第七章 悪化
舟木隆の状態が「悪化した」と誰かが明確に口にすることはなかった。代わりに使われたのは、「変化が見られる」「注意が必要」といった、輪郭の曖昧な言葉だった。
朝のバイタル。体温は三十七度台前半。血圧はやや低下。SpO₂は九十前後を行き来している。高齢者としては、珍しくない数値だ。三浦は数値を入力しながら、その裏にある息苦しそうな呼吸音を思い出していた。
〈バイタルサイン、概ね安定〉
その一文が、現実を整えてしまう。
食事量は減っていた。半分、時には三割。咳き込みも増えている。だが、看護記録には「摂取量低下傾向」とだけ書かれ、医師への報告基準には該当しなかった。
夜間、舟木は何度も覚醒した。唾液が喉に溜まり、呼吸が乱れる。夜勤者は背中をさすり、水を少量ずつ口に含ませた。それ以上の介入はしなかった。
「朝になったら、看護師に伝えます」
その言葉は、安心させるためのものだったのか、判断を先送りするためのものだったのか、誰にも分からない。
朝の申し送りで、舟木の件は短く触れられた。
「夜間、呼吸少し荒かったけど、落ち着いてました」
誰も質問しなかった。時間がなかったからだ。申し送りの後には、すぐに次の業務が待っている。
嘱託医の往診日が近づいていた。だが、それまでに医師へ連絡するほどの「決定的な変化」は、どこにもなかった。
三浦は、自分が何を待っているのか分からなくなっていた。数値が崩れるのを待っているのか。誰かが「これはおかしい」と言い出すのを待っているのか。
ある昼下がり、舟木は食事中に激しく咳き込み、しばらく呼吸ができなくなった。顔色が変わり、目が見開かれる。
「吸引しますか?」
新人職員が小声で尋ねた。
「……少し様子を見よう」
三浦はそう答えた。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
数分後、舟木の呼吸は落ち着いた。顔色も戻った。
「今のところ、大丈夫そうですね」
その一言で、事態は収束したことになった。
記録には、こう残る。
〈食事中、むせ込みあり。一時的。経過観察〉
その夜、三浦は自宅で眠れなかった。天井を見つめながら、同じ問いが頭を巡る。
――まだ、報告すべき段階ではないのか。
だが、その問いに答えてくれる基準は、どこにもなかった。
悪化は、急激に訪れるものではない。静かに、しかし確実に、日常の内側で進行していく。
そしてその進行は、いつも記録の外側で起きていた。




