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【第1章】紫の気配(下)

彼女はまだ、“気のせい”だと思っていた。

リラクシング・ルーム(職員休憩室)の扉が開くと、部屋の片隅にロマンの姿があった。

彼は壁際に立ち、所在なさげに物思いに耽っている。

「天城先生、お疲れ様でした。座ったらどうです? 飲み物もありますよ」


コンフォート・ブリュー(心身調整飲料機)で、ノゾミはホット・ココアを選んだ。

二人はソファーに腰掛け、彼女は正面から真っ直ぐにロマンに聞く。

「天城先生、AIセンター“から”来たんですよね? センター“の”人間?」

「はい。天城AIセンター、医療部所属。医籍登録済」

「まるで“AI”みたいな喋り方をするんですね」

眉をひそめるノゾミに、ロマンは睫毛を少し伏せがちに答えた。

「今まで、AIばかりを相手にしてきたせいかもしれません。……例えば、その“コンフォート・ブリュー”も、僕が研究本部で設計開発したんですよ」

ロマンは説明しかけて止め、しばしの間を置き、まるで自分自身を嘲笑うかのように呟く。

「……僕は、人付き合いが、少し苦手なんです」

手先の“器用”さとは裏腹に、ロマンから人間くさい“不器用さ”を感じた。


ノゾミは、彼の横顔を盗み見ながら、ふと口をついて出た。「……何だか、変わった人ですね」

ロマンは少し遅れて反応する。「例えば、どこですか?」

「話し方も、歩き方も、どこか浮いてる」彼女は自分で、なぜ彼に“どうでもいいこと”を意地悪く指摘しているのか分からなかった。

「僕は、寝込んでいた時期が長かったので……。その頃の歩き方が癖になっているのかも……」

ロマンは肩を落として、ぎこちなく苦笑いを浮かべる。

ノゾミはバツが悪くなり、控えめに謝罪した。「初対面なのに、つい失礼なことを言いました。ちょっと気が立っていて……」

彼は、ノゾミの方を向いて笑顔で答える。「だったら、少し安心しました。あなたに嫌われたのではないなら」

彼女は返す言葉を失い、つい視線を逸らした。

(綺麗な顔して、どうしてそんなこと言うのよ……)

そのとき、入り口のドアが開き、看護師が声を掛けてきた。

「紬先生。さっきのお母さま、落ち着かれたようです」「そう。ありがとう」


やわらかい照明の中、森林の音が流れるリラクシング・ルームは、穏やかな時間を作り出す。

ホット・ココアを口にすると、甘い香りがじんわりと肺に広がる。ノゾミはやっと一息ついた。


ロマンは手ぶらのまま、彼女の紙コップに視線を向ける。

「……甘いんですね、それ」「そうですけど? 疲れた時は甘いやつに限るわー」「もしかして、甘い物がお好きなんですか?」

「甘い物が嫌いな女性なんています?……まぁ、いるかもしれないけど」


ノゾミは話題を変えた。

「ところで、天城先生。今日からですね」「はい。あなたが……紬先生が一緒なら、僕は嬉しいです」

(……それ、どういう意味?)

まさか自分がこんな言葉に弱いなんて、思ってもみなかった。

「“人付き合いが苦手”という割に口がうまいんですね」「そうでしょうか。僕の素直な気持ちです」

真顔で返されて、ノゾミは気持ちのやり場をなくした。


ふいにロマンが尋ねてくる。「紬先生は、お幾つなんですか?」唐突な質問に、ノゾミは面食らった。

「あ、あのですねぇ、普通は女性にそんなこと聞きませんよ!」

そう注意されても、彼は子供のように彼女を見つめ、答えを待っている。

「私は、今年で27……」「お若いんですね! じゃあ“加速課程”ですか? 優秀なんだなぁ……」

これまでの自分の努力を褒められるのは、ノゾミも悪い気はしない。「で、天城先生はお幾つ?」

「僕はー。今年で5歳です」

ノゾミは、口に含んだココアを吹き出しそうになり激しく咽せた。

「大丈夫ですか!?」

ロマンは驚き、心配そうにノゾミの様子をうかがいながら背中をさする。

「はー……苦しかった。反則よ! 私にばっかり聞いといて。あなた、本当は幾つなの?」

彼は何か言いかけて飲み込み、空白を挟んでから言う。

「僕は、今年29です」遠くを見るようなその視線が、言葉以上の何かを物語っていた。


「天城先生、大学は? 私はここですけど」

ロマンは数秒、言い淀む。そして背もたれに体を預けながら、思い返すように語り出す。

「僕もここだったけど、病気ですぐに休学して……結局、復学できないまま……」

(もしかして、悪いこと聞いちゃったかな)

「それから、海外の大学で学びました」

彼は答えながら、笑顔に戻っていた。


リラクシング・ルームを出て、二人は並んで廊下を歩き出す。

(隣にいるだけで、やはり彼から心地いい匂いがしてくる……)


その足でICUへ行き、ノゾミは先程の患者の容態を確認をした。

「うん。今のところ安定していますね。天城先生、どうですか?」

ロマンも同意して頷く。

看護師へ今後の指示をして、二人はICUを出た。


ロマンはノゾミに歩調を合わせてくれている。

彼のさりげない気遣いが伝わり、彼女は興味から聞いてみた。

「……天城先生、いつもあんなふうに一人で過ごしてるんですか?」

ロマンは一瞬考え、わずかに首を振った。

「そう見えますか?」

「何となく、近寄りがたいっていうか……」

(違う。本当は私は、彼に近づくのが怖いのかもしれない)


ロマンは、どこか綻びを感じさせる微笑みで答える。

「僕は……自分が人からどう見られてるか、あまり分からないんです」

ノゾミは思わず、言葉に詰まった。

(私自身、彼がどういう人なのか、まだ分かっていない)

それでも、いつの間にか彼女の警戒はほぐれ、無意識に“心”は彼の方へと傾いていく。


「さっきは助かりました」

ロマンの初日の働きぶりを評価すべきなのに、ノゾミはすっかり忘れてしまっていた。

「あなたの ……誰かのお役に立てたのなら、僕は本望です」

彼は“当然のことをしただけ”、とでも言ってるようだ。

「天城先生のように、冷静で、正確に、ミリ単位で、素早く調整するなんて、普通なら難しいことですよ。しかも、緊急事態で一刻一秒を争うときは特に」

ロマンは洗練され過ぎている。真実の重さが、静けさに拡がっていく。

「父の躾が厳しかったんです。緊急時こそ最も重要なのは“冷静さ”だと、幼い頃に教わりました」

彼は歩きながら、ポケットから小さな消毒用のジェルを取り出し、指先を丁寧に擦り合わせる。

その動きで、ロマンの今日の緊張と、練習の積み重ねが見えるようだった。


ノゾミは、視線を逸らしながら言った。

「それでも、初日の現場でいきなり救急なんて、もっと戸惑いそうなものですけど?」

「戸惑いましたよ。でも、それを周囲に気取られたら、患者や看護師は、もっと不安になります」

(確かに。彼の言い分は、少しも間違っていない)

ノゾミは、その一言一言の角度を確かめるように耳を澄ます。

「それに……“支える”と決めているので」(“支える”なんて言葉、軽く使う人ほど信用できない——はずなのに)ロマンの言葉は、不思議な余韻を残した。


ノゾミは軽く笑い、呼吸を整えた。

「期待はしていないわ。口先だけの人は星の数ほど見てきた」

「期待されていなくても、僕は紬先生の期待に応えるつもりです」

返ってきた彼の声は耳障りが良く、そこに迷いはない。


「何か、気になることがあれば、言ってください」

ロマンの言葉は慎み深く、それでいて真摯だった。

「そういえば、天城先生は、どうしてこの病院へ来たんですか?」

「それは……“いばら姫”に会うためです」

「いばら姫?」

ノゾミは思い出した。男性医師達の間で、自分が裏ではそう揶揄されていることを。


——あれは、医師になりたての頃。


医局に入ろうとノゾミがドアに手を掛けようとしたとき、中から数人の話し声が聞こえてきた。


「なぁ、あの紬女史。お前らどう思うよ?」

「あー。見た目は抜群なんだけど、性格が残念過ぎるなぁ。刺々しくて近寄りがたいわ」

「そこなんだよ。“綺麗なバラには棘がある”どころか、あれじゃあ“いばら姫”だな」

「仮に、いばらを抜けて城に辿り着けても、言葉の棘でもっと血だらけになるんじゃねーの?」

「お前、上手いこと言うじゃん。しかし、あんなんで“王子様”みたいな猛者は現れないだろ」

「ジャンケンで、誰か食事にでも誘ってみるか。ゲームだよゲーム」

「俺はパス。成果の見込めないことに、時間と金と気を遣うなんて不毛だ。試す余地すら無い」

「加速課程だからって、お高くとまってるんだか。女らしい可愛げがないんだよ」


そんな会話を耳にして以来、彼女はナース・ステーションで過ごすことが多くなったのだ。


ノゾミは憮然としてロマンに言った。

「それって、私のこと? あまり気分のいい呼び名じゃないですね」

「なぜです? いばらに閉ざされた城に眠る、心優しくて、美しい——手の届かない女性。僕はそう解釈しています」

ノゾミが返答に困り、複雑な気分で歩いていると、ロマンの視線がこちらに向けられていた。

神秘的に揺れる紫の瞳は、彼が決して悪意から言ったのではないことを物語っている。

「じゃあ、褒め言葉として素直に受け取っておきます」

ロマンの香りや言葉には、ノゾミの“心の鎧”を脱がせてしまう効果があるのかもしれない。


「では、僕からも質問していいですか?」

「どうぞ」

「君は、どうして医師に?」

突然の問いに、ノゾミは驚いた。

(何なの、この人! 今日会ったばかりで、“先生”から急に“君”呼ばわり!? 年下だから?)

そのうえ、自分でも忘れかけていたことを問われ、考える間もなく思わず口が動いた。

「えっと……私は、人を助けたかったから」

ノゾミは自然に答えたが、言葉にすると意外と軽く感じる。

だが、“初心の決意”は、彼女の中で今でも土台として確かにあるのだ。

「助ける……」

ノゾミの言葉を、何度も反芻するロマンの声が遠くで反響していた。


談話室の灯りが見え、控えめな笑い声がしている。

そこには以前、ノゾミが救急対応した患者と家族が座っており、お互いの手をそっと握り合う。

「もしかして、君が助けた患者さん?」

「そうなのよ。あんなに回復して、私も嬉しいわ」

その光景が、医師という職業の救いの象徴に思えた。


二人は静かに歩みを進め、時折、足音のリズムが揃う。

ノゾミは足音が一致する度、なぜか安堵を覚える。

誰かと歩調を合わせるだけで、心が整うことがあるのだと彼女は初めて知った。


ふと、ロマンが立ち止まり、窓の外を見つめた。その横顔は、まるで遠い記憶を探るかのよう。

(なぜかしら……初めて会った人に、懐かしさを感じるのは)

ノゾミは自分の内側で答えを探す。

(彼は誰かに似ている気がする……)

記憶のどこかにある、“守りたい瞬間”と結びつく何かに触れたのかもしれない。


「行きますか」

ロマンが静かに言う。ノゾミは軽く頷き、二人はまた歩き出す。

“世界にはまだ救われる余地がある”と、彼女はそう感じた。

夜間モードの廊下の明かりが、道標のように目の前に続いている。

やがて二人の影は、夜の病院の奥に溶けていった。


どこから来たのか、病院の外では数台のゴース・トアイ(ステルス偵察機)が飛び回っている。

追跡対象は——ロマン。

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