第16話 王都の波紋
法廷の外。
アルベルト城主は冷や汗を流していた。
マクシムス裁判官は無言で回廊を歩いている。その背中からは、怒りとも諦めともつかない気配が漂っていた。
人目のない中庭に出た時、マクシムスがようやく口を開いた。
「……厄介なことになった」
「裁判官殿、どうすれば——」
「黙れ」
マクシムスはヴィクトルを冷たく見据えた。
「お前たちは勇者王陛下が裏で支援していると言っていたな。今すぐ陛下に連絡しろ。陛下が一言おっしゃれば、この件は収まる」
ヴィクトルは顔を青くしながら答えた。
「……いつも、陛下の方から我々に連絡があるのです。我々から陛下に連絡する手段は……ありません」
マクシムスは眉をひそめた。
——つまり、勇者王陛下は当てにならないと。
だが、今さらそれを追及しても意味がない。
「もう勇者王陛下には頼れないということだな」
マクシムスは静かに言った。
「ならば、帝都に手を回すしかない。聖都で城主を務めた後に出世した者は多い。帝都で高い地位に就いている者もいる。彼らを動かし、皇族に働きかけるのだ」
◇◆◇
ここで、アルヴァレス帝国の行政制度について説明しておく必要があるだろう。
大陸を統べるのは、アルヴァレス帝国。八百年前、輝煌皇帝ヴァルエスが大陸を統一して以来、帝国は広大な領土を治めてきた。
帝国の行政は、古代の知恵に基づいて設計されている。最上位に位置するのは帝都グランディア。女帝が玉座に座し、帝国全土を統べる中枢だ。
その下に、十二の『管区』が置かれている。各管区は、帝都から派遣された『管区長』によって統治される。
管区の下には、複数の『行省』がある。行省は『総督』によって治められ、司法・行政・軍事の権限を持つ。
そして行省の下に、『都市』が存在する。都市は『城主』によって管理される。
聖都は、『輝光管区』に属する『聖光行省』の一都市だ。勇者王シオン・ヴァルディアの故郷として知られ、四百年前の魔王大戦以降、『聖都』の名で呼ばれるようになった。
◇◆◇
数日後。
帝都グランディア。
皇宮『輝煌宮』。
宣政殿。
帝国の最高権力が集う場所。白い大理石の円柱が並び、天井には黄金の装飾が施されている。床には帝国の紋章——七芒星の中に太陽を配した意匠——が象嵌されていた。
玉座には、一人の女性が座していた。
女帝アウローラ・ヴァルエス。
銀色の長髪が腰まで流れ、金色の瞳が宣政殿を見渡している。齢三百を超えるが、その容姿は二十代半ばにしか見えない。聖域級の魔導師であり、『黄金の女帝』『不滅の玉座』などの二つ名で知られている。
彼女がそこに座っているだけで、宣政殿全体に威厳と正義の気配が満ちていた。
これは錯覚ではない。『国運』の加護によるものだ。
アルヴァレス帝国の国運は、法と密接に結びついている。法が公正に執行されればされるほど、国運は強大になる。そして女帝は、その国運の加護を受ける者——同時に、国運に縛られる者でもある。
もし女帝が不公正な裁きを下せば、国運の重みに耐えられなくなる。最悪の場合、国運そのものに押し潰されてしまう。
それゆえに、歴代の皇帝は法の守護者として振る舞わざるを得なかった。どれほど強大な権力を持とうと、法を曲げることは己の破滅を意味するからだ。
◇◆◇
女帝は、時光追溯の申請書に目を通していた。
「聖都において、Sランク極限の魔導師が邪法を使用した嫌疑。聖都城主が証拠隠滅に関与した可能性あり。時光追溯による真相究明を申請する——」
女帝は申請書を置き、玉座の前に並ぶ皇子皇女たちを見渡した。
「聖都で邪法使用の嫌疑がかかった事件がある。城主が証拠隠滅に関与した可能性もある。時光追溯を執行するために、誰かを派遣せねばならない。——誰か、行きたい者はいるか」
皇子皇女たちは黙り込んだ。
時光追溯の任務は、成功しても功績にはならず、失敗すれば責任を問われる。普段であれば、女帝が二人を指名する——一人が執行し、一人が監督する。今日も、形式的な問いかけに過ぎないはずだった。
「母上」
一人の皇子が進み出た。
紫の長髪を腰まで伸ばした青年。第六皇子アレクシウスだ。
「私が参ります」
他の皇子皇女たちが、僅かに視線を動かした。なぜ第六皇子が自ら志願するのか。母上の前で功績を示したいのか。
女帝は表情を変えなかった。
「よかろう。では、第六皇子が執行。第四皇子が監督として同行せよ。以上、退朝」
◇◆◇
退朝後。
皇宮の回廊。
第六皇子アレクシウスは、第四皇子カエルスを呼び止めた。
「四弟、少し話がある」
第四皇子は眉をひそめた。
青い髪に碧眼。二十八歳。皇子たちの中で最も学識が深く、『万民法典』の研究者としても知られている。
彼と第六皇子の関係は、良好とは言えなかった。二人とも皇位を狙っており、水面下で何度も争ってきた。朝廷の大臣たちも、既にどちらかの派閥に属している者が多い。
「何だ、兄上」
「今回の時光追溯の案件、背景を知っているか」
「聖都の城主が、Sランク極限の魔導師の邪法使用を庇ったという話だろう」
「その魔導師の身元は知っているか」
第四皇子は首を傾げた。
「知らんが」
「勇者王陛下の血縁だ」
第四皇子の目が見開かれた。
「何だと……?」
「レイサス家の御先祖様、クロード・レイサス三世。勇者王陛下の親族であり、陛下の唯一の同世代の血縁者だ」
第四皇子は絶句した。
彼の頭の中で、思考が猛烈に回転し始めた。
——勇者王陛下の血縁が邪法を使っていた。
——陛下は、それを知らなかったのか?
——あの神域級の存在が、自分の血縁の行動を把握していなかった?
——いや、もしかして——
——陛下は知っていて、黙認していたのではないか?
——もし陛下自身が邪法に関与しているとしたら——
背筋が寒くなった。
アルヴァレス帝国には、勇者王を裁く『権限』はある。『万民法典』は、全ての者に等しく適用される——皇帝であろうと、勇者王であろうと。
だが、勇者王を裁く『能力』があるかどうかは、別の問題だ。
勇者王シオン・ヴァルディアは、神域級の存在。聖域級を遥かに超えた、大陸最強の男。
帝国が全ての戦力を結集しても、勇者王には敵わない。蛾が火に飛び込むようなものだ。
——なるほど。
——だから母上は、朝廷でこの件の背景を明かさなかったのか。
——もし公の場で『勇者王の血縁』と言ってしまえば、結果は最初から決まってしまう。
——邪法を使っていようがいまいが、『使っていない』という結論しか出せなくなる。
第四皇子は、第六皇子を見つめた。
「兄上は、どうするつもりだ」
「決まっている。勇者王陛下の名誉を守る」
第六皇子は静かに言った。
「陛下は、この大陸を四百年間守ってこられた。その陛下の血縁が邪法を使っていたなどと公になれば、陛下の威信は地に落ちる。——我々がこの件を穏便に処理すれば、陛下は感謝してくださるはずだ」
第四皇子は黙り込んだ。
普段であれば、第六皇子と手を組むなど考えられない。
だが——
——これは帝国の存亡に関わる問題だ。
——勇者王陛下を敵に回せば、帝国は滅びる。
「……分かった」
第四皇子は頷いた。
「この件は、穏便に処理しよう」
二人の皇子は、珍しく意見が一致した。
◇◆◇
だが、女帝アウローラは全てを見通していた。
宣政殿の奥。
女帝は玉座に座ったまま、二人の皇子たちの会話を『千里眼』の魔法で見つめていた。
「……勇者王陛下の名誉を守る、か」
女帝は薄く笑った。
彼女は知っていた。今回の事件の『背景』を。
勇者王陛下の血縁が邪法を使っていた——だが、陛下自身が関与しているかどうかは、まだ分からない。
いや、女帝の直感は、別のことを告げていた。
——勇者王陛下は、この件に関与していない。
——レイサス家が勝手に陛下の名を騙っているだけだ。
四百年間、女帝は勇者王を見てきた。あの男が、邪法などに手を染めるはずがない。
だが、それを証明するには——時光追溯を実行するしかない。
「さて、どうなるかな」
女帝は、窓の外を見つめた。
「シオン・ヴァルディア。——お前は、この件をどう収めるつもりだ?」
◇◆◇
聖都。
時光追溯の日が近づいていた。
この数日間、シオンたちの宿屋には、次から次へと訪問者が現れた。
聖域級の魔導師。帝都の高官。各地の総督。
皆、同じことを言った。
『この件は勇者王陛下の名誉に関わる』
『大局を見ろ』
『申請を取り下げろ』
シオンは全員を丁重に——そして容赦なく追い返した。
「お前に勇者王陛下の何が分かる」
ある聖域級の魔導師が、そう言って激怒した。
シオンは内心で笑った。
——俺に勇者王陛下の何が分かるか、だと?
——俺が勇者王本人なんだが。
だが、それを言うわけにはいかない。
シオンは片手で魔導師を叩き伏せた。
グランとリュートは、その光景を呆然と見つめていた。
——聖域級を、片手で……?
——この御方、本当に何者なんだ……?
◇◆◇
その日の夜。
また、扉を叩く音が聞こえた。
グランは溜息をついて立ち上がった。
「また威圧しに来た奴か……」
扉を開けた。
そして——凍りついた。
「……え」
グランの顔から、血の気が引いた。
扉の外に立っていた人物を見て、グランは言葉を失った。
「な、なぜ……あなた様が……ここに……」




