうだよなって」
「そんなこと言ってたの?」
「ああ」
れい兄は少し笑った。
「馬鹿だよな」
「……うん」
その夜。
俺たちは久しぶりに、兄貴のこと以外の話も少しした。
昔見ていたテレビのこととか。
三人で行った場所のこととか。
ほんの少しだけ。
家に、昔の空気が戻った気がした。
◇
四十九日が近づいた頃。
母さんが兄貴の部屋から、三枚の紙を見つけた。
一枚目。
黄ばんだ便箋。
表には、子どもの字で。
――二十歳の悠介へ。
『元気ですか?
まだバスケ続けてますか?
まぁ、きっとダラダラ生きてると思います。
ちゃんと働いてますか?
彼女とかできましたか?
お母さんとお父さんに、あんまり心配かけんなよ。
れい兄と蓮とも仲良くしてください。
楽しく生きてたら、それでいいです。
十二歳の悠介より』
母さんが途中で笑って、途中から泣いた。
二枚目。
新しい紙。
最初の一行を見た瞬間。
誰も声を出さなくなった。
『家族へ。
これを読んでいるということは、たぶん俺はもういないんだと思います。
こんな形で残してしまって、本当にごめんなさい。
何度も考えました。
やめようとも思いました。
明日になれば少し楽になるかもしれない。
もう少し耐えれば何か変わるかもしれない。
そう思って、ここまで来ました。
でも、もう疲れました。
朝、目が覚めるのが怖かった。
身体が重くて、胸が苦しくて、今日を乗り越えてもまた明日が来ると思うと、怖くて仕方ありませんでした。
本当は助けてほしかった。
母さんにも、父さんにも。
れい兄にも、蓮にも。
でも言えませんでした。
言えば心配をかける。
迷惑をかける。
そう考えているうちに、何も言えなくなりました。
誰かが悪いわけじゃありません。
どうか、誰かを責めないでください。
母さん。
父さん。
今まで育ててくれてありがとう。
れい兄。
色々あったけど、兄貴が兄貴でよかったです。
仕事でもたくさん迷惑かけました。
ありがとう。
蓮。
お前には、最後まで格好いい兄貴でいたかった。
たぶん、それで余計に何も言えなくなったんだと思います。
でも、お前と出かけたり、くだらない話をしたり、一緒に笑ってた時間が、俺は本当に好きでした。
俺みたいになろうとしなくていい。
好きなことやって。
好きなもの追いかけて。
ちゃんと笑っててください。
兄弟は、これからも兄弟でいてください。
昔みたいに戻れなくてもいい。
それでも、困った時くらいは話してください。
今まで本当にありがとう。
みんなのことが大好きでした。
ごめんなさい。』
読み終わった時。
れい兄は声を出して泣いた。
父さんも。
母さんも。
俺も。
でも、まだ三枚目が残っていた。
遺書より少し古い紙。
表には。
――未来の俺へ。
『元気ですか?
大事な人はできましたか?
いつか言ってた夢は叶いましたか?
やりたい仕事はできていますか?
れい兄と蓮とは、まだくだらないことで笑ってますか?
三人でいると、なんだか何でもできる気がします。
たぶん大人になったら、今みたいにはいかないんだと思います。
でも、たまには三人で集まってください。
未来の俺は、幸せですか?
もし夢が叶ってなくても、別にいいです。
好きな人たちと笑ってられたら、それで十分だと思います。
もし今、辛いことがあるなら。
まぁ、なんとかなるべ。
今までもなんとかなったんだから。
だからあんまり考えすぎんな。
未来の俺。
ちゃんと幸せになってください。
俺は今のところ、未来が結構楽しみです。』
最後の一文を、俺は何度も読んだ。
昔の兄貴は。
未来を楽しみにしていた。
◇
その夜。
三枚の手紙を持って車庫へ行った。
俺は、一枚ずつ読んで聞かせた。
十二歳の兄貴から、二十歳の兄貴へ。
兄貴は少し笑った。
「俺、字きたねぇな」
遺書を読み始めると、途中から兄貴は何も言わなくなった。
そして、三枚目。
未来の自分へ。
『未来の俺。
ちゃんと幸せになってください。
俺は今のところ、未来が結構楽しみです』
読み終わる。
車庫は静かだった。
兄貴は俯いていた。
「……俺、こんなん書いてたんだな」
「うん」
「覚えてねぇや」
「うん」
しばらくして、兄貴が笑った。
でも、その顔は泣いていた。
「未来、楽しみだったんだな」
俺は何も言えなかった。
「……蓮」
「何」
「俺さ」
声が震えている。
「生きたかったのかな」
胸が締めつけられた。
すぐに答えることはできなかった。
「……分かんねぇよ」
「そっか」
「でも、生きたかった時もあったんじゃねぇの」
兄貴が顔を上げる。
「少なくとも、これ書いた時は未来楽しみにしてたじゃん」
兄貴は何度か頷いた。
「……そっか」
そのあと、しばらく二人とも何も話さなかった。
煙草の先だけが、暗い車庫の中で小さく赤く光っていた。
これまで何度も兄貴に助けられてきた。
その夜だけは。
ほんの少しだけ。
俺が兄貴の隣にいられた気がした。
◇
四十九日目。
夏はもう終わっていた。
蝉の声は聞こえず、田んぼでは稲刈りが進んでいる。夜の空気もだいぶ冷たくなっていて、車庫の隙間から入ってくる風には、もう秋の匂いが混じっていた。
俺はいつも通り車庫へ行った。
兄貴は、いつもの場所にいた。
「遅かったな」
「うん」
「煙草ある?」
「持ってきた」
一本渡し、火をつける。
兄貴はゆっくり煙を吸い込み、吐き出した。
俺も兄貴も、しばらく何も言わなかった。
今日で終わる。
口には出さなくても、どっちも分かっていた。
「れい兄とは?」
兄貴が聞いた。
「少し話すようになった」
「そっか」
「昔みたいには無理だけど」
「それでいいべ」
兄貴は笑った。
「三人同じ方向向いてたら、何かできると思ってたんだって?」
「れい兄から聞いた?」
「うん」
「恥ずいな、それ」
「何で」
「若かったから」
「今も二十三だろ」
「……そうだったな」
二人で少し笑った。
こういうくだらない会話も、たぶんこれが最後なんだろうと思った。
でも、それを口には出さなかった。
「兄貴」
「ん?」
「俺さ、兄貴みたいになりたかった」
兄貴がこっちを見る。
「小さい頃から。バスケも、ゲームも、音楽も。何でも真似してた」
「知ってる」
「俺、兄貴が一番かっこいいと思ってた」
「買い被りすぎ」
「うるせぇ」
兄貴は少し困ったように笑った。
「俺、こんなんだぞ」
「知ってるよ」
鬱病だった。
弱いところもあった。
大地さんに頼っていた。
未来が怖かった。
生きることに疲れていた。
それでも、兄貴が俺にくれたものまで消えるわけじゃない。
「兄貴は兄貴だろ」
そう言うと、兄貴は何も返さなかった。
「だから俺、もう兄貴みたいにならなくていいや」
「……は?」
「俺は俺でいい」
兄貴の目が少し見開かれる。
「周りが何言ってても」
昔、仕事を辞めた時のことを思い出した。
れい兄と喧嘩して、どうしていいか分からなくなって、兄貴の部屋へ行った夜。
『周りが言ってることだけが全てじゃないからな』
そう言われて、俺は泣いた。
顔を上げたら、兄貴まで泣いていた。
「あの時言ってくれたじゃん」
「……覚えてる」
「俺、あれずっと覚えてる」
その時だった。
兄貴の輪郭が、ほんの少しだけ薄くなった。
「兄貴?」
兄貴も自分の手を見る。
「……時間かな」
「待てよ」
胸の奥が急に締めつけられた。
「まだいいだろ。まだ話してぇよ」
兄貴は何も言わず、ただこっちを見ていた。
「行くなよ」
自分でも情けないくらい、声が震えた。
「もう少しいろよ。まだ兄貴と行きたいとこいっぱいあったし、ライブも、旅行も、飯も……全然足りねぇよ」
兄貴の目から、静かに涙が落ちた。
「ごめんな」
「だから謝んなって」
「うん」
兄貴は少し笑った。
「俺さ、お前が弟で良かったわ」
「……」
「ずっと可愛かった。俺が何かやるとすぐついてきて、逆にお前から教えてもらったもんに俺がハマって。ああいうの、好きだった」
「俺も」
兄貴の姿が、また少し薄くなる。
「蓮」
「何」
兄貴は少しだけ考えるように黙った。
それから、いつもの顔で笑った。
「やっぱり蓮は、好きなことやって、好きなこと追いかけて、笑ってる顔が一番だ!」
その声が消えるより少し早く、兄貴の輪郭が夜の車庫に溶けていった。
「兄貴」
呼んだ。
返事はなかった。
ただ、最後に口元が少し動いたように見えた。
またな。
たぶん。
そんなことを言ったんだと思う。
次の瞬間には、いつも兄貴がいた灰皿の前に誰もいなくなっていた。
車庫の中には、まだ煙草の煙が残っている。
俺はその場に座ったまま、しばらく動かなかった。
泣いた。
声は出さなかった。
ただ、頬を伝ったものを袖で拭って、それでもしばらく灰皿の前を見ていた。
煙は少しずつ薄くなった。
いつか。
この車庫から兄貴の煙草の匂いも消えるんだろう。
そう思った時。
もう一度だけ、涙が落ちた。
◇
それから少しして、例のライブの当落が来た。
当選。
二枚。
画面を見た瞬間、笑った。
少ししてから、目の奥が熱くなった。
誰と行くか。
そんなの、最初から決まっていたはずだった。
でも、もう一枚の席だけが残っている。
しばらく画面を見たあと、居間へ行った。
れい兄はテレビを見ていた。
「なあ」
「何」
「ライブ」
「うん」
「二枚当たった」
「へぇ」
「……行く?」
れい兄がこっちを見る。
「俺が?」
「嫌ならいいけど」
しばらく沈黙があった。
れい兄は少し考えてから、小さく笑った。
「行くべ」
俺も笑った。
「んじゃ、二枚頼む」
「もう当たってんだろ」
「それもそうだな」
その言い方が。
少しだけ。
兄貴に似ていた。
窓の外では、稲刈りの終わった田んぼを風が渡っていた。
もう蝉は鳴いていなかった。
◇
勇者とは、どういう人間を指すのか。
誰かを救える人間か。
最後まで強くいられる人間か。
どれだけ苦しくても、立ち上がり続けられる人間か。
兄貴は、そんな人じゃなかった。
怖がることもあった。
人に頼ることもあった。
自分では抱えきれなくなってしまったものもあった。
それでも。
俺が泣けば隣にいてくれた。
俺が何かを諦めそうになれば、
『周りが言ってることだけが全てじゃないからな』
そう言ってくれた。
俺が喜べば、自分のことみたいに笑った。
そして、俺が兄貴の背中を追い続けていたことを、兄貴はずっと嬉しいと思っていてくれた。
それだけで十分だった。
英雄じゃなくてもいい。
何人もの人間を救えなくてもいい。
最後まで強くなくてもいい。
少なくとも。
俺がどうしようもなく立ち止まった時。
兄貴は、何度も俺の背中を押してくれた。
だから。
世界中の誰が違うと言っても。
俺にとっては、あの人が勇者だった。
誰が為の勇者か。
今なら分かる。
あの人は。
俺のための勇者だった。




