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第15話 使者


『時遡の術』の申請が受理されてから、三日が経った。


この三日間、聖都エルデは不思議な静けさに包まれていた。


レイサス家は沈黙を守り、総督グスタフも動きを見せない。アルベルト執政官は市政庁に籠もったまま、公の場に姿を現さなくなった。


嵐の前の静けさ。


グランはそう感じていた。


◆◇◆◇◆


宿屋の部屋で、三人は朝食を取っていた。


「なあなあ、おっさん」


リュートが両手を後頭部に組みながら言った。パンを頬張りながら、足をぶらぶらさせている。


「あいつら、なんで何もしてこないんだ? オラてっきり、すぐ殴り込みに来ると思ってたのに」


「殴り込みなど来るわけがないじゃろう」


グランが溜息をついた。


「相手は四百年続く名門貴族じゃぞ。そんな野蛮な真似はせん」


「えー、つまんねーの」


リュートは不満そうに頬を膨らませた。


「オラ、早くあいつらをぶっ飛ばしたいのに。赤ん坊を殺すなんて、絶対に許せねえ!」


Sランク冒険者は黙って茶を啜っていた。


リュートの言葉は単純だが、本質を突いている。赤ん坊を殺した。それが全てだ。どんな言い訳も、どんな大義名分も、その事実を覆すことはできない。


「おっさんはどう思う?」


リュートが黒髪の男を見た。


「あいつら、次に何してくると思う?」


「さあな。だが、そろそろ動きがあるだろう」


「なんでわかるんだ?」


「勘だ」


「勘かー。おっさんの勘ってすげーよな。全部当たるもんな」


リュートは素直に感心した。両手を後頭部に当てたまま、椅子の背もたれに寄りかかる。


その時、窓の外から馬車の音が聞こえてきた。


◆◇◆◇◆


宿屋の前に、二台の豪華な馬車が停まった。


一台には金色の紋章が刻まれていた。王家の紋章だ。


もう一台には、銀色の剣と盾を組み合わせた紋章が刻まれていた。レイサス家の紋章である。


「おお! なんかすげーのが来たぞ!」


リュートが窓から身を乗り出した。


「あの紋章、王様のやつじゃねーか!? なんで王様がここに!?」


「王家の紋章じゃが、王族本人とは限らんじゃろう」


グランが窓に近づいた。


「おそらく、王都からの使者じゃな。元老院か、あるいは……」


最初の馬車から、紫のトーガを纏った壮年の男が降りてきた。胸には元老院議員の徽章が輝いている。


「私は元老院議員マルクス・アウレリウス。王都より参った。ノイン殿はこちらにお泊まりか」


続いて、二台目の馬車から若い男が降りてきた。


金髪碧眼。端正な顔立ち。白銀の鎧を纏い、腰には宝剣を佩いている。年齢は二十代後半といったところか。その立ち姿には、生まれながらの貴族特有の気品が漂っていた。


「レイサス家嫡男、クラウス・レイサスだ」


グランの顔色が変わった。


「クラウス・レイサス……帝国騎士団の副団長、『黄金の獅子』……!」


「なになに? そいつ強いのか?」


リュートが目を輝かせた。


「Sランクの剣士じゃ。レイサス家の次期当主にして、帝国でも指折りの実力者……当主ヴィクトルの長男で、『御先祖様』クロード三世から見れば玄孫にあたる」


「へー、じゃああの赤ん坊殺しの子孫ってことか」


リュートの声が冷たくなった。さっきまでの無邪気さが消え、目に怒りの色が浮かんでいる。


「リュート、軽はずみな行動は控えるんじゃぞ。相手はSランク、お前では——」


「わかってるって」


リュートは拳を握りしめた。


「でも、オラ絶対に許さねえからな。あいつらのこと」


◆◇◆◇◆


Sランク冒険者は階段を降りてきた。


平凡な顔。地味な旅装。どこにでもいそうな黒髪の青年だ。


マルクス議員とクラウスは、彼を見た瞬間、それぞれ異なる反応を見せた。


マルクス議員はわずかに目を細めた。長年の政治経験で培った直感が、この男はただ者ではないと告げていた。


クラウスは露骨に眉をひそめた。この平凡な男が、レイサス家を窮地に追い込んだ張本人だと信じられないようだった。


「ノイン殿。お話を伺いたい。場所を変えても構わないか」


マルクス議員が言った。


「構わない」


黒髪の男は淡々と答えた。


「グラン、リュート。お前たちは宿で待っていろ」


「えー! オラも行く!」


リュートが食い下がった。


「なんでオラだけ留守番なんだよ! オラだって関係者だぞ!」


「お前が来ると話がこじれる」


「こじれねーよ! オラちゃんと大人しくしてるから!」


「お前の『大人しくしてる』は信用できん」


「ひでえ!」


リュートは両手を後頭部に当てて、膨れっ面をした。


グランが苦笑しながら言った。


「リュート、先輩の言う通りじゃ。お前は血の気が多すぎる。相手を殴りかねん」


「殴らねーよ! ……たぶん」


「その『たぶん』が問題なんじゃ」


結局、リュートは宿に残ることになった。


◆◇◆◇◆


三人は、宿屋の近くにある高級酒場の個室に入った。


窓からは聖都の街並みが見下ろせる。大聖堂の尖塔が、朝陽を受けて金色に輝いていた。


給仕が葡萄酒と軽食を運んできたが、誰も手をつけなかった。


「単刀直入に言おう」


マルクス議員が口を開いた。


「『時遡の術』の申請を取り下げてほしい」


「理由を聞こう」


「ノイン殿は、勇者王陛下の『信仰の力』についてご存知か」


黒髪の男は表情を変えなかった。


「聞いたことはある」


「ならば話は早い」


マルクス議員は声を落とした。


「勇者王陛下の力は、二つの源泉から成り立っている。一つは陛下自身の魔力と戦闘技術。これは四百年前から変わらない、陛下固有の力だ。だが、もう一つの力がある。民衆の信仰だ」


議員は窓の外を見た。大聖堂の方角だ。


「『勇者王陛下は我らを守ってくださる』『勇者王陛下は正義の体現者だ』。そう信じる民衆の想いが、陛下の力を増幅させている。これは『信仰の力』と呼ばれ、七賢者会議の研究によれば、陛下の総合力の三割から四割を占めているという」


「民衆の信仰が揺らげば、勇者王陛下の力も弱まる。そう言いたいのか」


「その通りだ」


◆◇◆◇◆


ここで、クラウスが口を開いた。


「ノイン殿」


若き騎士の声には、苦渋の色が滲んでいた。彼は椅子から立ち上がり、黒髪の男の前で深く頭を下げた。


「私の曽祖父であるクロード・レイサス三世が、取り返しのつかない罪を犯したことは認める」


「認めるのか」


「認める」


クラウスは顔を上げた。その目には、嘘偽りのない苦悩が宿っていた。


「『生贄の儀式』は『アルディア大憲章』で禁じられた最悪の禁呪だ。乳児を殺して魔力を得るなど、人の道を外れた所業。弁解の余地はない。レイサス家の人間として、被害者の方々には心からお詫び申し上げる」


その姿には、父親のヴィクトルのような老獪さは感じられなかった。少なくとも、この若者は本心から謝罪しているように見えた。


「だが」


クラウスは声を絞り出した。


「今は、まずい時期なのだ」


「まずい時期とは」


「北方辺境で、外神の眷属が蠢いている」


クラウスの顔が険しくなった。


「七賢者会議の観測によれば、あと数年以内に大規模な侵攻が始まる可能性が高い。前回の侵攻は二百年前。その時は勇者王陛下が先頭に立って戦い、大陸を守った。だが、その戦いで陛下は重傷を負ったと聞いている」


「つまり」


「次の侵攻でも、勇者王陛下の力が頼りだ。もし今、レイサス家の醜聞が広まれば、民衆の信仰は揺らぐ。勇者王陛下の幼馴染の子孫が、乳児を殺していた。そんな話が広まれば、『勇者王陛下は本当に正義の体現者なのか』と疑う者が出てくる」


クラウスは拳を握りしめた。


「信仰の力が三割減れば、陛下の力も三割減る。外神との戦いで、その三割が勝敗を分けるかもしれない。陛下が敗れれば、この大陸は滅びる。何百万、何千万という命が失われる」


「だから、レイサス家の罪を見逃せと」


「見逃せとは言わない。だが、今は時期を待ってほしい。外神の脅威が去った後なら、レイサス家は全ての罪を認め、法の裁きを受ける。私が約束する」


クラウスは再び頭を下げた。


「どうか、大陸の億万の民のために。今だけは、この件を保留にしていただけないだろうか」


◆◇◆◇◆


黒髪の男は黙ってクラウスの話を聞いていた。


この若者の言葉には、父親ヴィクトルのような演技の気配はない。本心から大陸の未来を憂いているのだろう。


だが、だからこそ、はっきり言わなければならない。


「クラウス殿」


Sランク冒険者は静かに口を開いた。


「一つ聞きたい」


「何だ」


「あなたは、殺された乳児の親に、同じことが言えるか」


「……何?」


「『大陸の未来のために、あなたの子供が殺されたことは忘れてくれ。数年待ってくれ』と。面と向かって言えるか」


クラウスは言葉を詰まらせた。


「それは……」


「言えないだろう。言えるはずがない」


黒髪の男の声は冷たかった。


「あなたの言う『大陸の未来』とは何だ。罪人が裁かれず、被害者が泣き寝入りする未来か。権力者が法を捻じ曲げ、弱者が踏みにじられる未来か。そんな未来を守るために、勇者王陛下が戦うと思うか」


「……」


「『アルディア大憲章』第一条。『法の下に万民は平等なり』。この言葉を刻んだのは勇者王陛下だ。陛下の幼馴染の子孫であろうと、元老院議員であろうと、法の前では平等でなければならない。それが、勇者王陛下が四百年前に定めた原則だ」


Sランク冒険者は続けた。


「もし、レイサス家の罪を見逃せば、『アルディア大憲章』は紙切れになる。『法の下の平等』は嘘になる。そうなれば、民衆の信仰はもっと揺らぐ。『勇者王陛下の法は、権力者には適用されないのか』とな」


クラウスは顔を歪めた。


反論したいが、言葉が出てこない。


◆◇◆◇◆


「だが、一つだけ方法がある」


黒髪の男は淡々と言った。


「方法?」


「この大陸の法では、死者の罪は追及されない。御先祖様が自ら命を絶てば、この件は終わる」


クラウスの顔が凍りついた。


「……何を言っている」


「東の果てに『和ノ国』という島国がある。そこには『切腹』という伝統がある。罪を犯した武士が、自らの腹を刀で裂いて死ぬことで、名誉を守る風習だ」


Sランク冒険者は冷たく微笑んだ。


「御先祖様も、切腹すればいい。自ら罪を認め、命をもって償う。そうすれば、レイサス家の名誉は守られる。『勇者王陛下の幼馴染の子孫は、自ら罪を裁いた』という美談になる。民衆の信仰も揺るがない。むしろ、『レイサス家は潔い』と称賛されるかもしれん」


「御先祖様に……死ねと……?」


「死にたくないなら、法の裁きを受ければいい。どちらを選ぶかは、御先祖様次第だ」


クラウスは絶句した。


この男は本気だ。冗談を言っているのではない。


「……あなたは、鬼か」


「鬼ではない。ただの冒険者だ」


黒髪の男は茶を啜った。


「俺は物事を始めたら、最後までやり遂げる性分でな。『時遡の術』の申請は取り下げない。御先祖様が切腹するか、法廷で裁かれるか。どちらかを選んでもらう」


◆◇◆◇◆


マルクス議員が口を挟んだ。


「ノイン殿。あなたは頑固な方だ。だが、一つ忠告しておく」


「聞こう」


「レイサス家の背後には、あなたが思っている以上に大きな力がある。総督グスタフだけではない。元老院にも、王都にも、彼らの息がかかった者がいる」


「それは脅しか」


「忠告だ」


マルクス議員は立ち上がった。


「元老院は、この件に介入しないことを決定した。だが、『時遡の術』の術者派遣は、当分先になるだろう。あなたがいくら急いでも、手続きには時間がかかる」


「遅延工作か」


「そう取ってもらっても構わない」


マルクス議員は扉に向かった。


「あなたの無事を祈っている。本心からな」


クラウスも立ち上がった。その顔には、複雑な感情が浮かんでいた。


「ノイン殿。あなたの言葉は、胸に刺さった。だが、私には私の立場がある。レイサス家の人間として、御先祖様を守らなければならない」


「好きにしろ」


「……最後に一つだけ」


クラウスは振り返った。


「あなたは、勇者王陛下のことをよく知っているようだ。まるで、陛下の心を読んでいるかのように話す。あなたは一体、何者だ」


黒髪の男は答えなかった。


ただ、窓の外を見つめていた。


クラウスは首を振り、部屋を出て行った。


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