第八章 最期の夜
その夜、翠松園は不思議なほど静かだった。
面会時間は終わり、廊下の照明は落とされ、非常灯だけが淡く床を照らしている。空調の低い音と、遠くで鳴るナースコールが、夜の時間を刻んでいた。
夜勤者は一人だった。いつもと同じ配置、いつもと同じ条件だ。違うのは、舟木隆の呼吸が、これまでになく浅く、速くなっていたことだけだった。
午後十時。巡視の際、夜勤者は舟木の様子を確認した。目は閉じているが、胸の上下が大きい。喉元から、かすかな喘鳴が聞こえる。
「……寝ています」
その判断に、確信はなかった。ただ、声をかけても反応が薄かったため、そう記録するしかなかった。
〈就寝中。呼吸音やや荒いが、大きな変化なし〉
十一時過ぎ、ナースコールが鳴った。舟木の居室だった。夜勤者が駆けつけると、舟木は身体をよじり、左手で胸元を掴んでいる。口の端から、泡立った唾液が漏れていた。
背中を叩く。体位を変える。咳き込みは一瞬強まったが、すぐに弱まった。
「落ち着きましたか」
問いかけに、舟木は答えない。ただ、呼吸の間隔が不規則になっている。
吸引器は廊下の収納にあった。だが、使用には判断が必要だった。夜勤者は時計を見た。別のユニットからもコールが鳴っている。
「少し、様子を……」
その言葉は、途中で途切れた。
午前零時過ぎ。再び巡視に入ったとき、舟木は仰向けのまま、動いていなかった。呼びかけても反応がない。呼吸音も聞こえない。
慌てて看護師に連絡し、救急要請がなされた。救急隊が到着した時点で、心肺停止。蘇生は行われたが、反応は戻らなかった。
死亡確認時刻は、午前一時二十二分。
嘱託医が呼ばれ、状況が説明された。夜間の経過、呼吸状態、対応内容。すべては記録に基づいて語られる。
医師は頷き、簡潔に告げた。
「誤嚥性肺炎でしょう」
それ以外の言葉はなかった。
死亡診断書が作成される。直接死因、誤嚥性肺炎。発症から死亡までの経過は「不詳」。
誰も異議を唱えなかった。唱える材料が、どこにもなかったからだ。
三浦恒一は、その夜の記録を入力した。
〈夜間帯、呼吸状態急変。救急要請するも死亡確認〉
画面に表示されたその文章は、あまりにも整っていた。そこには、迷いも、ためらいも、躊躇も書かれていない。
最期の夜に起きたことは、すべて記録された。
ただし――
起きなかったことについては、どこにも書かれていなかった。




