第9話 成神儀式
シオンは失笑した。
思わず、本当に笑ってしまった。
「勇者王陛下は、すでに魔道に堕ちておられる」——だと?
俺がいつ魔道に堕ちた?
四百年間、この大陸の平和を守り続けてきた。魔族との共存体制を築き、種族間の争いを調停し、飢饉があれば救援を送り、災害があれば復興を支援してきた。
——それが魔道に堕ちた男のすることか?
「……何がおかしいんだ」
グランが怪訝そうな顔をした。
「いや、何でもない」
シオンは笑いを収めた。
「それで、その『魔道に堕ちた』というのは、具体的に何を指している」
「……それがの」
グランは深く息を吸い込んだ。
——また、あの目だ。
——長い話を始める時の目。
「全てを語るには、まず『成神儀式』について説明せねばなるまい」
——やはり。
「成神儀式とはの、古代エルフ語で『アポテオシス』と呼ばれる秘術じゃ。その語源は『人を超えし者への昇華』を意味しての。そもそもこの儀式が最初に記録されたのは、三千年前の『始原の碑文』——聖都の大図書館の最深部に封印されておる古代の石板じゃ。オラも若い頃、一度だけ見たことがあっての。あれは確か、オラがまだ二十歳の頃じゃった。当時のオラは王立学院で魔法理論を学んでおっての、指導教官のベルナルド師は厳格な人物での——」
「先生」
リュートが手を上げた。
「オラ、全然話についていけてないんだけど……」
「む? どこからじゃ」
「最初から」
グランは溜息をついた。
「まったく、最近の若い者は忍耐力がないの」
「いや、先生の話が長すぎるんだと思う……」
シオンは内心で頷いた。
——この弟子、よく分かっている。
「まあよい。では簡潔に説明しよう」
グランは咳払いをした。
「成神儀式とは、人が神になるための秘術じゃ。古代において、闇の魔道士たちがこの儀式を編み出した。彼らは『神座』と呼ばれる超越的存在への道を開いたのじゃ。その方法は——」
老人は指を立てた。
「第一に、『神名の刻印』。自らの名と称号を世界に刻み込む。民衆がその名を唱えるたび、世界の『記憶層』に刻印が深まる。やがてその名は『概念』となり、世界の法則の一部となるのじゃ。例えば『太陽』と言えば誰もが同じものを思い浮かべるじゃろう? それと同じように、『勇者王』と言えば誰もがシオン陛下を思い浮かべる——それが『神名の刻印』の完成形じゃ」
——それは俺のことだ。
「第二に、『領域の確立』。神には支配する領域が必要じゃ。土地でも、概念でも、現象でも構わん。『雷神』は雷を支配し、『海神』は海を支配する。では『勇者王』は何を支配するか——『秩序』じゃ。勇者王陛下が定めた法、暦、制度——それらは全て陛下の『領域』となる」
——それも俺のことだ。
シオンは眉をひそめた。
「先生、ちょっと待って」
リュートが再び手を上げた。
「『記憶層』って何? 『概念になる』ってどういうこと? オラ、やっぱり全然分からない……」
「簡単に言えばの、有名になれば神に近づく、ということじゃ」
「……それ、最初からそう言えばいいんじゃ……」
グランは無視して続けた。
「第三に、『神殿の建立』。物理的な依代が必要じゃ。古代の神々は皆、神殿を持っておった。神殿は信仰を集める『器』であり、神の魂を現世に繋ぎ止める『錨』でもある。神殿が破壊されれば、神は力を失う。逆に言えば、神殿が残っている限り、神は完全には滅びん」
「いくつ必要なんだ」
シオンが尋ねた。
「伝承では『七つ』とされておる。大陸には七つの霊脈の交点があっての、古代の魔道士たちはその全てに神殿を建てることで、大陸全土を神の領域とする方法を編み出した」
「七つの神殿……」
シオンは呟いた。
——そんなものを建てた覚えはない。
「そして第四——これが最も忌まわしい条件じゃ」
グランの表情が暗くなった。
「『生贄の魂』。神になるには、膨大な魂のエネルギーが必要じゃ。古代の文献によれば、最低でも千の魂——しかも、穢れのない純粋な魂が求められる」
「穢れのない魂……」
リュートの顔が青ざめた。
「まさか……」
「そうじゃ。乳児の魂じゃ」
部屋に重い沈黙が落ちた。
「古代の神々の多くは、この方法で誕生した。何千、何万という乳児が生贄として捧げられた。その魂は『神核』となり、成神者の意識を支える土台となる。生贄が多ければ多いほど、神としての力は強大になる」
リュートは震える声で言った。
「そんな……そんなの、間違ってる……!」
「ああ、間違っておる。じゃからこそ、成神儀式は禁忌とされた。勇者王陛下が建国した際、『聖光律令』にてこの儀式を永久に禁じた。儀式に関する全ての文献は焼かれ、知識は闇に葬られた——はずじゃった」
グランは声を落とした。
「じゃが、誰かが密かにその知識を受け継いでおった」
「……」
「二年前から、聖都周辺の村で乳児の失踪が相次いでおる。最初は魔物の仕業かと思われておった。じゃが、オラが調べたところ——失踪の時期が、全てレイサス家の『英雄祭』と重なっておった」
シオンは腕を組んだ。
「それで、勇者王が成神儀式を行おうとしていると?」
「状況証拠は全て揃っておる」
グランは頷いた。
「勇者王陛下は『神名の刻印』を完成させておる——『勇者王』の名を知らぬ者は大陸におらん。『領域の確立』も同様じゃ——陛下が定めた秩序は大陸全土に浸透しておる。この二つは、四百年の歳月が自然と完成させたものじゃ。残りは『神殿の建立』と『生贄の魂』——レイサス家が二年前から急に動き出したのは、この二つを揃えるためじゃろう」
「七つの神殿は?」
「分からん。じゃが、執政官との密談で『もうすぐ全てが揃う』と言うておった。二年という短期間で神殿を建てるのは不可能じゃ——おそらく、既存の建物を利用しておるのじゃろう。聖都には古い神殿や遺跡が数多くある」
シオンは沈黙した。
——なるほど。
外から見れば、確かにそう見える。
全ての状況証拠が、「勇者王が成神儀式を行っている」という結論を指し示している。
ただ一つ、決定的な問題がある。
——俺は、そんなことを頼んでいない。
「先生」
リュートが恐る恐る手を上げた。
「一つ聞いていい?」
「何じゃ」
「オラ、さっきから頑張って聞いてたんだけど……結局、成神儀式って何なのか、まだよく分からない……」
グランは絶句した。
「……お前、今までの説明を聞いておらなんだのか」
「聞いてた! 聞いてたけど……『記憶層』とか『神核』とか『霊脈の交点』とか、難しい言葉が多すぎて……」
「つまり、簡単に言えばの——」
シオンが口を開いた。
「——有名人が、神殿を建てて、赤ん坊を殺せば、神になれる。そういうことだ」
リュートは目を瞬かせた。
「……あ、なるほど。そういうことか」
「最初からそう言え」
シオンはグランを睨んだ。
「三行で済む話を、なぜ三十分かけて説明する」
「……情緒というものがないのか、お前さんは」
◆◇◆◇◆
シオンは立ち上がった。
「話は分かった。だが、一つ訂正がある」
「何じゃ」
「勇者王は成神儀式に関わっていない」
グランは眉をひそめた。
「なぜそう言い切れる」
「七賢者の徽章を持つ者として、保証する」
「……」
グランは複雑な表情を浮かべた。七賢者の徽章——それは絶大な権威を持つ。だが、なぜこの平凡な顔をした若い男がそれを持っているのか。
「レイサス家は勇者王の名を騙っているだけだ」
シオンは窓に向かった。
午後の陽光が差し込み、部屋を明るく照らしている。
「今からレイサス家に行く」
「待て!」
グランが叫んだ。
「今からじゃと!? 白昼堂々と乗り込むつもりか!?」
「ああ」
「相手は成神儀式を行おうとしている連中だぞ!? 七つの神殿を用意し、二年かけて生贄を集めた——それだけの準備をした奴らが、簡単に——」
「問題ない」
シオンは振り返らなかった。
「俺は強い。それだけだ」
グランは言葉を失った。
傲慢な台詞だ。普通なら鼻で笑うところだ。
だが——この男が言うと、なぜか否定できない。どこにでもいそうな平凡な顔立ちなのに、その背中には言いようのない重みがあった。
「お、オラも行く!」
リュートが立ち上がった。
「村のみんなを助けなきゃ!」
「お前は残れ」
「えぇ!? なんでだよ!」
「足手まといだ」
「ひでぇ!」
リュートは両手を後頭部に当てて、膨れっ面をした。
「オラだって戦えるんだぞ! 先生に剣術教わったんだから!」
「剣術の問題ではない。相手が悪すぎる」
シオンは窓枠に足をかけた。
「グラン、この弟子を頼む。暴走しないように見張っていろ」
「お、おい——」
シオンは窓から飛び出した。
午後の青空に、黒髪の男の影が舞い上がる。
◆◇◆◇◆
グランとリュートは、呆然と窓の外を見つめていた。
「先生……今の人……飛んでった……」
「……ああ」
「昼間っから飛行魔法って、目立つんじゃ……」
「……ああ」
リュートは両手を後頭部に当てて、首を傾げた。
「先生、あの人結局何者なの? 顔は普通なのに、なんかすごいよな」
グランは長い沈黙の後、深い溜息をついた。
「……正直、オラにも分からん」
「えぇ……」
「じゃが、一つだけ確かなことがある」
「何?」
グランは窓の外の青空を見上げた。
「——レイサス家は、とんでもない相手を怒らせた」
◆◇◆◇◆
シオンは空を飛びながら、ルグナードに念話を送った。
『聞いたか』
『ああ、全部聞いていた』
『どう思う』
『成神儀式か。面倒なことになったな』
『面倒というより——滑稽だ』
シオンは冷たく笑った。
『俺の名を使って神になろうとしている奴がいる。俺に何の断りもなく、二年も準備を進めていた』
『誰だ。レイサス家の当主か?』
『分からん。だが、今から確かめる』
『白昼堂々と乗り込むのか』
『ああ。夜まで待つ理由がない』
シオンの目が、遠くに見えるレイサス家の屋敷を捉えた。
『それに——』
午後の陽光が、平凡な黒髪を照らした。
『——俺の名を騙る者に、夜陰に紛れて逃げる時間を与えるつもりはない』
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