第10話 勇者王、故郷で裁きを下す
グランがまだ何か言おうとした時、シオンが突然立ち上がった。
その顔には、冷たい怒りが浮かんでいた。
グランは思わず唾を飲み込んだ。
——この気配……まるで怒りの寸前にいるようだ。
シオンは何も言わず、部屋を出て行った。
◇◆◇
グランは困惑していた。
シオンがレイサス家の悪口を聞いた時——例えば、勇者王陛下が密かにレイサス家を支援しているとか、勇者王陛下が魔道に堕ちたとか——そういう話を聞いても、この男は淡々と笑っていた。まるで冗談を聞いているかのように。
だが、乳児の血祭りの話をした途端——
——あの反応。
——あの怒気。
——まるで、自分の名を汚されたかのような……
グランは首を振った。
——あの反応。
——あの怒気。
——やはり、七賢者会議の御方じゃ。
——正義感が強いのじゃろう。乳児を犠牲にするなど、許せるはずがない。
◇◆◇
シオンは宿屋の外に出た。
怒りを抑えきれなかった。
グランが勇者王の悪口を言おうが、魔道に堕ちたと言おうが、どうでもいい。自分がやっていないことは、自分が一番よく知っている。
だが——乳児の血祭りは違う。
もしグランの話が本当なら、レイサス家は二百年もの間、自分の名を騙って乳児を攫い続けていたことになる。
勇者王の名の下に、数百人の赤子が殺された。
それだけは——絶対に許せない。
シオンは夜空を見上げ、目を閉じた。
——グランの話が本当なら、証拠があるはずだ。
——二百年分の乳児。数百人の命。それだけの規模なら、どこかに痕跡が残っている。
シオンは深く息を吸い込んだ。
そして——魔力を解放した。
◇◆◇
宿屋の窓から、グランとリュートがシオンの背中を見つめていた。
「先生、あの人何してるの?」
「分からん。じゃが——」
グランの言葉が途切れた。
シオンの体から、淡い青白い光が広がり始めた。
最初は蝋燭の炎ほどの輝き。だがそれは瞬く間に膨張し、波紋のように四方八方へ広がっていく。
「な……!?」
グランは目を見開いた。
「これは……『神域探知』……!?」
「神域探知? 何それ?」
「Sランク以上の魔導師だけが使える、最上位の探知魔法じゃ。術者を中心に、広大な範囲の全てを把握できる」
光の波紋は止まらない。
宿屋を包み、通りを覆い、聖都の城壁を越え——さらに広がっていく。
「馬鹿な……」
グランの声が震えた。
「この範囲……聖都全域を越えておる……周辺の村々まで……いや、それ以上……!」
「先生、すごいの?」
「すごいどころではない……!」
グランは冷や汗を流した。
「数百里四方を探知できる魔導師など、七賢者の中でも最上位の者だけじゃ……! この御方、一体何者なんじゃ……!」
リュートは首を傾げた。
「でも先生、さっき七賢者の徽章を見せてたよね? 七賢者の人なら、それくらいできるんじゃないの?」
「……」
グランは言葉を失った。
——確かに、七賢者の徽章を持っておる。
——じゃが、七賢者会議の『密使』と、七賢者本人では、格が違う。
——この魔力……本当に、ただの密使なのか……?
◇◆◇
シオンの意識は、光と共に広がっていた。
聖都の全ての建物が見える。全ての人間の気配を感じる。
レイサス家の屋敷——異常なし。使用人たちが慌ただしく動いている。先ほどの騒動の後始末だろう。
城主の城——異常なし。城主は書斎で何かを読んでいる。
地下の陵墓——魔族の気配が複数。だが、乳児の気配はない。
さらに範囲を広げる。
周辺の村々。森。川。山。洞窟。廃墟。
——どこにも、乳児を隠している痕跡がない。
シオンは眉をひそめた。
——おかしい。
——二百年分の乳児。数百人の命。それだけの規模なら、どこかに——
その時。
シオンの意識が、微かな違和感を捉えた。
——これは。
聖都の郊外。古い樫の木の下。
何もない空間が——歪んでいる。
——空間魔法の痕跡。
——異空間への入り口か。
この世界には二種類の空間魔法がある。
一つは収納魔法。指輪などを媒介にして、物品を別空間に保管する。ただし、生き物は入れられない。
もう一つは空間の節点。固定された場所に、生き物も入れる空間を作る。秘境や隠れ家として使われることが多い。
空間の節点は外からは見えない。誰かが出入りする瞬間でなければ、発見は極めて困難——
その時。
空間が揺らいだ。
聖都郊外の樫の木の下。虚空が歪み、一人の人影が現れた。
麻の衣を纏った老人。周囲を警戒するように見回した後、レイサス家の方角へ飛び去っていく。
——見つけた。
シオンは目を開けた。
◇◆◇
「ついて来い」
シオンは振り返らずに言った。
「え? どこに——」
グランの言葉が終わる前に、シオンは地を蹴った。
夜空を飛び、聖都の郊外へ向かう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
グランは慌ててリュートを抱え、飛行魔法で後を追った。
◇◆◇
聖都郊外。
古い樫の木の前に、シオンは降り立った。
一見、何の変哲もない場所だ。草原の中に、一本の大きな樫の木が立っている。月明かりに照らされ、木の葉が微かに揺れている。それだけ。
だが——シオンの目には見えていた。
樫の木の根元。空間が微かに揺らいでいる。まるで水面のように、現実が歪んでいる。
グランとリュートが追いついてきた。
「こ、ここは……?」
「空間の節点だ」
シオンは右手を伸ばした。
「ここに、答えがある」
指先が虚空に触れた。
その瞬間——
◇◆◇
「うわあああああ!?」
リュートが悲鳴を上げた。
「先生! 先生! 空が! 空が割れた!!」
樫の木の前の空間が、ガラスのように砕けていた。
亀裂から青白い光が漏れ、まるで夜空に傷がついたかのような光景。
「空間の門じゃ……」
グランは息を呑んだ。
「この御方、空間魔法まで……!」
亀裂は広がり、やがて人が通れるほどの穴になった。
その向こうには、暗い洞窟のような空間が見える。
そして——
鼻をつく、強烈な臭い。
「なんだ、この臭い……」
リュートが顔をしかめた。
「血の臭いがする……」
シオンは無言で空間の門をくぐった。
◇◆◇
異空間の中は、小さな洞窟ほどの広さだった。
一歩踏み入れた瞬間、むせ返るような血の臭いが襲ってきた。
グランとリュートも後に続いた。
「うっ……」
リュートが口を押さえた。
「何この臭い……気持ち悪い……」
グランは周囲を見回し——そして、凍りついた。
「……なん、じゃと……」
洞窟の両側に、骨が積み上げられていた。
小さな骨。
前腕ほどの長さしかない、小さな骨。
頭蓋骨が転がっている。肋骨が散らばっている。小さな手の骨が、まるでゴミのように放置されている。
数十——いや、数百。
「これ……全部……」
リュートの声が震えた。
「……赤ちゃん……?」
洞窟の奥には、血で染まった祭壇があった。
祭壇の上には、十数体の小さな体が横たわっていた。まだ新しい。血の気が残っている。
いや——血の気ではない。
祭壇から立ち上る赤黒い霧が、遺体から何かを吸い取っている。
肉が、骨が、目に見える速度で消えていく。
やがて——小さな白骨だけが残される。
「ぅ……うぇ……」
リュートは壁際によろめき、激しく嘔吐した。
吐き続け、やがて胃液しか出なくなっても、えずきは止まらない。
「畜生……畜生……!」
グランも壁に手をついていた。
老戦士の目から、涙が流れていた。
「なんてことを……レイサス家の奴ら……こんな……こんなことを……!」
◇◆◇
シオンは動かなかった。
祭壇の前に立ち、山のように積まれた小さな骨を見つめていた。
その体が、微かに震えていた。
シオンは四百年を生きてきた。
魔王大戦を戦い抜いた。
数え切れないほどの死を見てきた。
だが——これは。
◇◆◇
シオンは動かなかった。
祭壇の前に立ち、山のように積まれた小さな骨を見つめていた。
その体が、微かに震えていた。
シオンは四百年を生きてきた。
魔王大戦を戦い抜いた。
数え切れないほどの死を見てきた。
だが——これは。
「……野郎」
シオンは歯の間から、低い声を漏らした。
シオンはあの麻衣の老人を追わなかった。どうせ逃げられない。
ここに来たのは、まだ救える命があるかもしれないと思ったからだ。
だが——
一人も、救えなかった。
シオンは目を閉じ、口の中で何かを呟き始めた。
鎮魂の祈り。
低く、静かな声で、死者の魂を弔う言葉を紡ぐ。
だが——その声は、次第に大きくなっていった。
怒りと共に。
最後の一節を唱えた時——
空間全体が、激しく震えた。
岩が砕け、天井から石が落ちてくる。まるで、この異空間そのものが崩壊しかけているかのように。
「な……!?」
グランは目を見開いた。
「声だけで空間を……!?」
——やはり、この御方は只者ではない……!
——七賢者会議の中でも、最上位の実力者に違いない……!
シオンが振り返った。
その目は、深海のように冷たかった。
口元には、薄い笑み。
だが、その笑みには一切の温かみがなかった。
「——レイサス家に、行くか」




