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【第1話】紫の気配(上)

この出会いは、偶然か必然か。

病棟のLEDライトは、時を告げるように色調と明暗が変化する。

空気清浄ユニットから漂う微かなオゾンの匂い。

壁面に組み込まれた自動除菌パネルが、歩くだけで靴底から舞う微粒子まで浄化していく。

その澄みわたる静けさの中には、確かに命を守るための温度が息づいていた。

時折、ナース・ステーションから聞こえる、端末のタッチ音と低い通知音。

透明なパネルの表示が点滅し、データが絶え間なく流れていた。


モニターには、18歳を迎えた若者たちの“成人記念”リストが整然と表示されている。

(ツムギ) 希望(ノゾミ)は、カルテをスクロールしながら、チェック・ボックスを一つずつ埋めては、深く息を吸った。


「明日も50件以上……」

若い看護師が小さく呟いた。

「18歳って、やっぱり特別ね」

「合理的だから、って言われても……」


ノゾミは、自分の考えを言いかけて抑え、チェックボックスを埋め続けた。

(慣れたふりをしているだけ。本当は誰もが疑問を抱いている)

乾燥した指先がタッチ・パネルにひっかかり、思わず「つっ!」と舌打ち。

(合理的、ねぇ……)


「紬先生。指先、乾いてます?」

「うん、センサーがたまに誤反応するの」

「保湿、置いておきますね」

「ありがと」


ノゾミはキャップを開けず、親指と人差し指をこすり合わせた。

まだ季節的には弱い陽射しも、窓を通して広がれば、仄暗い場所まで鮮やかに染め上げていく。

(ほら、ここに夕陽が届くだけで、“渇き”も少しやわらぐ)

ふと目をやると、誰かがこちらへ歩いてくる。


その長身の青年は夕陽を背に、淡い金色の髪がきらめき、人の枠を外れたように神々しかった。

救急の現場や入院病棟で幾度も“死神”を連想させる影を見てきたノゾミの目に——それは、まるで“天使”が現れたかのように映った。

彼の歩調は緩やかで乱れがなく、一歩ごとに靴音が床に吸い込まれていく。


(綺麗——)


思わす動けなくなり、ノゾミは息をすることさえ忘れていた。

見慣れた場所なのに、彼の周囲から世界が変わっていくようだ。

「新しい先生?」背後で若い看護師たちが囁く声が耳に届く。

「派遣のドクターだって。提携先の——天城AIセンターから」

「こんな綺麗な人、初めて見た……」

彼女たちは目を輝かせながら口々に噂を交わした。


青年は足を止め、流れるような動作で軽く会釈をした。

(何だか、いい匂いがする……。この人から?)

ガラスのように澄んだ青い瞳。

その青がノゾミに向けられ、ほんの一瞬だけ“紫”へと軟らかく揺らいだ気がした。

瞬きすると、やはり青だ。

(光の加減かしら? 見間違い?)

数秒見とれてから我に返り、ノゾミは慌てて視線をカルテへと戻した。


そのとき、ナースス・テーションの上に、オーロラ・ビーコン(極光信号灯)がふわりと浮かぶ。

「先生、オーロラ・ビーコン、救急モードに移行しました!」

同時に救急アラートから、無機質な声が室内に響く。

「救急搬入、女子高校生、頭部打撲の疑い。意識レベルJCSⅡ‐10(呼びかけで開眼する程度)。到着まで3分」

(来る!)


ノゾミは素早くG-Ride(院内用反重力移動機)に乗った。

発進チャイムが三回鳴ると、G-Rideは滑るように走り出す。

気付けば、“あの”青年のG-Rideが、ノゾミの斜め後ろから追ってきている。

「あなたは?」ハンドルを握りながら、彼女は振り返りざまに問う。

天城(アマギ) 浪漫(ロマン)です。今日からこちらに派遣されてきました」

「派遣?——なら、ここのやり方は見て学んでください」

「はい。見て、学んで、“支える”つもりです」

彼の意味深な言い方に、ノゾミは違和感を覚えた。


救急室の自動ドアが開き、ストレッチャーが滑り込む。救急隊の隊員が要点だけを畳みかけた。

「転倒機転不明、頭部右側に腫脹。嘔吐あり。バイタル——BP138/80、HR92、SpO2 98%(自発呼吸)、体温36.8。搬送時グラスゴーE3V4M5」


ノゾミは、応答しながら指示をする。

「ベッド1へ。酸素リザーバー、流量10。血糖測定、右前腕18Gルート確保、採血はCBC、生化、凝固系、CRP、タイプ&スクリーン。——」

「はい!」と三人が散った。


患者の瞼が薄く開き、焦点の合わない視線が宙を泳ぎ、かすれ声が出る。

「ぃ……痛いぃ……」

頭頂から後頭部へ指の腹でそっとなぞる。皮下血腫、骨の段差は——今のところ触れない。

(皮下の感触——骨は途切れていない。ほっとするのに、ほっとできない)


そのとき、横から伸びた手が酸素マスクの位置をわずかに直した。

「顎が落ちやすいです。ここ、2ミリ上げます」

ロマンは、定規を当てたように正確な角度で下顎を支え、頸が反らないよう片手で固定した。

「喉頭の前を押さえずに、顎先だけで牽引……」

(教科書の挿絵みたい——)

思わず声に出かけて、ノゾミは飲み込む。

(落ち着きすぎている)

「SpO2 98維持です」「ライン確保、右前腕18G入りました」「血糖106」次々と報告が飛ぶ。


オプティ・スキャン(非接触型眼科スキャナー)が患者の視路を走査する。

「自動解析、瞳孔径3ミリ、左右差なし。網膜・視神経も急性所見なし」

言葉にすると、スクリーンの端に数値が記録されていく。

彼女は患者の腕を摩りながら、大きめに呼びかける。

「聞こえるー? ここは病院よー。今から検査するけど、怖くないからねー」


一瞬だけ目が合うが、すぐ逸れた。吐き気の波が患者の身体を震わせる。

「嘔気、まだあります」

看護師の言葉に、ロマンが素早くベーシン(嘔吐盆)を受け取った。

「頭は動かさない方がいいです」

患者の肩を固定し、吐物が気道に入らないよう体位だけを静かに変える。

(彼の動きは迅速で的確だわ)


「では、リング・スキャナー(全身3D診断スキャナー)作動します」

ノゾミがそう言うと、全員が一斉にベッドから数歩後退する。

その声に応じて、ベッドの頭側に三本の緑の光の輪が浮かび上がった。

(頭部外傷の初期診断はこれが一番速い)


患者を中心に回転するそれは、フラフープのように絶妙なリズムで連動しながら、頭の先から爪先まで数回上下を繰り返す。

異なる三つの周波数が重なり合い、室内に微かな振動が満ちる。

その揺らぎは、患者の細部に至るまで緻密に読み取り、データを静かに描き出していく。

(この時間だけは、いつもとても長く感じる。そして緊張する——)


ノゾミは、薄型のARメディカル・グラス(医療用ARメガネ)を二つ取り出した。

一つを装着し、ヴィジョンを起動すると、立体的な人体像が宙に立ち上がる。

血管は赤く脈打ち、骨は白く、臓器はそれぞれ特有の色を宿していた。


もう一つをロマンへ差し出す。「天城先生、こちらを」

短い声に、わずかな緊張と試すような響きが混じる。

ロマンは無言で受け取り、視界に広がる像をじっと見つめた。

ノゾミは空間を指先で広げ、頭部を拡大表示する。

解析が進むにつれ赤い線がじわりと滲み、その外側を細い骨折線が走った。

(灰の海には——三日月は無い。硬膜外だ。まだ浅い。助かる)


そのとき、ロマンが静かに口を開いた。

「浅い。急性硬膜外血腫の可能性。出血は少ない……骨折線はここだ」

ノゾミは彼の顔を盗み見て、胸の奥でつぶやいた。

(もしかして慣れてるの?)


ロマンはARグラスを外し、ベッドの頭側を少しだけ上げた。

「搬送の前に、腫脹を抑えるため15度ほど挙上しておきます」

ノゾミは頷くと、スタッフに搬送を指示した。

「鎮静は最低限。観察入院、家族へ説明。頸椎はソフトカラーで保護」

次々と指示が飛び、スタッフが復唱する。

カラーネックを装着するロマンの手元は迷いがなく、患者の眉がわずかに解けた。

(無駄がない)


ベッドを運ぶ途中、患者がまた吐き気を訴える。

ロマンは、天井照明の眩しさから目をそらすように、患者の顔を自分の胸の方へ軽く向けた。

目線が落ちると、吐き気がいったん止んだ。

ノゾミは横から小声で問う。

「天城先生、酔うタイプ?」

「いえ、視覚刺激を減らした方がいいですから」

(発想がきれい)


ノゾミは申し送りを簡潔にまとめた。

「現時点では観察入院。意識・瞳孔・バイタルを1時間ごとにチェック。再嘔吐があれば再スキャンを検討」

「はい、採血の結果が来たらまた」


スタッフが去ったあと、静けさに残った残響。

ノゾミはマスクを外し、前髪をかき上げる。

生え際は汗で濡れていた。


少しだけ距離を取り、ロマンが斜め後ろに立っている。

「天城先生、現場経験はどれくらいなんですか?」

まるでノゾミの独り言みたいに口から出ていた。

彼は小さく答えた。

「多くはありません。何事も、一人前になるには時間が掛かりますから」

彼女は彼の目を覗き込み、真偽をもう一度確かめた。

「本当に?」問いかけてノゾミは我に返る。

(今はそんなことより、思考の方向を患者へ向けなければ)


「紬先生、搬送患者のご家族がお待ちです」

 看護師の知らせに、ノゾミは軽く返事をしてからロマンに告げる。

「天城先生、私はご家族に説明してきますので」

「わかりました。必要なら呼んでください」

(必要なら、か……)

簡潔な言葉だが、その声は過不足なく頼れる響きを持っていた。

ノゾミは踵を返し、待合室へ向かった。背後に、足音が一つ、遠ざかっていく。


扉の向こうで足がもつれる音がして、母親が恐る恐る入ってきた。

「娘は! 無事でしょうか!?」

「先ずは落ち着いて……。どうぞお掛けください」

ノゾミはすっと椅子に腰かけ、手で導くように母親にも座るよう促した。

母親は何度も頭を下げ、スカートをぎゅっと握りしめる。

指の先の白さが、張り詰めていた時間の長さを物語っていた。

「娘さんは、今は安定しています。頭に骨折はありますが、入院して様子を見ましょう」


「ありがとうございます、先生……。でも、娘は……あの、来月で18歳で、その……成人記念が。——こんな状態でも、大丈夫でしょうか……」

動揺したせいか、母親は口が渇いて喋りにくそうだった。

ノゾミは小声で看護師に、ホット・ココアを持ってくるよう伝える。

「お気持ちは分かります。先ずは、命を守ったあとで考えましょう。今日いちばん大事なのは、娘さんが今ここでちゃんと“息をしている”という事実ですよ」


母親は口元を花柄のハンカチで押さえ、肩を小刻みに震わせた。

目は真っ赤に充血し、小さな啜り泣きがこぼれている。

(18歳。ノゾミ自身の経験が、フラッシュバックした)


「先生……あの子は……制度に耐えられないんじゃないかと……」

母親の声は途切れ、深いため息へと変わる。

その言葉に、ノゾミの胸が軋んだ。

「期限は20歳(ハタチ)。ですが、“制度”とはいえ、“心”は相談して決めればいいんです」

ノゾミは自分でも驚くほど、柔らかい声で話していた。


「はい……」

母親の目尻から涙が溢れて落ちた。

「先生……ありがとうございます……」

ノゾミは微笑みながら、母親の手にホットココアの紙コップをそっと握らせた。

「手が震えていますよ。少し飲んでください。身体は正直ですから」


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