【第2話】鼓動と香り(上)
ヒーローか天然か!?
ノゾミは白衣を脱ぎ、ハンガーに掛けてロッカーを閉めた。
トレンチ・コートを羽織り、きつく結んだ髪をほどく。
肩から力が抜ける。
「ふー……。今日もお疲れさま、私……」
それは一日の仕事を終えた合図であり、彼女自身が“ただの人”に戻る瞬間だった。
Q-Phone(量子電話)の画面には、見慣れた通知の列。
既読のつかないメッセージ、返信のいらない連絡、ただの広告。
どれも必要はない。
「やっぱり“空っぽ”ね……。そりゃそうよね」
返信したい“誰か”からのメッセージは無い。
(仕事に追われるばかりで、友人からの誘いも断り続ければ、やがて誘ってくる人もいなくなる)
「それでも、“元気にしてる?”の一言くらいあってもいいじゃない」
エレベーターに乗り『1』を押すが、閉ざされた空間は考える隙も与えてはくれない。
(独りになりたかった訳じゃない。いつの間にか独りになっていただけ)
通用口を出ると、外は見慣れた夜だ。
少し湿った春風が頬を撫で、雨の予感がする。
花の香りは、まだ先なのだろう。
「今日は……頑張りすぎたかなー……」
振り返ると、医科大学附属病院の名前だけが、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
頭は霞がかり、体も鉛のように重く、家路を辿る歩みは覚束ない。
ノゾミは、横断歩道の白い帯の手前で足を止める。
歩行者信号の赤が変わるのを待つ間、視線が辺りを彷徨った。
「あら、キレイなお星さまだこと」
空には星がほとんどなく、代わりにビルの窓がいくつも瞬いて、人工的な星座を作っている。
「帰ったら、シャワー。熱め。髪は適当に乾かして、寝る。明日の朝、メールを……」
信号が青になると反射的に三歩踏み出し、思考はそこで止まった。
時には、予期せぬことも起こりうる。
狂ったセンサーの警告音が、耳をつんざく。
安全なはずのNeo Car(自律走行車)が暴走し、ノゾミに向かって一直線に迫る。
赤い灯が乱打し、Neo Carは甲高い制御音とともに急制動をかけた。
ヘッドライトの眩しさが視界を白く染め、ノゾミは何も見えなくなる。
(足が! 足が動かない!)喉が固まり、息を吸うこともできない。
音が、不自然に引き延ばされて聞こえる。
(人生が、こんなにあっけなく終わるなんて――)
その刹那、すっと誰かに引き寄せられて、ノゾミの体がふわっと宙に浮いた。世界がまるで万華鏡のように割れ、光の粒になって一瞬で流れ去っていく。
彼女の時間だけが、スローモーションに変わる。(抱き上げられてる? 私が……)
ノゾミを抱いた腕は力強く、それでいて優しかった。
(“壊れ物”でも包み込むように“大切に”守られている……)
規則正しい胸の鼓動に、ノゾミの呼吸がゆっくり戻っていく。
瞼を開けると、車道の向こう側にいて、ロマンがこちらを覗き込んでいる。
「大丈夫ですか!? 紬先生、紬先生……」
聞き覚えのある声が、薄れゆく意識の中で響く。
(いい匂い……うっとりするような……)
ノゾミは、そのまま意識を失った――。
ふと気が付いて瞼を開けると、自室の見慣れた天井が見える。
ノゾミは、しばし呆然としながらも起きあがろうとした。
「うっ……」
スポーツ・ドリンクを持ち、ロマンが急いでベッドのそばに歩み寄る。
「無理しないで。これを飲んで」
ノゾミはゴクゴクと喉を潤すと、頭の整理がつかないまま彼を見た。
「あれ? ロマン……いえ、天城先生どうしてここに?」
つい彼を下の名前で呼んで、ノゾミは言い直す。
「まだ横になっててください」
そう言ってロマンは、冷静に説明をはじめた。
「君がクルマに轢かれそうになり、気を失ってしまったから、僕が自宅まで運んだんです。幸いケガもありません。それに――また病院へ引き返すわけにもいかないでしょう?」
ノゾミは、彼の話を黙って聞きながら、記憶の断片を思い返してみる。
「それから……。プライベートではロマンでいいですよ。僕もノゾミと呼びますから」
(彼は外国暮らしが長かったんだもの。確かに職場の外でまで“先生”呼びは堅苦しいかもね)
額に自分の手の甲を乗せたまま、ノゾミは思わず「ふふっ」と声に出して笑ってしまった。
そんな彼女を見て、ロマンは少し心配そうな表情を浮かべる。
「君は、最近まともに食べてなかったんじゃないですか? 睡眠も足りていないようですね」
大いに心当たりがあるので、ノゾミは何も言い返せなかった。
「過労ですよ。医師ならば、まず第一に自分の健康管理を怠ってはならない」
(天城先生の仰る通り。全く反論の余地がないわ)
ノゾミは口をつぐむしかない。
ロマンは、くどくど説教するよりも“ことわざ”で喩えてみようと、得意満面で口にした。
「こういうのを“ミイラ取りがミイラになる”と言うんです!」
「……はぁ?」
(その表現、合っているような合っていないような――)
「ロマン! 患者さんを“ミイラ”に例えるなんて、いくらなんでも酷すぎる」
ノゾミは体をまるめ、思いっきり笑ってしまった。
「もしかして、僕は使い方を間違えましたか?」
彼の困り顔を見て、ノゾミはさらに笑った。
ロマンは、キッチンの方に歩いて行くとノゾミに見せた。
テーブルの上と冷蔵庫の中に、食べきれないほど山のような食べ物や飲み物が用意されている。
「ノゾミは、明日から三日間、部屋で大人しく過ごしてください。これは医師としての僕からの指示です。もう職場には連絡しましたし、君の仕事の穴埋めは僕がしますから。とにかく今は、安心して休むように」
(うわっ、なんか偉そう……。派遣でうちの病院に来たくせに)
そう思いながらも、ノゾミはロマンには素直に従うことにした。
他人から、ここまで親切にしてもらったのは生まれて初めてかもしれない。
「あー、大事なことを、伝えていませんでした」
ロマンが口を開く。
「君のQ-Phoneに、僕の連絡先を入れておきました。何かあったら遠慮なく連絡をください」
(えっ、私のを勝手に触ったの?)
少しプライベートに踏み込みすぎだとノゾミは感じたが、彼の一言でそんな考えは消えた。
「それにしても、間に合って良かった……」
(そうだ……ロマンが助けてくれなかったら、私はもうこの世にいなかったかもしれない)
――翌日。
ロマンは、また買い物をして、ノゾミの部屋を訪ねた。
「食べ物ならあるのに……。カロリー計算された食事だってすぐ届くし。わざわざ大丈夫よ」
「問題ありません。これらは早々に腐る物ではないですし、僕の手料理を振る舞いたいんです」
そう言うと彼は、ノゾミがしばらく使っていなかった調理器具を取り出すと洗いはじめた。
(いったい何を作る気なんだろう……)
「お腹空いたでしょう? 楽しみにしててくださいね」
ロマンは、気合の入った表情で、袖まくりをした。
出来上がったのは、新鮮な肉や野菜をふんだんに使った“プロも顔負けのメニュー”だ。
「わぁ、すごい! こんなご馳走、お店でしか見たことない。……でも」
ノゾミは歓喜しながらも、すぐ不安げな様子に変わる。
「でも……どうしました?」
ロマンが彼女の顔色をうかがいながら尋ねる。
「こんなにたくさん、私ひとりじゃ食べきれないわ」
なんだ、そんなことかと言わんばかりにロマンは安堵の表情を浮かべた。
「君は食べたいだけ食べればいい。残したら、あとは僕が食べますから」
(えっ! 私の食べ残しを食べるの?)
「何か問題でも?」
ロマンは笑顔をノゾミに向けた。
「うん、じゃあ、いただきます!」
(こんなに私を気に掛けてくれる人は、家族以来かもね……)
ノゾミは目頭が熱くなりそうだったが、彼が心配すると思い、美味しい手料理を噛み締めた。
「デザートにプリンもありますよ」
「そんないっぱい入らないってば!」
――さっき言ったことも忘れ、結局ノゾミはプリンまで平らげた。
食後は、ゲームをやった。
「一体そんなの何処から入手したの!?」
ノゾミが目を丸くするほど、古いボード・ゲームは、時間を忘れさせた。
「ロマン、明日の仕事に響くんじゃないの?」
遅くまでノゾミの部屋で過ごす彼がちょっと心配になり、ノゾミは尋ねる。
「僕はキツくはありません。何処ででも眠れますから」
そう言いながら、ノゾミの顔を見て察したのか、ロマンは宣言した。
「では、僕は“シンデレラ”になります!」
「へ?」
つまり、“0時には帰る”とロマンは言いたかったのだった。
――二日目も、ロマンはノゾミの部屋に来た。
まるで、「ただいま」とでも言わんばかりに。
食事の後は、アニメ映画も一緒に観た。
ロマンの父親の影響で、好きになったという古いアニメ。
彼は感無量といった感じで観入る。
――三日目。ロマンは、ノゾミの年齢に合わせ、“27本の白いバラの花束”を用意してきた。
そして、彼は毎日同じようにデザートを持参し、手料理も作ってくれる。
満腹になったノゾミは、冗談めかしてロマンに聞いてみた。
「ねぇ。どうして毎日、たくさん私に食べさせるの?」
「さぁ。どうしてでしょうね……」
彼は、背中を向けてキッチンを片付けながら、受け流すように答える。
「まさか、ロマン! “ヘンゼルとグレーテル”の魔女みたいに、私を太らせてから、そのうち食べる気じゃないでしょうね?」
ノゾミがそう言った途端、ロマンの動きはピタリと止まった。
かと思うと、彼はノゾミに真顔でジワジワとにじり寄りノゾミの耳元で囁く。
「そうだよ。僕は今すぐにでも、君を食べてしまいたいくらいだ……」
唇が触れそうなくらい、顔を近づけてロマンは彼女をじっと見つめる。
(本気で言ってる?)
突然のことに、ノゾミは心臓が鷲掴みにされたように動けなくなった。
「えっと、ワタシ、あの……」
狼狽る彼女を、数秒堪能してから笑い出すロマン。
ノゾミは何だか腹立たしくなって、軽く握った両手で彼の胸を叩き、そっぽを向いて見せる。
(子供みたい……でも、こんなに楽しいなんて)
そこには、気位が高く勝気な女医の姿も、辛辣な言葉の“鎧”を纏う姿も無い。
ただあるのは、スイーツより甘く、今にもとろけそうに幸せな“彼女自身”だった。
映画鑑賞の時間。
はじめは離れて座っていた二人の距離も、いつの間にか寄り添い合い、手を繋いでいた。
しかし、ノゾミよりも幸せを感じていたのはロマンの方だ。
彼女と二人きりでいる時間は、いつも彼の瞳は紫に揺らめいていた。
いつの間にかノゾミが眠りにつくと、ロマンは彼女に布団を掛け直し、アラームをセットする。
「ノゾミ、明日から仕事ですよ。また前みたいに頑張れるよう、ゆっくり眠ってください……」
彼はそう呟くと、眠る彼女の髪に触れかけ、少し迷って手を引いた。
灯りを消し、ロマンはもう一度、眠るノゾミを振り返り、玄関の扉をそっと閉じる。彼は、ささやかな幸せの余韻と、残り香だけを後にした。




