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第14話 時遡の術

レイサス家の動きは迅速だった。


たった半晩で、オリーブの丘の地下墓地を綺麗さっぱり片付けた。血で染まった祭壇を破壊し、乳児の骸骨を別の場所に移し、『生贄の儀式』の痕跡を全て消し去った。


さらに二日二晩かけて証拠が一切残っていないことを確かめてから、ようやくアルベルト執政官に連絡を入れた。


「準備は整いました。再審をお願いします」


事態は当主ヴィクトルの予想通りに進んだ。


アルベルト執政官は堂々とレイサス家を庇い、証拠不足を理由に『御先祖様』クロード・レイサス三世の無罪を宣言した。それどころか、逆にシオンたちを訴追しようとした。


「クロード・レイサス三世を無罪とする。さらに、ノインとユアンの二名には傷害罪の嫌疑がある。後日、改めて審理を行う」


シオンは内心で苦笑した。まあ、想定内だ。


「この裁定に不服がある者は、十五日以内に聖光州総督に控訴することができる」


執政官がそう告げた瞬間、シオンは懐から羊皮紙を取り出した。


「控訴状です」


インクはとっくに乾いている。この結果を予測して事前に用意していたのだ。


執政官の顔が引きつったが、すぐに平静を取り戻した。聖光州総督グスタフもレイサス家との繋がりが深い。証拠がない以上、どうあがいても無駄だと確信していた。


◆◇◆◇◆


グスタフ総督は控訴状を受け取ると、当主ヴィクトルとアルベルト執政官を密かに呼び出した。


総督の私室。壁には魔獣の首が飾られ、暖炉には薪が燃えている。


「証拠は全て処分済みということだな」


「はい。ご安心ください」


当主ヴィクトルは恭しく頭を下げた。


グスタフ総督は葡萄酒の杯を傾けながら、薄く笑った。


「『帝国民法典』の『証拠裁判主義』は便利だな。証拠がなければ有罪にはできない」


アルベルト執政官も追従するように笑った。


「全くです。女帝陛下が整備した法律は詳細で立派ですが、詳細であればあるほど抜け穴も多い。条文の隙間を突けば、いくらでも逃げ道があります」


シオンは窓の外でその会話を聞いていた。気配を完全に消し、夜の闇に溶け込んでいる。


お前たちが悪用しているのは『帝国民法典』だ。だが、俺が作った『アルディア大憲章』は『帝国民法典』の上位に立つ。その小賢しい法律論を、根本から覆してやる。


◆◇◆◇◆


三日後。聖光州総督官邸。


州都ルクセンブルクの中心に、白亜の大理石で造られた壮麗な建物が聳えている。正面には六本の巨大な円柱が並び、入り口の前には黒曜石の石碑が立っていた。


『アルディア大憲章』の副本だ。


四百年前、勇者王シオンが七大陸の代表者を集めて制定した根本法典。全三百条。この星アルディアの全ての国、全ての種族に適用される最高法である。


シオンは石碑の前で足を止めた。


この条文を刻んだのは四百年前の自分だ。まさか自分で作った法律に助けられる日が来るとは思わなかった。


バシリカに入ると、既に関係者が揃っていた。


グスタフ総督は高座から見下ろし、紫の縁取りのトーガを纏っている。傍聴席にはアルベルト執政官が座り、余裕の表情で腕を組んでいた。当主ヴィクトルも無表情を装っているが、内心では勝利を確信しているのが見て取れた。


「ノインとユアン」


グスタフ総督が口を開いた。


「審理の前に告げておく。この法廷の裁定は属州における最終決定だ。新たな証拠がない限り、これ以上の控訴は認められない」


「はい」


シオンは淡々と答えた。


「では、審理を——」


「その前に、一つお願いがあります」


シオンが遮った。


「被告を一名、追加したい」


総督は眉を上げた。


「……よかろう。だが、被告の追加を理由にした再控訴は認めない」


「承知しています」


シオンは一歩前に出た。どこにでもいそうな平凡な顔立ち。地味な旅装。だが、その姿はまるで法廷を支配しているかのようだった。


「聖都エルデ執政官アルベルト・フォン・クレメンスを弾劾します」


バシリカが静まり返った。


「訴因は、職務権限の逸脱、クロード・レイサス三世による乳児誘拐への共謀、『生贄の儀式』の隠蔽、そして重要証拠の破壊への関与」


アルベルト執政官の顔から血の気が引いた。


「な、何を——」


「グスタフ総督」


シオンは執政官を無視して、総督に向き直った。


「『アルディア大憲章』第二百七十三条に基づき、『時遡の術』の申請を行います」


瞬間、バシリカの空気が凍りついた。


◆◇◆◇◆


当主ヴィクトルの心臓が跳ねた。


『時遡の術』。


世界に刻まれた記憶を読み取り、過去の出来事を映像として再現する秘術。勇者王が『アルディア大憲章』に定めた、最終手段とも言える神聖な裁判方法だ。


あの地下空間で何が行われていたか、全てが明るみに出る。


当主は焦った。だが、すぐに思い直した。


『時遡の術』は簡単には発動できないはずだ。莫大な魔力を消費し、因果律にも干渉する。『アルディア大憲章』では、特定の条件下でのみ使用を認めている。


その条件とは、案件が執政官級以上の官吏の廉潔性に関わる場合。


当主の顔が蒼白になった。


だからノインは、アルベルト執政官を被告に加えたのだ。


◆◇◆◇◆


アルベルト執政官とグスタフ総督も、シオンの狙いを即座に理解した。二人の背中に冷や汗が浮かぶ。


「濡れ衣だ!」


アルベルト執政官が叫んだ。体面も何もない、必死の抗議だった。


「あの空間を破壊したのは私ではない! レイサス家だ! 私はただ——」


「ただ、見て見ぬふりをしていた?」


シオンは冷たく言った。


「二年間、子供の失踪事件を握り潰し続けた。被害者の親が訴えても、証拠不十分で却下した。それは事実ですね」


「そ、それは——」


「あなたが実際に証拠を破壊したかどうかは重要ではありません。重要なのは、あなたがこの案件の被告であるということ。そして『アルディア大憲章』では、執政官級以上の官吏が被告の場合、『時遡の術』を申請できる」


シオンは総督を見据えた。


「違いますか、グスタフ総督」


グスタフ総督は答えなかった。ただ、氷のような目でシオンを睨みつけている。


この男に嵌められた。総督はそう確信していた。


レイサス家に証拠を隠滅させたのも、執政官を被告に加えたのも、全ては最初から計算されていた。


だが、まだだ。総督は最後の希望にすがった。


『時遡の術』の申請は、自分が却下できる。理由をつけて握り潰せば——


「総督」


シオンの声が響いた。


「申請を却下するおつもりですか?」


「…………」


「『アルディア大憲章』第二百七十四条。正当な理由なく『時遡の術』の申請を却下した官吏は、職権逸脱として弾劾される。そしてその場合——」


シオンは微笑んだ。


「王都の元老院への直接上奏が認められています。さらに、勇者王陛下への直訴権も発生する」


グスタフ総督の顔が歪んだ。


この男、『アルディア大憲章』を完全に把握している。


◆◇◆◇◆


「ノイン」


総督は低い声で言った。


「本当に申請するのだな」


「はい」


「後悔しないな」


「しません」


総督の威圧が解き放たれた。


Sランク頂点の殺気。猛虎の咆哮のような圧力がバシリカを震わせた。天井からは埃が舞い落ち、柱が軋む音が響く。


衛兵たちが真っ先に崩れ落ちた。当主ヴィクトルが膝をつき、ユアンも地面に手をついて必死に耐えている。傍聴席の野次馬たちは悲鳴を上げて逃げ出した。


だが、シオンは微動だにしなかった。


「申請します」


懐から羊皮紙を取り出す。またしてもインクは乾いていない。この展開すら予測していたのだ。


グスタフ総督は申請書を見た瞬間、全てを悟った。


この男は最初から全てを計算していた。今日この場で、この申請書を出すことを。


「……いい度胸だ」


総督は申請書を受け取った。受け取らないわけにはいかなかった。ここで拒否すれば、元老院に直接上奏される。そうなれば、もっとまずいことになる。


「覚えておけ、ノインとやら。お前は今日、とんでもない敵を作った」


「存じております」


シオンは涼しい顔で答えた。


グスタフ総督は机を一掌で叩き折り、バシリカを後にした。当主ヴィクトルとアルベルト執政官も、陰鬱な顔でその後に続いた。


◆◇◆◇◆


総督たちが去ると、バシリカに静寂が戻った。


ユアンはようやく立ち上がり、荒い息をつきながらシオンを見上げた。


「ノイン先輩……あの殺気の中で、よく平気でいられましたね……」


「別に大したことない。お前、あの程度で膝をつくとは情けないな」


「あの程度って……Sランク頂点の殺気ですよ!?」


「言い訳だな。俺はAランクの頃にSランク頂点を殺したことがある」


ユアンは絶句した。


この人は本当に何者なんだ。


『七賢者会議』の密使。その地位は王族にも匹敵する。なのにこの人は、その身分を一切使わない。『アルディア大憲章』に則って、一歩一歩、正攻法でレイサス家を追い詰めている。


ユアンは心から思った。


この人は、勇者王陛下が作った法を、誰よりも信じているのだ。


ユアンが知らなかったのは、シオンがその法律を作った本人だということ。


そして今、シオンが内心でこう思っていることも。


四百年前の俺、グッジョブ。


まさか自分で作った法律に助けられる日が来るとは。人生、何があるか分からないものだ。


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