第六章 省略の連鎖
舟木隆の入所から一週間が過ぎた頃、ユニット内の空気は目に見えて変わっていた。特別な事件が起きたわけではない。転倒もなく、発熱もなく、救急搬送もない。ただ、些細な「省略」が、確実に積み重なっていった。
朝のバイタル測定。血圧計は居室に持ち込まれなかった。ナースコールが鳴り、別の利用者の排泄介助が重なったためだ。記録には「測定済」と入力される。数値は、前日のものを少しだけ書き換えた。
昼食。刻み食は用意されていたが、トロミ剤の在庫が切れていた。発注はされている。届くのは明日だ。それまでの一食くらい、問題ない――そう判断された。
〈食事摂取量 八割〉
その一文が、すべてを覆い隠した。
口腔ケアは、夕方の慌ただしさの中で後回しにされた。記録欄にはチェックが入る。実施したことになっているから、次の勤務者は疑わない。
夜勤。舟木は眠れず、何度も体位を変えようとした。右半身は動かない。ナースコールを押す指先が、かすかに震える。
コール音は鳴った。だが同時に、別室でも鳴った。さらにもう一つ。
夜勤者は一人だった。
最初に対応した部屋で時間を取られ、舟木の居室に辿り着いたとき、彼は荒い呼吸をしていた。
「大丈夫ですか」
問いかけに、舟木はうまく答えられなかった。言葉が出ない。唾液が喉に絡み、苦しそうに咳き込む。
その場では、背部叩打も吸引も行われなかった。機材はあったが、夜勤者は一人で、判断に迷った。
「少し様子を見ます」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。
翌朝。舟木は生きていた。発熱は微熱程度。SpO₂は測定され、記録に残った。
〈夜間帯、呼吸状態やや不安定。様子観察〉
嘱託医への報告はなかった。報告すべき基準に、明確には当てはまらなかったからだ。
三浦恒一は、その記録を入力しながら、指が止まるのを感じていた。ここに何を書けばいいのか。何を書かなければならないのか。
結局、彼は既存の文言を選んだ。それが最も安全で、最も波風の立たない選択だった。
省略は、単体では問題にならない。だが連なったとき、それは確実に一つの方向へ人を押し流す。
その流れの先に何があるのかを、三浦は知っていた。知っていながら、足を踏み出すことはできなかった。
記録は今日も整い、異常は報告されない。
省略の連鎖は、静かに続いていった。




