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第8話 堕落の疑惑



シオンはグランを支えながら、官邸から脱出した。


老人の体は見た目以上に軽かった。骨と皮ばかりだ。拷問で何日も食事を与えられていなかったのだろう。だが、その足取りには意外な芯の強さがあった。


夜の街を歩き、宿屋へと向かう。


月明かりが石畳を青白く照らしていた。時折、酔っ払いの笑い声や、酒場から漏れる喧騒が聞こえてくる。誰も、つい先ほど官邸で起きたことなど知らない。平和な夜だった。


——四百年前と、同じ道だ。


シオンは周囲を見回した。建物の配置は変わっている。だが、道の曲がり方、微妙な傾斜、遠くに見える丘の稜線——それらは記憶の底に沈んでいた故郷の風景と重なった。


◆◇◆◇◆


宿屋の前に着くと、扉が勢いよく開いた。


「グラン先生!!」


リュートが飛び出してきた。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。目の下には濃い隈があり、一睡もしていないことが窺えた。


「先生! 無事だったんだな! オラ、ずっと心配で……先生、怪我してる! ごめんな、オラがもっと強かったら……」


「リュート……馬鹿を言うな」


グランは弟子の顔を見て、目を細めた。皺だらけの顔に、柔らかな光が灯る。


「お前が来てくれた。それだけで十分だ」


リュートは涙目になりながら、師匠の体を支えた。シオンとは反対側から肩を入れ、二人でグランを挟む形になる。


——良い師弟だな。


シオンはそう思いながら、二人のやり取りを眺めた。


——俺にも、こんな時があった。


遠い記憶が蘇る。魔王討伐の旅で、何度も傷つき、何度も仲間に支えられた。あの頃は、こんな風に誰かの肩を借りることに、何の躊躇いもなかった。


今は——


◆◇◆◇◆


三人は宿屋の部屋に入った。


質素な部屋だった。木製のベッドが一つ、小さなテーブルと椅子が二脚。壁には染みがあり、窓枠は歪んでいる。だが、清潔ではあった。


シオンはグランをベッドに座らせ、治癒魔法をかけた。


淡い緑の光が老人の体を包む。打撲痕が薄れ、切り傷が塞がっていく。内臓の損傷も——軽いものだが——修復していく。


「……すまんな。それで、お前さんは何者だ? なぜオラを助けた?」


グランは魔法の光を浴びながら、低く問うた。


「質問はこちらからだ。お前はなぜレイサス家に捕まっていた」


◆◇◆◇◆


グランは深く息を吸い込んだ。


胸いっぱいに空気を溜め、ゆっくりと吐き出す。まるで、長い物語を語る前の、語り部のような所作だった。


——まずい。


シオンは老人の目に宿る光を見て、嫌な予感がした。


——この目、覚えがある。


——長い話を始める時の目だ。


かつて旅をしていた頃、何人もの老人と出会った。彼らは皆、同じ目をしていた。「若い者よ、聞くがよい」と言わんばかりの、遠くを見つめるような目。


「そうじゃな……全てを語るには、まず事の発端から話さねばなるまい。オラの村——ミルド村は、この聖都から馬車で半日ほどの場所にある。人口は三百人ほどの小さな村での。東には小高い丘があり、西には清流が流れ、南には麦畑が広がっておる。北には小さな森があっての、子供たちはよくそこで遊んでおった」


——やはり。


——この老人、最初から話すつもりだ。


リュートは両手を後頭部に当てたまま、ぼけーっとした顔で聞いていた。


——この弟子、話を理解しているのか?


「オラは三十年前にこの村に流れ着いて以来、ずっとそこで暮らしておる。最初は余所者として警戒されたが、村の若い者たちに剣術を教えるうちに、少しずつ受け入れられるようになっての。村長のバルトスは、オラより十歳ほど年下での。若い頃は冒険者を目指しておったが、親の反対で諦めたそうじゃ。今では立派な村長じゃが、時折オラと酒を酌み交わしながら、冒険者時代の夢を語ることがある。良い男じゃ。息子が二人おって、上の息子は去年結婚しての、孫が生まれたばかりじゃった。生まれたての赤子を抱いた時のバルトスの顔と言ったら——まるで世界一の宝物を手に入れたかのようじゃった」


——長い。


——村の地理も村長の人生史も聞いていない。


——要点はどこだ。


シオンは内心でため息をついた。


リュートは相変わらず両手を後頭部に当てて、首を傾げていた。


「んー? 先生、バルトスって誰だっけ?」


「村長じゃ! 今言うたばかりじゃろうが!」


「あー、そっかそっか」


——この弟子、全く聞いていなかったな。


「村の鍛冶屋のゴルドは、腕は良いが気難しい男での。じゃが、子供たちには優しくての、よくおもちゃの剣を作ってやっておった。木の剣ではない。本物の鉄を使った、小さな剣じゃ。『本物を知らねば、本物にはなれん』というのがゴルドの信念での。パン屋のミリアは未亡人での、夫を五年前に病で亡くしてから、女手一つで三人の子供を育てておる。村の皆が彼女を助けておっての。オラも時折、薪割りを手伝ったりしておった。ミリアの焼くパンは聖都のどの店よりも美味くての、特にライ麦パンは絶品じゃった。そんな平和な村に、異変が起きたのは——」


「待て」


シオンは手を上げて遮った。


「要点だけ言え」


「……む?」


グランは不思議そうな顔をした。まるで、「なぜ遮るのか」と言わんばかりの表情だ。


「村人が消えた。執政官府は動かない。調べたらレイサス家が怪しい。潜入したら捕まった。——それだけだろう」


グランは不満そうな顔をした。眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げる。


「……お前さん、情緒というものがないのか。物事には順序というものがあっての、起承転結の『起』から語らねば——」


「情緒より情報だ。簡潔に頼む」


リュートが両手を後頭部に当てたまま、にへらと笑った。


「あはは、シオンさんって先生より話短いよな」


「リュート、五等身勇者。お前の村の人々が、今も囚われているかもしれないんだ。悠長に昔話を聞いている場合か」


「……あ」


リュートは目をぱちくりさせた。数秒かけて、ようやく状況を理解したらしい。


「そ、そうだった! みんなを助けなきゃ!」


——今思い出したのか、この弟子。


◆◇◆◇◆


グランは溜息をついた。


長く、深い溜息だった。まるで、語り損ねた物語を悼むかのような。


「……まあ、簡潔に言えばその通りじゃ。一ヶ月前から村人が五人消えた。子供が三人、若い娘が二人。執政官府に届け出たが、証拠がない、人手が足りないと門前払いじゃった。オラが独自に調べたところ、失踪の時期がレイサス家の『英雄祭』と重なっておった。それで屋敷に潜入し、地下で檻に囚われた村人たちを見つけた。じゃが、その直後に捕まっての」


「執政官が動かない理由は?」


「執政官はレイサス家とグルじゃ。オラが潜入した時、二人が密談しているのを見た」


シオンは腕を組んだ。


——レイサス家か。


——クロードの子孫。


——だが、おかしい。


何かが引っかかる。記憶の中のクロード——温厚で、少し臆病で、村の平和を何より愛していた幼馴染。あの男の子孫が、人攫いに関与している?


「一つ聞きたい。レイサス家は、なぜそれほどの権力を持っている?」


「勇者王陛下の盟友の家系だからじゃ」


グランは苦々しげに言った。


「レイサス家は官職を持たぬ。じゃが、その権威は執政官をも凌ぐ。勇者王陛下が幼少期を共に過ごした盟友——クロード・レイサスの末裔。王国建国の際、陛下自ら『聖友』の称号を授けた家系じゃ。聖都エルデでは毎年『英雄祭』が開かれ、勇者王陛下と七賢者を祀る。その祭祀を司るのが、代々レイサス家の当主じゃった。官職は一代限り。じゃが、血統は永遠に続く。四百年の歳月が、レイサス家に莫大な影響力を与えておる」


「それは分かる。だが——」


シオンは首を傾げた。


「——クロード・レイサスは、ただの村長の息子だったはずだ。特別な功績もない。魔王討伐に参加したわけでもない。なぜその子孫が、執政官と対等に渡り合えるほどの権力を持っている?」


グランは怪訝そうな顔をした。老人の目が、初めてシオンを疑いの目で見た。


「……お前さん、随分と詳しいな。四百年前のことを」


「まあ、色々あってな」


「……」


グランは訝しげにシオンを見た。その視線には、「何者だ」という問いが込められていた。


だが、追及はしなかった。この老人は聡い。聞いても答えが返ってこないと悟ったのだろう。


リュートは両手を後頭部に当てたまま、きょとんとしていた。


「んー? クロードって誰?」


「勇者王陛下の幼馴染じゃ。四百年前の人物じゃ」


「へー。四百年前かー。すげー昔だなー」


——この弟子、本当に何も考えていないな。


◆◇◆◇◆


「レイサス家の権力の源は、勇者王陛下との繋がりじゃ。だが、勇者王は四百年間、一度もレイサス家に帰っていないはずじゃ」


「表向きはな?」


「ああ。じゃが、レイサス家の当主は周囲に『陛下が密かに里帰りしている』と匂わせておる」


——俺がいつ帰った?


——俺自身が知らないんだが。


シオンは内心で首を傾げた。四百年の間、一度もこの聖都に戻ったことはない。戻る気もなかった。


「証拠は」


「オラが執政官とレイサス家の当主の会話を盗み聞きした時、当主は話の端々で、勇者王陛下がしょっちゅう密かに里帰りして子孫たちに会いに来ていると仄めかしておった」


シオンは眉をひそめた。


「それを信じているのか?」


「信じるも何も、誰も確かめようがない。勇者王陛下に直接聞ける者などおらんからな」


——まあ、そうだろうな。


——俺に直接聞ける者など、この大陸に片手で数えるほどしかいない。


「レイサス家はその『繋がり』を利用しておる。陛下の名を出せば、誰も逆らえん。執政官ですら、レイサス家には頭が上がらん」


「だが、実際には勇者王はレイサス家を支援していない」


「そうかもしれん」


グランは老獪な笑みを浮かべた。


「じゃが、誰がそれを証明できる?」


老人は窓の外を見た。月が雲から顔を出し、部屋に青白い光が差し込む。


「勇者王陛下は公明正大だと言われておる。民を愛し、悪を憎み、正義を貫く——そう語り継がれておる。じゃが——自分の家族に私心がないと、誰が保証できる? 血は水よりも濃い。陛下が本当に一度も帰っておらんと、誰が言い切れる?」


——この老人、俺を疑っているのか。


——いや、疑っているというより、世間一般の認識を語っているだけか。


「外を歩くなら、何でも信じるな」


グランは世の闘を見透かしたような顔をした。長年の経験が刻み込まれた皺が、月明かりに深く浮かび上がる。


「この世界は、お前さんが思うほど綺麗じゃない」


——四百年生きてきた俺に、世間の闇を説くか。


——まあ、この老人は知らないからな。


シオンは黙ってその言葉を受け止めた。


リュートは両手を後頭部に当てたまま、欠伸をしていた。


「ふぁ~……難しい話だなー」


「リュート、寝るな」


「寝てねーって!」


◆◇◆◇◆


「それで——」


グランの声が、急に重くなった。


「——オラがこれを言わなかったのは、お前さんを巻き込みたくなかったからじゃ」


「何を」


グランは声を極限まで潜めた。周囲を警戒するように、窓の外をちらりと見る。


「執政官と当主の密談で、当主はこう言っておった。『勇者王陛下のおかげで、我々の計画は順調だ』と。『陛下は我々を密かに支援してくださっておる』と」


シオンは沈黙したまま、グランを見つめた。


「村人たちは何のために攫われた?」


「それは……」


グランは口ごもった。目が泳ぎ、額に汗が浮かぶ。


「……分からん。おそらく、何かの儀式に……」


シオンはグランの目を見据えた。その視線は鋭く、老人の魂を射抜くようだった。


「嘘をつくな。何を恐れている」


グランは頭皮が痺れるような感覚を覚えた。


「……これだけは言えん。言えば死ぬ」


シオンは無言で、懐から一枚の金属板を取り出した。


手のひらほどの大きさの、銀色に輝く板。表面には七つの星が円を描くように刻まれ、裏面には古代文字で「七賢」と記されていた。


七賢者の徽章。


かつて勇者王と共に魔王を討伐した七人の賢者——その証。


「これでも言えんか?」


グランは目を見開いた。


「七賢……徽章……!? お前さん……まさか……!」


七賢者。四百年前、勇者王と共に世界を救った伝説の存在。


老人の唇が震えた。


「……馬鹿な……七賢者は四百年前の……」


リュートは両手を後頭部に当てたまま、首を傾げた。


「んー? なんかすごいやつ?」


「黙っておれ、リュート!」


グランの声が震えた。


「質問に答えろ。村人たちは、何に使われる」


グランは深く息を吸い込んだ。


「……七賢者の徽章を持つお前さんなら……」


老人は一度だけ、周囲を見回した。


「村人たちは——魔道の儀式の、生贄じゃ」


リュートの顔から、間の抜けた表情が消えた。


「……生贄?」


「そうじゃ。魔族がレイサス家と手を組み、人間を生贄に捧げておる。そして、その背後には——」


グランはシオンの顔を見た。


「——勇者王陛下がおる」


シオンは表情一つ変えなかった。


「それは当主の言葉か? それともお前の推測か?」


「……」


グランは長い沈黙の後、重々しく口を開いた。


「当主は『陛下が支援している』と言った。じゃが、それだけでは説明がつかんのじゃ。レイサス家が四百年もの間、誰にも咎められず権力を握り続けてきた理由。執政官すら逆らえない理由。魔族と手を組んでも、誰も告発できない理由——」


グランは震える声で、己の推測を口にした。


「——勇者王陛下は、すでに魔道に堕ちておられるのではないか」


沈黙が部屋を支配した。



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